チクル妄想工房

ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

ぱすてるメモリーズ 5話

最初は、なんて空っぽな回だろうと思いました。5話の内容は言うなればちまりの成長譚なのですが、そういった表層はぱすてるメモリーズにおいては意味を持たないだろうと考えていたからです。本作品の各話のストーリーそのものの分析には元々興味はありませんでしたし、視聴直後は今回ばかりは感想が書けないかなと諦めていました。
けれども、あれこれ考えているうちに、今回もいくつか気になる点が見えてきました。

結論から言うと、ちまりの心情描写に終始していたという点が、5話のポイントかなと思います。


本題に入る前に、4話の補足をしようと思います。

 

4話の補足

作品の価値について

4話では、「みにばす!」の本はおもちゃと一緒に無造作に箱に放り込まれていました。本の扱い方としては普通あり得ないことです。そのうえ、作品設定を聞いただけで内容を知らなかった従業員からは変態ラノベ扱いされています(実際に読んでみることで最終的に評価は引っくり返りますが)。
一方で、店内で客に提供するための本はきちんと棚に陳列されています。店長の指示なのか、従業員も客も興味を示す人が少ないであろう、ハードカバーの普通の本や、中身は写真か絵画と思われる額も飾られています。
1話では、「うさぎさんカフェへようこそ」は何冊も手に入る巻もあれば、一冊も見つからない巻もありました。同じ巻が何冊見つかろうが、合計でどれだけ大量に集まろうが、全巻揃えるという目的を果たすまで本探しは継続されます。
彼女たちが救ってきた「うさぎさんカフェへようこそ」も「薔薇色の乙女」も、それを好きでいる人がいて、その人が作品を再び求めたからこそ、従業員の目に入り、ウィルスから救われたのだと言えます。

こうした描写からは、コンテンツあるいはそれを提供するためのモノの価値というのが、恣意的に決められていることが読み取れるのではないかと考えます。

「うさぎさんカフェ」は全巻揃えることが重要なのであって、同じ巻が複数あってもあまり意味はないのです。棚に陳列するときに同じ巻を3冊も4冊も並べるでしょうか。通常はすべての巻を1冊ずつ並べるはずです。これは、数の多少により価値の大小が定まるということです。漫画を揃えることに限らず、収集物の価値がその希少性により左右されるというのは一般的なことです。
作品を救うというストーリーにしても、どんな作品であれ、従業員たちの目に留まらなければ忘れられていく道をたどるだけです。目に留まったとしても、従業員がその価値を知らないならば、「みにばす!」のようにガラクタと一緒にしまわれたり変な作品として捨て置かれてしまうかもしれません。

本作の設定として、秋葉原からオタク文化が消えたという出来事は、「全ての作品」が失われつつあることを意味します。しかし彼女たちは「全ての作品」を救うことはできないし、救おうともしていません。明らかに個人的な事情から作品の価値を定め、救うべき作品を選んでいます。

 

12人という人数について

12人というのは大人数ですが、これだけ揃えるのには理由があるでしょう。
まずは、以前も書きましたが、美少女のレパートリーとして必要であったこと。そして、各話の動機として活かされているように、どんな作品でも誰かが知っている、好きである、興味を持つ、というオタクの集合的知性としての機能があります。つまり、どんな作品でも救える可能性があるということです。
他にも、3話の感想でもちょっとだけ触れた話題ですが、作品の好みも接し方も、鑑賞体験から受け取る価値も、個人によって様々であることの表現でもあります。同様に、オタクたち自身の個性も人それぞれです。一口にオタクといっても一人一人は別の人間ですから、仮にその性質に何かしらの共通項があるのだとしても、当然いろんなひとがいるってことです。

 

では、本題に入りましょう。


本題

ちまりの心情描写しかしていない

5話はこれまでの話とくらべて決定的に異なる点があります。全編通してひとりの登場人物の心情描写しかしていないという点です。ちまりの心情とその変化以外に、何ひとつと言っていいほど内容を持たないのです。非常に徹底しています。

物語の動機として、ちまりの内面的な問題がありました。ちまりは自分がウィルスとの戦いで仲間の足を引っ張っているのではないかと自信を無くしています。その自信の無さは日常のコミュニケーションにも影響し、将棋の相手をしてほしいというイリーナの依頼を拒否してしまいます。そこから冒険が本格的にスタートします。
簡単に言えば、ちまりの内面の問題を解消するのが5話のストーリーです。
ちまりが自分など役に立たないだろうと考えてイリーナの誘いを断ると同時にウィルスが現れ、作品世界での冒険を経て、成長し、現実世界に帰還します。そして、再びイリーナと将棋を指すシーンに繋がります。5話の設計は比較的はっきりしています。
従業員たちを「美少女の亡霊」と見なすならば、彼女たちの「成長」を描くことはわたしの想定からは外れるのですが、5話の内容を考えると筋は通っています。

ちまりの問題は、単に自信が無いだけで、人格に欠陥があるわけではないし、彼女の果たすべき役割を全うできていないということもありません。彼女の行動が周囲を巻き込む重大な問題を引き起こしたわけでもありません。
5話ではちまりの自分自身への評価、チームの中での役割の再確認、そういった内的な問題のみが取り上げられ、最終的には解決します。その過程は、客観的には特別な事件を伴わず、ウィルス退治という日常の習慣のなかで、彼女は自らの課題を進展させる切っ掛けをさりげなくつかむことになります。


5話における鑑賞者と作品との関係

一人の登場人物の内面にフォーカスして物語を構成するというのは4話までとは明確に異なる態度です。4話までは鑑賞者の作品との接し方、作品がもたらす鑑賞者同士のコミュニケーションといった話題に注目していました。その中で、個々の作品に対して特別な思い入れを持った人物が必ずいましたが、特定個人の内面を掘り下げることはなく、内面的な変化を緻密に描くということも無かったと思います。
ところが、5話は状況が異なります。ちまりと「しょうおうのおおしごと」との間に深い関係はありません。ちまりが「しょうおうのおおしごと」の世界に出向くことになったのは、たまたま目の前に知っている作品が現れたことが理由です。ちまりに限らず、「しょうおうのおおしごと」に格別の思い出を持つ人物は誰一人登場していません。5話の物語の動機は「しょうおうのおおしごと」という作品の側にはなく、ちまりの内面的問題にあります。

言ってしまえば、扱われる作品は「しょうおうのおおしごと」でなくてもよかったのです。「しょうおうのおおしごと」という特定の作品と、そのファンとの関係は、5話のストーリーの根幹には含まれていないのです。

そうであっても、5話もこれまでの回と同じように、鑑賞者と作品との関係はきちんと描かれていたと言えます。5話で表現されているのは、作品世界での冒険を通じて、ちまりが成長する様子でした。つまり、作品を鑑賞するという体験により、鑑賞者が何かを学んだり、人格的に成長したりするという関係が、5話では語られているということです。


ヒロインはまいちゃん

今回の作品世界では、戦闘の主力を担っていたのは従業員ではなく、ゲストキャラの少女でした。詰将棋という特殊なルールで挑んでくるウィルスに、ちまりも他の二人も打つ手がなく、唯一戦えるのが、作品世界の登場人物である「しょうおうのおおしごと」のヒロイン「まい」でした。マザーウィルスを倒し、作品世界を救うのも、まいの力によってです。従業員の仕事は将棋(チェス、トランプなどもいましたが)で勝負を挑んでくるウィルス以外の雑魚を排除し、主力戦闘員のまいをサポートすることでした。


ちまりの成長とは

ちまりの問題と絡めて考えてみましょう。普段の戦闘では、渚央と南海が前衛、ちまりは後衛のサポート役でした。2人はちまりのサポートを頼りにしているのですが、ちまりはそうは思っていなく、自分は役立たずで足手まといだと考えています。
今回の作品世界では、相手の主力と戦えるのがまいしかいないため、3人ともサポートに回ることになります。ちまりにとっては普段通りの役割のはずですが、彼女は無力な自分に焦りを感じているため、積極的に前に出て戦う役目を買って出ようとしますが、ことごとく失敗に終わります。一方、渚央と南海は自分の役割を理解し、まいのサポート役として適切に仕事をこなそうとしています。

ちまりの失敗には、彼女の能力的な適性を表現する意図もあったのでしょうが、別の意味もあるはずです。ちまりは自信こそ失っていますが、仲間の評価からすれば、サポート役としては実際に有能です。ゆえに成長描写において、先頭に立って戦う役目で成功体験をするべきではないのです。

普段の彼女に重大な欠落の無いことが重要です。ちまりは物語的に決定的な変化を求められてはいませんし、彼女自身もそれ自体を目的とはしていません。普段からパーティ内で十分役に立っているサポートメンバーとしての能力を、他者からの言葉によって確認し、今の自分に自信を持つことがちまりには必要なのでした。
ですから、5話では普段と同じ役割を与えられ、普段と変わらない仕事を遂行することが求められたのです。


作品鑑賞の体験は個人的なもの

5話で作戦の中心人物となるのはゲストキャラであるはずのまいでした。登場シーンでは、従業員の3人が詰将棋亀に襲われているところに颯爽と現れ、亀の群れをなぎ倒してゆきます。敵側の主戦力である亀やマザーウィルスに対抗する力を、まいだけが唯一持っていました。従業員たちはまいをサポートすることが役目です。5話で従業員のうちから主役として抜擢されたちまりもその一人です。彼女たちは手助けはするけれど、ヒロインはあくまでも登場人物であるまいです。
5話のこの配役には重要な意味があります。作品鑑賞という体験と、サポート役に徹する=(作品世界で)主役として活躍しない、ということが重ねられています。

ウィルスとの戦闘に独自ルールが設定されているのには、従業員を戦闘から排除するという機能があります。世界独自のルールで戦えるのはその世界の登場人物のみです。将棋は現実世界にも存在するゲームですが、一般人である彼女たちがまいと同等の戦力となることはできません。だから機能としては世界独自のルールのようなものです。
それは「あっち」と「こっち」を分けるルールです。5話では、戦闘力を発揮できない従業員たちは、サポートとして一応参加しているとはいえ、自分が守れないルールによって行われるゲームに臨むときの立場は傍観者です。今回の彼女たちは、そしてちまりは作品の鑑賞者なのです。ウィルスたちとの戦闘において彼女たちが大きな成果を上げることはありません。鑑賞者は作品世界に介入することはできないのです。4話までとは異なり、5話はそういった設計になっています。

ちまりは普段からサポートの役回りであり、今回のストーリーでは普段通りの仕事の中での自己肯定が目指されていました。積極的な戦闘は失敗によってことごとく否定され、まいのサポートに徹することを強いられます。まいの活躍を見届けることこそがちまりの本当の使命なのでした。自分のできることを精一杯やればいい、という自分の目指すべき姿勢を、自分のできることを精一杯やる以上のことができない状況で、まいの登場する物語の一部始終を見守ることによって、ちまりは知ることになります。

4話までの回では、作品自体や作品鑑賞という行為をコミュニケーションの手段や、思い出の共有手段として扱っていました。ところが、5話では、個人的な鑑賞体験と、そこから得られる成長という側面をクローズアップしています。作品鑑賞を、他者と共有する体験としてではなく、個人的な体験として描く視点を持っています。
ちまりのパートナーの2人は将棋に興味がなく、ちまりもまた将棋が特別好きという訳ではないようです。ちまりと2人は作品に関連した共通の興味ある話題を持っていません。また2人がちまりに対して口にするのは、現実でのちまりとの関係についてや彼女への肯定の言葉だけ。それはちまりの心を導くのみです。作品世界でのちまりの行動を強く束縛するような指示や意見はしません。渚央と南海はちまりの作品体験に口出ししないし、彼女たちの言動がちまりの鑑賞態度を決定的に方向づけたりもしません。
冒険の基本的なプランが決まれば、あとはちまりはちまりの意思で行動します。そうしてあらゆるものを見聞きし、まいの言動やパートナーの2人の言葉も、全てを作品鑑賞の体験として彼女自身に引き受け、現実世界に持ち帰ります。 

ぱすてるメモリーズ 4話

ぱすてるメモリーズ4話見ました。感想書くのどうしようかと思ったんですけど、突然やめるのも気持ち悪いので書きます。筆を執るのにこれまでよりも大きなエネルギーを要したので、これで最後になるかも知れません。ならないかも知れません。

 

前置き

・結局そんなに真面目に語るようなアニメではない

1話があまりにも説明不足かつ違和感のある描写に溢れていたので、もしかしたらちゃんと読めば面白いアニメなんじゃないかと思って、思いつくことを何でも書いてきましたが、2話で疑問を持ち、3話で確信した通り、これといって面白くないアニメです。
これは、そこそこヘビーなアニオタが、各話の本筋自体のつまらないことを承知で見るアニメだと思います(わざとクソっぽく作ってるので仕方がない)。ゆえにわたしには厳しいです。

本作品の魅力を知るにあたり、素晴らしい記事がありますので、未読の方は是非読んでください。こういうのが恐らく正しい態度だと思います。

nyalra.hatenablog.com

 わたしも一番アニメ見てたのがゼロ年代といわれる時期だった憶えはありますが、それでもごく一部にすぎませんし、本当にただ見ていただけだし、周辺情報にも興味はなく、以前以後の積み重ねもなく、同人活動にも縁がなかったので、肝心のオタクのハートが理解できないようです。すごく損をした気分です。

 

本題

・テンポがいい

これまでの話と比べてテンポが良いです。作品世界に入るまでの導入にややじっくり時間をかけますが、それっぽいやりとりを上手く繋げているので退屈はさせません。そして作品世界に入ってからの話はサクサク進み、わりと要素が多めなのに30分枠の半分強で収めているのはなかなか見事です。3話までと比べて時間がとても短く感じられます。
3話までは、キャラ同士のやり取りや話の展開のどうしようもなく滑っている感じは、わざとらしく作りましたというのを隠そうとしていませんでしたが、4話はそういった作為を感じさせず、ごく自然に古臭いというか野暮ったい雰囲気を醸成していました。
話の内容はさておき、1話30分で作ったアニメとして心地よく時間を預けられるものになっていると思います。


秋葉原の風景も秋葉原の人間も登場しない

4話の一番の特徴です。3話までは秋葉原で生きるオタクたちの姿がどんなに短い時間であれ描かれていました。最後には喫茶店が活気づいた様子を描写するというやり方で話を締めていました。
4話で登場するのはバスケをする女の子3人組です。作品の思い出を取り戻すことで達成した変化を、彼女たちが再び仲良しになる様子として描いています。
彼女たちは「一般人」でしょうか。違います。彼女たちは作品を愛するオタクでしょうか? 違います。彼女たち3人組は「みにばす!」という作品をきっかけにバスケを始めた作品のファンのように説明されていますが、彼女たち自身が「ロウきゅーぶ!」のパロディキャラとして登場しています。作品を愛する生身の人間として存在しているのではありません。

4話ではついに秋葉原の風景は一瞬も描かれませんでしたし、客さえ一人も現れませんでした。
女の子たちに関する「思い出が戻って友達同士の仲がちょっと良くなった」という変化は意味を持っていますが、それは3話で成されたことと何ら変わりありません。話の導入として使われているにすぎません。
4話での成果だと唯一言えるのは、「みにばす!」を読んだことのなかった従業員が作品を知り、それを好きになったことです。4話で成されているのは、つまるところオタク同士の作品交換です。
従業員は過去に人気だったある作品のことを知って興味を持ち、読んでみてその面白さを知ります。それから既にその作品を知っている子とその楽しみを確認し合います。他の子たちもその様子を見て自分らも手に取って感動して好きになります。これがひとつの作品のために現実で実行されたことです。この一連の出来事を、ウィルス退治によって達成された作品の救済と置き換えています。


・オタクの箱庭

解り切った話ですが、この作品はオタクのための物語です。はっきり言ってオタクしか登場しません。
4話では従業員しか登場しません。従業員たちは美少女でもありますがオタクでもあります。1話2話で描かれているのも、かつて作品を愛した人たち、何かのきっかけで思い出した人たち、彼らが再び作品を手に取る様子です。

確かに個々の作品は年月を経て人々の記憶から薄れていくでしょう。インターネットの性質なのか、一瞬だけ爆発的にブームになってすぐに鎮火する話題が目に付くのも否定できないことかも知れません。作品は量産され、個々の作品の寿命はとても短いように感じてしまうのも無理はないと思います。
ぱすてるメモリーズは、それを作品がウィルスに侵されたのだと表現し、従業員はウィルスを退治して作品世界を救います。けれども現実の秋葉原の風景は何も変わりません。ただオタクの隠れ家である「うさぎ小屋本舗」だけが賑わっていく。そこに集うオタクたちは、過去の作品をダシにおおいに盛り上がる。
そんな物語を既存作品の乱暴なパロディでやって、糞寒い脚本で片づけて一応の落ちを付ける。視聴者のオタクは仕込まれた細かいネタを拾ったり、正直につまらないと言ったり、あまりのくだらなさが逆に面白いと言ったりする。
オタクの自作自演で独りよがり、自己完結の、ひどい楽屋落ちアニメです。
いいえ、わたしは、まったく悪いとは思いません。

物語に一般人は登場しません。一般人はこのアニメを見ないし、このアニメを見ない人はこのアニメには登場しません。彼女たちが救っている作品たちにもきっと興味を示さない。彼女たちはオタクのために作品を救います。一般人の入り込む余地はどこにもありません。このアニメはただ楽しむには決して出来の良いものではありません。
オタクにしたって、作品を壊すウィルスなんてありはしないのを知っているし、彼女たちの行動で作品が救われたとも思いはしないでしょう。本当に作品が消えてしまうことだってないと思いますし、逆に誰の記憶にも永久に残り続けることだってないでしょう。

ただ、忘れてしまった人にときどき思い出してほしい、知らない人には知ってほしい作品をそれぞれ持っているというのは事実です。それを自分が心から好きだという、ただそれだけの理由で、です。


・オタク向け作品というくくり

ウィルス退治というのはわかりやすく例えているだけで、ある作品のために誰かが現実で何か行動を起こして、それによって作品を思い出す人がいたり、新たに好きになる人が増えたりしているというのが、本作品のストーリーです。
ポイントは、それが個々の作品の認知を広めるという、幅の大きな言い方ではなく、限定的に「オタク間の交流」として描いているという点です。ちょっと深読みすると、「オタク向け作品」というくくりをオタク自らが認めている(もしかしたらあえて強調さえしている)という見方もできます。事実ぱすてるメモリーズが扱う作品も深夜アニメばかりです。

本作品の視聴には関係ない話かもしれませんが、いわゆる「オタク向け」という特殊な扱い方をされる作品の価値を、一般の人にも認めてほしいという考え方もあるでしょう。徐々に認知が広まり、海外での人気が報道されたりもし、じっさいにそういうアニメをもっとカジュアルに楽しむ人もすごく増えたのかも知れません(裏付けのないわたし個人の印象です)。
それでも、こうした「オタク向け作品」というくくりや、それによる「オタク間の交流」というあり方もやはり説得力を持ちます。だからといって何か主張したいわけでは全くありませんが、本作品に込められた思いのあらわれのひとつかなという気はします。

 

ぱすてるメモリーズ 3話

基本的にクソアニメという認識でいいんだと思いますが、1話2話を見ていれば3話について書くことはありますし、せっかくだから続けて書きます。

 

前置き
  • 何もかも寒いし、話の展開も雑

このアニメが大変なアニメっぽくみえるのはこの辺が理由でしょう。ジャージとかうなぎとか酷いですし、関係ないネタを唐突に強引に入れるのもすごいです。
話の流れも多くのものを端折りながら寒いやりとりを挟むかたちで進めているので大変です。1話につき1つの作品を扱うのでネタを搭載することまで考えると30分という時間は少々短いのかも知れませんが、ぱすてるメモリーズを1時間見せられたら困ることも事実ですから仕方がないのかも知れません。好きです。


本題

人選の理由

前回の3人はキャスティングの理由が不明でしたが、今回は選出メンバーに過去のストーリーを作ることできちんとクリアしていました。3話の主役は美智であり、彼女には選出する明確な理由がプロフィールに絡めて用意されていました。一方、他の二人は美智に付随して登場していたのに近いでしょう。
また、先ほど調べてわかったのですが、今回の3人も、1話2話の3人も、学校が同じというつながりがあるようです。1話でトップキャラのピンクを出したいのはわかりますから、1話2話のキャスティングも自然ああなったと言えるかもしれません。


熱量の差

さて、3話で目立つ点を挙げるなら、そのひとつは、ある作品に対する個人個人の思い入れの度合いが違うということです。
従業員のうちで「薔薇色の乙女」の内容をはっきり憶えていたのは美智だけです。彼女にとっては結衣奈と薫子との、3人の思い出の作品で、そのことこそを大切に思っていたからです。にもかかわらず、結衣奈と薫子の2人もその作品のことを忘れていた。他の従業員も朧げに憶えているだけで、詳しい内容までは思い出せませんでした。
結果的には、結衣奈と薫子は「薔薇色の乙女」の内容と、それにまつわる美智との思い出を思い出し、作品世界で戦うための力を得ました。
美智にとっても、結衣奈と薫子にとっても、作品そのものの記憶だけが大切なわけではありませんでした。作品を一緒に楽しんだ3人の思い出であったことが大事だったのです。

美智と2人との間にも、3人と他の従業員との間にも、作品に対する熱量には差があります。
作品を鑑賞するという体験それ自体が、個人が生きている人生のなかで、あらゆる事物との関わりがあるなかでなされることです。時々の生活環境、鑑賞時の年齢、それまで蓄積してきた他作品の観賞経験、鑑賞時に持っていた知識体系、聞きかじった程度の体系化されていない情報も様々です。
同じ作品を鑑賞するのだとしても、鑑賞体験の質には個人差があるし、当然そこから生まれるであろう「思い出」というものも違ってきます。であるならば、今現在において持っている作品に対する熱量も違ったものになるでしょう。
そのことがとてもよく表現されていたと言えます。


思い出は個人的なもの

1話ではオタク文化の衰退した秋葉原の風景を描いていました。オタク文化が廃れたことでオタクコンテンツを扱う実店舗が消え、それを求めて訪れていた人たちもいなくなった景色が映されています。
無機質なオフィスビル街になり果てた秋葉原の風景から受ける印象や、推察できる本作品全体を貫くストーリーとはどんなものでしょう。
秋葉原は日本のオタク文化の中心地だったが、オタク文化の衰退によってこの土地から以前のような活気は失われた。だから彼女たちは、自分たちの大好きなオタク文化を取り戻したいと願う。そのために個々の作品の思い出を救っている。作品をひとつひとつ蘇らせることでオタク文化は復興し、秋葉原は元の風景を取り戻す。
およそそんな感じかと思います。しかし3話で示唆されたのは、それとは全く異なるものでした。

彼女たちが体を張って守ろうとしているのは秋葉原オタク文化それ自体ではありません。個々の作品それ自体でもありません。3話で語っているのは、本当に大切なのは、作品を鑑賞することで生まれた個人個人の思い出であるということです。
結衣奈と薫子が思い出を取り戻すことで、美智が大事にしていた「薔薇色の乙女」にまつわる思い出を再び3人で共有することが叶いました。
それは3人の問題であり、秋葉原の問題ではありません。

この理屈に準ずれば、彼女たちの活躍(作品世界でのウィルス退治という意味でも、現実世界での何らかのアプローチという意味でも)がオタクたちのコンテンツ鑑賞を促したとしても、それもまた秋葉原の問題ではなく、鑑賞者個々人の物語である。3話から読み取れるのはそんな態度です。

1話2話について振り返ってみるのもいいかも知れません。1話2話のストーリーは、「うさぎさんカフェへようこそ」が思い出の作品だという女の子が、交流ノートに残した言葉がきっかけでした。SNSでの呼びかけに応えてくれた人たちも、作品に対してそれぞれ大事な思い出を持つ人たちだと考えられます。ウィルスを倒したあとに店に来てくれるようになった客もかつて作品を愛した人たち、そしてこれから作品を愛し思い出を作るかもしれない人たちです。店長が作中のそれを参考に店の制服をデザインしたのも、作品に対する特別な思いの現れだと考えられます。


秋葉原の風景

3話の描写を総括すれば、作品を救い思い出を取り戻すという活動が目指すのは、ひとつひとつの作品の記憶を秋葉原という土地全体によみがえらせるのではないことがわかります。じっさい、従業員たちは1話から3話にかけて2つの作品を救うことができましたが、秋葉原の景観に変化があったという描写はありません。
それでも彼女たちの行動が、忘れられていく最中にあったいくつかの作品を再び人々の記憶に上らせ、かつてのファンたちに再度作品を体験するきっかけをもたらしたのは間違いのないことです。

彼女たちの活動成果を見て取ることができるのは、彼女たちの働く「うさぎ小屋本舗」の様子の変化によってです。1話以前も、じっさいにはそれなりの客入りがあったのかもしれませんし、そのうち何割かはオタク趣味を継続している人なのでしょうが、作中では解りやすさのためか閑古鳥の鳴く様子が映されているばかりです。それに対し、ウィルス退治を終えてからの喫茶店の様子としては、彼女たちの救った作品を目当てに訪れる人々が増えたらしいことが描写されています。3話の解決後に「薔薇色の乙女」のコスチュームを着るというキャンペーンを実施したこともこの文脈上にあります。
個々の作品を救うことで活気づいたのは、秋葉原という土地ではなく、喫茶店「うさぎ小屋本舗」だったことがわかります。

本作において、秋葉原の風景は単純にオタクの一般意思を表象しているのではありません。
いまでは彼女たちの居城である「うさぎ小屋本舗」が、以前は秋葉原にいたであろうオタクたちの居場所となっています。そうして、作品を救うごとに「うさぎ小屋本舗」は活性化し、彼ら愛好家の姿も増えていく。
本作品においては「うさぎ小屋本舗」こそかつての「秋葉原」なのです。

本作品の視聴において、上記は非常に重要な点だと考えています。


彼女たちもまたオタク

彼女たち従業員は古今東西の、もしかしたら忘れられてしまったものも含む、無数の美少女コンテンツ・美少女キャラの亡霊です。そして、オタクたちの限られた(もしかしたら唯一の)居場所を、自分たちの活動場所としています。「うさぎ小屋本舗」で接客をしながら、グッズを販売し、店内を装飾し、自分たちもオタクとしてコンテンツを鑑賞し、同時にウィルスを退治して作品の思い出を復活させる。
彼女たちは美少女コンテンツ・美少女キャラクターの亡霊でありながら、何らかの意味で、それを摂取してきたオタクたち自身とも重ねられていると考えられます。

引っかかる点もあります。彼女たちの救うのはどれも連載を終了した過去の作品であり、個々人の記憶の中にのこる思い出であり、訪れるオタクたちも恐らく昔の作品に思い入れのある人です。こういった昔の作品にこだわる態度と、他の要素とを関連させて掘り下げることもできるでしょう。材料の提示されていないうちは根拠のない推測しかできないため、現段階でこれ以上の言及は差し控えますが。


おまけ

彼女たちはきっと消えない

根拠のない推測と書いたそばから矛盾するようですし、先の展開を考えてもあまり意味はないのはわかりますが、それとなく見えてくる思想の片鱗(あるかどうか知らんけど。クソアニメだし)から、彼女たちの存在の理由や意義について思いを巡らすのも楽しいことでしょう。
「うさぎ小屋本舗」が新しい秋葉原なのだとすれば、彼女たちの物語を一通り終えて人々の思い出が復活したときも、彼女たちは消えてなくなりはしない。そんなことを考えます。

オタク文化の聖地としての秋葉原は復活しないでしょう(実際は知らんけど)。でも「うさぎ小屋本舗」はある。「うさぎ小屋本舗」として成立する秋葉原がどんな意味を持つのかは、わたしの不出来な頭ではよくわかりません。そも今の段階で考察すること自体困難です。
でも、ひとつだけ思うことは、彼女たちはきっと秋葉原という土地に縛られる必要がなくなります。「うさぎ小屋本舗」があれば、秋葉原という土地がなくても存在できるようになるのです。そんな明るい想像をしてしまいます。

ぱすてるメモリーズ 2話

結論を書きます。クソアニメです。じゃなくて、
一番のポイントは、1話にて現実世界で起きた問題の解決に、ウィルス問題が直接的に関与していないということ。

「うさぎさんカフェへようこそ」がまた読みたいという女の子の願いをかなえるために、単行本を全巻揃えることが1話の目的だったはずです。
同時に、作品の思い出が消えてしまうという問題も描かれていたかと思います。ウィルスに作品世界が侵されることによって作品世界が破壊され思い出も消えてしまうという設定です。
詳しくは後述しますが、これは現実に起きている出来事ではありません。

さて、「うさぎさんカフェへようこそ」を全巻揃えるという1話で提示された目的は、2話で達成されました。
いかにして達成されたか、ということが重要です。
マザーウィルスを退治して世界を元通りにしたことによってでしょうか。

違います。

1話でカフェの従業員が秋葉原中を走り回ったことと、SNSで投稿が拡散されて提供者が現れたことによって、達成されたのです。

ここが2話のポイントです。では詳しく書いてゆきましょう。

 

その前に、今回は先に疑問点を書いておきます。

 

疑問点

  • 作為的なクソ脚本とガタガタ人物作画

作品世界に入ってからの話は極めてくだらないものでした。子供向け変身ヒーロー・ヒロインものみたいな展開だけど、ものすごく大雑把だしキャラのやりとりも最悪レベルの寒さです。
また背景の丁寧さに比して人物の絵があまりにも雑だったのも非常に印象的でした。人物の絵にも動きにも見所が一切ない。
絵の方はどうだか知りませんが、脚本は明らかにそのようにわざとクソとして作られているでしょう。といってもどういう意図でそうしたのかはよくわからないです。単に悪ふざけという本作のスタイルに沿ったやり方なのかも知れません。

言うまでもなく、すべてを真実大真面目にやってこうなってしまったと見れば、こんなものは酷すぎますから即切りです。脚本も絵もきっと作為的なものだと考えて見るしかないです。

※(1/18追記)ツイッターで検索して、不安定な作画のせいでごちうさのパチモン感がすごい、みたいなツイートを見かけてなるほどなと思いました。パロディやるだけじゃなくパチモン感を出すためにあえて人物作画を雑にしたというのは納得のいく理屈ですね。そもそも彼女たちが古今東西の「美少女キャラ」のパチモンみたいな存在ですし。

 

  • メンバー選出意図が不明

メンバーが12人いて、キャラが被らないよう配慮されているとなれば、自然な発想として作品世界に向かうメンバーはその都度「選出」されると考えます。あの大人数は要するに美少女のレパートリーであるわけですから。
しかし2話で彼女たち3人が選ばれた積極的な理由があるのかどうかはやや疑問です。
原作の初期メンバーだから? 同様の理由で1話で最初に登場させたので続投した? おそらくそんなところではないかと思いますが、いずれも必然性はなさそうに思えます。

もちろん、この点については次回以降の選出方法によりはっきりしてくる事でしょうから、初回で判断するのは早すぎるとも言えます。

 

  • これらの疑問点は、一見たんなる詰めの甘さとも取れる

2話は(1話もだけど)全体的に極めて雑です。
それゆえ、ぱすてるメモリーズの「違和感」を、意図的な仕掛けだったり作品の思想の現れだったり、読み解く価値のあるものとみなしていいのか、それとも単なる「失敗」と見てしまうべきなのか、非常に心配になってきております。はっきりと意図的だとわかるクソはいいのですが、そうではない微妙な乱暴さに対しての評価に迷うのです。

はたして、このアニメの雑さが、どこまで計算ずくなのか、計算ずくでなくても作り手の信念に基づいて現れたものであって一貫性が保証される、そういう類のものであるか。それは視聴者として見極めるべき点です。作品に対する信用と、以降の視聴態度にかかわる問題です。

とりあえず、今回は判断は保留にしてまともに書いてゆきます。

 

ということで、前置きを終わります。

 

以下本文

ウィルスは作品世界を壊すか

設定上は、ウィルスに感染することで作品世界が壊れ、現実の人々からも思い出が失われるという事になっています。
しかし、もしウィルスを倒すのが作品を救うための解決策なら、1話でなんのために必死で本を集めたのでしょうか。もちろん集めてほしいという願いがあったから、作品の思い出を守りたい彼女たちは集めることに決めたのかも知れません。ですがそんな問題ではないのです。なぜそれを1話で描く必要があったのかという事です。
最初に書いたように、現実世界に対するウィルスの直接的な影響は描かれていません。漫画本が黒くなったような表現があるだけです。

ウィルスによって作品が失われるというのは、わかりやすく言えば「嘘」です。
漫画本がなくなったのは、「うさぎさんカフェ」が絶版になって、秋葉原中の書店を探し回っても全巻揃えられない状況だったからです。
そんな中でも、「うさぎさんカフェ」がまた読みたいという思いを持った人がいたことこそ注目すべき事のはずです。
最後にはSNSで情報が拡散して、フォロワーの誰かに1巻を提供してもらったことで全巻揃えることができました。ここでも、過去の作品を懐かしがる人が大勢いたこと、彼らの協力で目的が達成されたことが重要です。

以上が事実として描かれたものです。
1話の最後に誰かが言っていたように、「大切な思い出は消えない」のです。

一連の出来事にウィルスは何ら関与していません。
わたしが思うに、ここが2話の一番のポイントです。超現実的なことは何も起きていないのです。


「あっち」と「こっち」

2話でようやくきちんと描かれましたが、彼女たちには現実世界と作品世界を行き来する能力があります。そして、その扉となっているのが「うさぎ小屋本舗」です。

作品世界と現実世界、「あっち」と「こっち」を行き来できるのは、彼女たちとねじれウサギであり、彼らには共通した特徴があります。「あっち」の性質と「こっち」の性質を併せ持っているということです。

彼女たちは「美少女キャラの亡霊」/「生身の女の子」という二重性を持ちますし、この物語の主役として「ウィルスを退治する戦士」/「喫茶店で働く女の子」という二つの立場を持っています(正確にはこれは二重性を持つがために与えられた役割で、ここで挙げるのは順序が逆ですが)。
ねじれウサギは「動いて喋る謎の生物」であるけれど/かつては「うさぎ小屋本舗のマスコット」でした。
これらは前者が「あっち」、後者が「こっち」の性質と見なすことができます。
こうした二重性を持つために、彼女たちは「あっち」と「こっち」を行き来できるのです。

そして、うさぎ小屋本舗はそんな二重性を持つ者たちのたまり場、住処になっています。
また「美少女キャラの亡霊」である彼女たちと秋葉原の人々が、ともに安定して存在し接することのできるほぼ唯一の場所でもあります。
うさぎ小屋本舗は「あっち」と「こっち」との狭間で、両方の世界の法則が共存できる場所なのです。

なぜかと言えば、うさぎ小屋本舗自体が非常に特殊な場所であるからです。
まず、明らかに「メイド喫茶」/だけど「普通の喫茶店」をかたっています。さらに、視聴者のいる「現実」と/ぱすメモ世界の「現実」があることを前提し、「オタク文化の盛んだったころの秋葉原」と/「オタク文化の廃れた秋葉原」を対応させるならば、それぞれに繋がる要素として「アニメグッズ店」/でありながら「喫茶店」も併設している、という特徴もあります。
ゆえにうさぎ小屋本舗は、作品世界と現実世界の境界となり得ているという訳です。


彼女たちの見ているもの

ところで、秋葉のオタク文化が衰退したという状況は、現実の出来事として描かれています。実際に秋葉原からは実店舗が消え、数多くあったオタク系の雑誌も廃刊、漫画本はなかなか集まりませんでした。
これを1話2話で語っていたのが誰かといえば、うさぎ小屋本舗で働いている彼女たちです。

彼女たちは「あっち」と「こっち」の両方を行き来でき、両方の世界の風景を見ることのできる存在です。いまの秋葉原で、オタク文化の衰退が現実世界と作品世界の両方に起因することを知っており、さらに個々の作品を守るための手立てすら持つ、唯一の存在です。

作品世界と現実世界、「あっち」と「こっち」は明確に分けられています。ウィルスが作品を人々の記憶から消す力を持つとしても、直接侵略しているのは現実世界ではなく作品世界の方です。作品世界から現実世界には直接干渉できないし、逆に現実世界から作品世界へも干渉できません。このことは、彼女たちが両世界を行き来できる能力を持つがゆえに戦っている、という構造からして自明でしょう(少なくとも今のところは)。

オタク文化の衰退の原因は、設定上はウィルスによるものです。ウィルスは「あっち」の存在ですから、戦うことのできるのは彼女たちだけです。もし本当にウィルスが作品を破壊して思い出を消しているならば、その理屈を理解しうるのは彼女たちだけという事になります。
秋葉原の人々は現実世界しか認識できませんから、彼女たちの知る理屈は通用しません。彼らにとってオタク文化の衰退の原因はウィルスではないのです。
2話の主旨はここにあります。

1話は完全に現実世界の出来事で「現実的」な出来事です。(あの作品世界での)現実の出来事を、(視聴者のいるこの世界という意味での)「現実」と同じ仕方で理解できる秩序のもと起きたものとして書いている、という意味で「現実的」です。
繰り返しますが「超現実的なことは何も起きていない」のです。だからウィルスは世界を壊していないと言えるのです。

翻って、2話はまさにその超現実の世界です。超現実の作品世界で、ウィルスが作品世界を破壊し、結果現実世界では思い出が消えようとしています。彼女たちにしか認識できない事象を描いた、彼女たちにしか理解できない法則によって成り立つストーリーです。


彼女たちの見ているものだけがある

1話2話とも物語の視点は彼女たちにあります。1話は現実世界、2話は作品世界の話でしたが、ふたつの世界は彼女たちにとって容易に繋がる世界であり、双方をともに自然な体験として語ることのできる身体を彼女たちは持っています。
けれどもふたつの世界には明確な区別をしなければなりません。現実世界のみに身を置く人間には、作品世界に属する物事を知ることはできないのです。ウィルスなど存在しないし、ウィルス退治が作品を救う方法であるとは、誰も考えはしません。

ぱすてるメモリーズは、「あっち」側を認識できる彼女たちの視点から描かれた物語です。
言い換えると「こっち」側だけに属する者の視点による描写がない世界です。

世界は2種類あり、彼女たちの視点からはその両方を認識することができます。「あっち」を知る者は、「こっち」だけを知る者の言葉を語ることはできません。「あっち」と「こっち」をともに知ることで真実が見えることを理解しているので、「あっち」をふまえて語る事しかできないのです。

作中では、秋葉原にいる「生きた人間」の声や生のすがたというのは、ほとんど出てきません。
1話では残された数少ない店舗で、2話ではうさぎ小屋本舗の客として。またSNSや交流ノートの書き込みとして、わずかながら確認することはできます。現実世界に生きる彼らの見ている風景は、そこからうかがい知れるのみです。

であるとすれば、果たしてぱすてるメモリーズの世界の風景は、いったいどの程度「現実的」な風景といえるのでしょう。どこからどこまでが現実の風景なのでしょうか。

ぱすてるメモリーズ 1話

ぱすてるメモリーズの1話を見ました。
ものすごく面白かったわけではありませんが、書き残すべきことがあるかなと感じましたので、1話だけかもしれませんが、記事にしておこうと思います。

視聴後に調べたところ、本作はソシャゲが原作とのこと。原作を知らないで見ましたが、この記事を書く前にインストールしてちょっとだけやってみました。こちらに関しては、そこまで書くべきことも無かったかと思います。アニメの視聴を原作と関連させてもいいのかもしれませんが、1話に限って言えば無視してアニメのみについて書いてしまったほうがいいかなと思いましたので、そのように書きましょう。

ごちうさのパクリだのパロディだのと言われているようで、わたしもその作品は未視聴だったので1話だけ見てみました。まぁ、1話だけじゃわかりませんでした……)


どんなアニメか、彼女たちは何者か

結論から言いますが、彼女たちは「美少女キャラの亡霊」といえる存在ではないかと、そんなふうに見ておりました。オタク文化の衰退した秋葉原という土地に憑く地縛霊とでもいったところです。

オタク文化は衰退してしまっているので、彼女たちは生きた存在ではありません。なぜなら、彼女たちは「美少女キャラ」なのですから、生きていれば、あのように顕現するはずがなく、死んでいるからこそ現れている。
亡霊であるすなわち存在するはずのない存在なのに、生きているかのように振舞っている。とうぜん、そこには理由があるはずですね。
というわけです。詳しく書いてゆきましょう。


美少女がたくさん働いている「うさぎ小屋本舗」

まず、オタク文化の衰退した秋葉原という舞台設定なのに、トップキャラがピンク髪という時点で猛烈な違和感しかありません。
なんでお前はそんな不自然な髪の色をしているのか。
言うまでもないことです。彼女が美少女コンテンツのヒロインだからです。

「うさぎ小屋本舗」は元グッズ店で、いまは併設された喫茶店をメインに経営しているということでした。
しかし、グッズを目当てに来る客が多いとか少ないとか、そういう次元ではありません。うら若い美少女たちが大勢で、フリフリのコスチュームで働いている喫茶店。これは明らかにメイド喫茶など何らかのコンセプト喫茶店の様相です。オタク文化は衰退したはずなのにです。
加えて、大勢の美少女がワイワイやるという、ある種の美少女コンテンツの系統としての見た目を保つ設定としても機能していることがわかります。

キャラ被りしないようにそれとなくバラけさせた見た目や性格などの個性、設定。美少女コンテンツなら常套の手法でしょうが、ここはオタク文化の衰退した秋葉原。そんな女の子たちのひしめく「うさぎ小屋本舗」は異次元空間でしかない。
どの子からもそこはかとなく感じられる「どこかで見た感」、個性の微妙に足りていないような感じ。それを目立たせてしまう、1話の脚本構成と大人数に押されたとでも言いたそうなキャラ描写の不足。
彼女たちが果たして「リアルな存在」と言えるかどうか。こうした特徴は、彼女たちが「美少女キャラの亡霊」であるゆえではないか。

すなわち「うさぎ小屋本舗」とその従業員たちは、失われたはずのオタク文化や美少女コンテンツの残滓だと言えるのです。(秋葉原オタク文化という文脈だとしても、メイド喫茶と二次元美少女コンテンツを単純に一緒くたにするのは悪い筋かもしれませんが……。)
いまの秋葉原に彼女たちの安寧に生きられる場所はありません。小さなグッズ店兼喫茶店という安全地帯(幽霊屋敷ともいえる)があって、フリフリコス美少女従業員としての地位を得て、ようやく生き延びているという状況なのです。


生きるために

秋葉原は、オタク文化が衰退し、残された数少ない店舗もひとつまたひとつと閉店しつつあるという状況です。放っておけばいずれすべての店舗が消滅し、美少女コンテンツ趣味の人もいなくなり、恐らく「うさぎ小屋本舗」の客足も完全に途絶えて、彼女たちはもはやこの世に留まることはできなくなるでしょう。

この辺に関しては、本作、ウィルス退治なるものが大事な設定としてあるようですが、1話ではほとんど触れられていなかったので、1話のメインストーリーである本探しに焦点を絞って書いてゆきましょう。

1話のストーリーは、交流ノートに書かれた「『うさぎさんカフェへようこそ』が読みたい」という女の子の願いをかなえるために、従業員たちが東奔西走するというお話。秋葉原にはまだ数件書店が残っているので、彼女たちは手分けしてそれらを当たります。
そういう単純なお話です。

彼女たちは、自身が何らかのオタクであるということもあって、オタク文化自体に対してもそうですが、それを楽しんできたオタクたち個人の思い出というのをとても大切に考えています。だからひとりの客でしかない(名前を覚えるほどの常連ではおそらくない)女の子の願いであっても真剣にかなえようと奮起します。
アキバ系オタク文化の衰退した後でも、女の子のように慎ましくたしなんでいる人もいるのです。オタク文化の衰退というのは、そんな彼らの思い出の根源が失われてしまうということでもあります。だからオタク文化を守りたいという気持ちや行動は、それを楽しむ人々のための善であるのです。そんな価値観が、明確に表明されています。

ところが、本探しに関しては、彼女たちにはもうひとつの行動原理があります。
なにかというと、彼女たち自身の生存です。本探しは、消滅寸前のオタク文化を守ることによって自分たちもまた生き延びたいという、彼女たちの生存戦略だというのが、1話のストーリーのもう一面です。

風前の灯火であるオタク文化を孤独にささやかにたのしむ人々の思い出を、消えゆくままにせずどうにかして守りたいという善意。彼女たちの行動にはそれが確かにあるのかもしれません。しかし、この善意というのは(事実それが相手にとって善だとしても)表向きの有様であって、そこに自分たち亡霊の生存の正当性を負わせている、というわけです。

ただ、秋葉原オタク文化が完全に復興したときには、亡霊としての彼女たちはおそらく存在できなくなってしまうでしょう。オタク文化が消えゆく最中にだけ亡霊として現れることのできる「美少女」、それが彼女たちなのだと思います。

さて、なぜ本探しが彼女たちの生存に繋がると言えるのか。それは彼女たちが「モノ」に憑く霊でもあるからです。

 

モノに憑く霊

彼女たちは秋葉原という土地に憑く霊だと最初に書きましたが、のみならず、彼女たちにはもうひとつ依り代があります。
既に書いてしまいましたが、1話の表現に従っていえば、コンテンツとして流通している「モノ」です。

茶店は元々はグッズ店でした。物置には無数のコレクション(かつての商品?)があります。店長は漫画を参考にして彼女たちの着ている制服をデザインして着せています。そして1話で探すのは紙の漫画です。
物置の品々を見て目を輝かせていた様子からも、彼女たちがモノの思い出を大切にしてるということが見て取れます。

つまり、彼女たちが直接に守ろうとしているのは「モノ」なのです。
1話からわかるオタク文化というのは、要はコンテンツが物理的な物として流通して、それを基盤にしてオタクたちが観賞したり収集したり、思い出を作ったりという思想なのです。

物理的な「モノ」を所持したい、収集したい、それを目の前にして蘇る思い出がある。こういうことは事実だろうし、わたし自身気持ちはよくわかります。
けれども現在のコンテンツの消費というのは、動画配信だの電子書籍だので済ませようとすれば済むし、SNSで作品の感想を共有するほうがメインの楽しみになったりさえする(ちょっと関係ない話だけど)。コンテンツ享受の段階に、モノは必ずしも介在しなくなっています。

それでも「モノ」なのだと。
少なくとも1話はそのように書かれています。
コンテンツとは「モノ」である。そして思い出は「モノ」から生まれる。なにより「うさぎ小屋本舗」で売っているグッズの存在意義は、そういった「モノ」であることそのものでしょう。

この作品で(少なくとも1話で)書かれているのは、そんな「モノ」に対する思想です。

この世界でいう秋葉原は、単にオタク文化の中心地だったというだけではありません。
実店舗が消えたということは、モノを売る店、その場で買える店が消えたということです。そして生き残っている小さな店もぽつぽつと閉店している。それによって失われるのは、手に取って存在を確認できる「モノ」であるということです。この現状は彼女たちの本探しが困難を極めていたことからもはっきりと読み取ることができます。

 


2話以降がどういう話になるのかわかりません。ここで書いたこととは全然関係ない話になるのかも知れません。きっと、ウィルス退治の意味によって作品の本当の思想が見えてくる、といったところでしょう。1話だけで完璧にあれこれ言えるような構成ではないです。
それでも、とにかく第1話の中に、なかなかいい話があったかなという事です。

自作曲

 

久々に作りました。耳コピや既存の打ち込みデータのチップチューンアレンジは、公開はしていなくてもちまちまやっていましたが、作曲はほんとうに久しぶりだった気がします。

music studio producerと新パソコンとの相性が悪く、10年使ってきたソフトですが、更新の止まった古いソフトですし、今回で引退してもらうことになると思います。

現在は多少やることがあるので優先順位は低くせざるを得ないのですが、PC新調に合わせて購入したUR22mkⅡに付属していたcubaseの使い方を、少しずつ覚えて、今後はそちらで作っていこうかなと考えています。

「KiTAN」の感想と、ノベルゲームの効果音の話

たぬ子様(セイナルボンジン)の「KiTAN」という作品の感想と、ノベルゲームの音響、とくに効果音(SE)の特性と使い方について論じてゆこうと思います。

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さて、本作「KiTAN」の一番の特徴は、膨大な数のイラストを一枚ずつ順繰りに表示して物語を進めていくという表現方法です。しかし魅力はそれだけではなく、効果音の使い方が非常に優れていることを書きたいと思います。この作品の音の使い方と、そこから見えてくるノベルゲームのSEの特徴には、普段ノベルゲームを読む方にとって考えさせられる要素が多くあるのではないかと思っています。

『映画音響論』(長門洋平)という本では、映画音楽の音響についていくつかの分類がなされています。そのうち最も根本的な「物語世界の音」「物語世界外の音」という分類を参照してみます。ノベルゲームでもじゅうぶんに有効な分類であると考えられます。
この二分類が区別しているのは、ある音が、物語世界に存在する音源から発せられている音なのか、物語世界のそとから付け加えられた観客のみに聞こえる音なのかということです。後者について挙げられているのは劇伴、ナレーション等です。ノベルゲームならば感情表現などに使われる一部の効果音も該当するでしょう。(無料ゲーム.comさんの道玄斎さんのコラムでも同様のことが書かれています。)

道玄斎さんのコラム 19「BGMの深淵な世界へ」 | 無料ゲーム.com

本作のひとつの特徴として、作中で効果音が多用されていることが挙げられます。作品はイラストを一枚一枚クリックでめくっていくような感覚で進行していき、画面が切り替わるタイミングで効果音が挿入されるというスタイルになっています。効果音の使い方も、登場人物の動きや背景の音、場の静寂にいたるまで非常に巧みに表現されています。

効果音を一つ一つ聞いているとわかるのですが、使われている音はBGMもあれば環境音もあり、人や物の動きによる音まで多様です。そのうち、ごく短い、人や物の動きによるSEを挿入する箇所が多いことにも気付くと思います。アクションシーンが多いため自然そうした形になるのかもしれません。
静止画に対して音が付与されるというスタイルにおいて、音という情報は自動的に聞こえてくるものですが、静止画または文章という情報に関しては、読者は意識的に観賞するという受け取り方をします。このとき、絵を見て文章を読む間の、手を止めて画面を注視するという態度が、作品全体にただよう緊張感に繋がっているように思われます。

 

本作をプレイして気付いたのですが、SEには持続的な音と瞬間的な音とがあるようです。前者は例えば風や水などの自然音、またはガヤ、シーン中人物の運動が継続する場合の足音や呼吸音など。後者はそれ以外の一回だけ発生するあらゆる音です。なおこの区分は「物語世界の音」に適用できます。

なぜ持続する音と瞬間の音の区別があるのでしょうか。
音というのは人や物の運動に付随して発生します。基本的に、物語世界で何かが物理的に動かなければ音はしません。風音や水音もそれぞれ空気や水が運動することによって音が生まれています。
この運動に、持続と瞬間の区別があるのです。だから運動によって発生する音にも、持続する音と瞬間の音の二種類が存在することになります。

さて、当たり前のことですが、音には必ず音源があります。犬の鳴き声は犬が音源で、ドアをノックする音はドアと拳が音源です。
『映画音響論』では、音源が画面上に映っているかどうかによって「インの音」「フレーム外の音」という区別をしています。映画では映像として表出するために音源の存在を意識しやすいのですが、ノベルゲームでは必ずしもそうではない。むしろ映像的に描写しづらいせいで音源の存在を意識することは少ないと言えるでしょう。
ところが本作は膨大なイラスト一枚一枚に対して音を付けるという方法を取っているため、瞬間の音を付加するケースでは音源の姿がイラストとして描画されていることが多い。これが理由となって、音には音源が存在するということを意識しやすいという特徴があります。
主人公が刀を振り風切り音がする、追手が主人公に向かって駆ければ草を踏む足音がする、鈴が揺れれば鈴の音がする。
音には必ず音源があり、加えて音源が何らかの運動を起こすに至った状況があります。物語に登場する音源はひとりでに何の目的もなく動きはしないし、仮にそのように目的なく動いた音源があったとしても、その音は作品の構成要素として表出しては来ません。発生した音が読者に対して音として現れてくるのは、その音が物語上において何らかの価値を持っている場合においてであり、本作はその状況がイラストで明確に表現されているということです。この辺りについての詳細は後述します。

また、本作において音が鳴っているということは、一枚一枚のイラストがそれぞれ固有の時間を持っていて、その時間に音が付随していることを意味しています。瞬間の音は音源の一瞬の運動から発生しているし、持続する環境音等はそれぞれのイラストの、もしくはいくつかのカット(一枚のイラストを一カットと数えるならば)をまたいだ、一定の持続する時間のなかにある音です。

音源が音源としてある場面に登場している時、音はスピーカーもしくはヘッドフォンを通して読者に聞かれることになります。イラストのうちの何が音源としての役割を果たしているのか、またはイラストには描かれていないのか(フレーム外の音なのか)、またその事物がどのくらいの時間の幅をもって音源として存在するのか。そういったことを読者はすべての音に対して判断しますし、その判断が実際に聞こえてくるSEと合致していれば丁寧に調整されているという事になるでしょう。本作はその点非常によく作られているということが言えます。


ところで、SEというのは、ある場面において無数に存在するであろう音源の存在に対して、極めて選択的に使用されているということも触れておきたい話題です。上述した「発生した音が読者に対して音として現れてくるのは、その音が物語上において何らかの価値を持っている場合において」ということの説明です。
環境中には無数の音が存在し、それらが混じりあって我々を取り巻いており、我々は意識せずとも常にそのモヤモヤした音たちを聞くという音環境に身を置いています。サウンドスケープ論では「基調音」と「信号音」という区別があり、先の説明は「基調音」にあたります。一方「信号音」は意識的に聞かれる音のことです(元々は共同体のサウンドスケープ・デザインを含む論考なのでもう少し限定的になるのですが、ノベルゲームでは考え方を参考にする程度にして、単純に考えてみます)。

なお、この区別は、上記の持続する音と瞬間の音には単純に当てはまらないことに注意しておきます。風音や水音やガヤは、それが風土的に根付いたものであるなら基調音と言えるかもしれませんが、長時間持続する足音は当てはまらないでしょう。

話を戻しましょう。SEが選択的であるという事の意味は、SEとして表出するのは基調音のすべてではないし、信号音のすべてでもないということです。繰り返しになりますが、ほとんどの場合、SEとして付加されるのは、物語進行にとって何らかの意味や価値のある音のみということになります。
例えば、主人公と敵が戦うアクションシーンでは、主人公が刀を振るう際の風切り音というのは、臨場感を増幅させるために必要な音ですから、付加されます。しかしその時に足元でコオロギが鳴いている可能性があっても、明確な演出意図が無ければ(あれば別ですが)、その音は意味のない音として(基調音の一部となり)実際には物語世界で発生しているのだとしても無視されます。
例えば、どこかの町の音環境について考えるときに、風のうねり、遠くからぼんやり響く自動車の音、鳥の鳴き声、そうした無数の音によって構成される基調音は、わざわざSEとして挿入されることは少ないでしょう(たぶん日常BGMなどで上書きされたりすることが多いでしょう)。

ちなみに、常時音が有るタイプのノベルゲームでは、無音というのは意図的な演出として取られてしまう可能性があるため避けたほうが良いようです(涼元悠一 突発的エセノベルゲームシナリオ講座 お題:『ノベルゲームのBGM運用基本』より)。演出としての無音ではなく、とくに鳴らすべき音の無い場面で、もしBGMを用いないならば、基調音となるガヤ等をあえて加えるという方法も考えられるかも知れません。

この点について言えば、本作は常時何らかの音が鳴っているわけではなく、舞台の風土も関係しているのでしょうが、無音の場面が多い。ゆえに無音であっても何らかの意図があるのではと疑われにくい。それこそが読者において現象する基調音であるからです。SEの使用が多いと書きましたが、基本的に静かな作品なのです。
なので、見方によってはSEとして付加されているすべての音が信号音として扱われているとも言えます。普段の環境には特筆すべき音がない。鍛冶屋の親父が鉄を打つ音くらいでしょうか。そんな環境にあって不意に耳に飛び込んでくる音というのは、すべて聞く者にとって特別な意味を持った「意識すべき音」として、物語進行上価値を持つ音ということになるのでしょう。

と、ここまで書いたところで出てくる疑問が、その音を聞く者とは誰なのか? という点でしょうか。言い換えると、SEとして鳴っている音は登場人物の誰に聞こえているのかということです。
その場にいるすべての人物にでしょうか? 恐らく、それは正確な言い方ではありません。例えば、何らかの信条から虫を踏み殺してはならない人間にとって、足元のコオロギの鳴き声はいかなる時も決して聞き逃してはならない音のはずです。しかし、それ以外の人にしてみれば、わざわざ注意を向ける必要のない音かも知れません。聞こえているのに聞こえていないのです。音の価値というのは聞く者によってまったく違ってきます。
物語世界内の音としてSEが鳴っているということは、それを誰かが聞いているかも知れないし、聞いていないかもしれないということです。誰かが実際に聞いている、つまりその人の意識に上っている音かも知れないし、一部の人にしか聞こえていないかも知れないし、その場にいる誰も気に留めない音なのかも知れない。むしろ重要なことは、音に対する登場人物のそういった態度こそが、音が鳴ったその場面において表現されているかも知れないという点ではないでしょうか。つまり、スピーカーを通った先にある読者の世界にではなく、物語世界内において、その音はどのように現れているのかという観点です。


クリックによる文字送りの話もしておきましょう。
ノベルゲームでは文字送りのクリックによって物語が進行します。文章が一定量表示されたら読者はクリック操作し続く文章を表示させ、決まった文章量に達するとページが更新され、まっさらになったスペースに新たに文章が表示されてゆきます。この点は本作も同様です。クリックすると画面が切り替わり新しいイラストが出てきます。その繰り返しで物語は先へ進んでゆきます。

この時、読者は文字を読み、イラストを鑑賞し、クリックをするという行為を、「現実時間において」行っていることに注意します。以上の一連の処理に三秒かかるならば、実際に三秒の時間が現実世界では経過しています。たとえ、物語中では一秒も進まない情景描写だとしても、時間が省略されて百年の時が過ぎるのだとしても、現実に流れる時間は同じ三秒なのです。
すなわち、ノベルゲームに限らず文章媒体の物語作品では、文章を読む速度と、物語の進む速度は独立しているということです。映像媒体は、例外はあるにせよ、ひとつのカットの間では、現実時間と同じ速さで物語時間は経過してゆきます。

小説とは異なり、ノベルゲームには、映像作品と同じように音響演出があります。音響というのは時間に依存した情報です。始まりがあって終わりがあり、その長さは時間という尺度で測られます。三秒の長さを持ったSEは実際に三秒の現実時間を占めるということです。
読者が文章を読む行為が依存するのも現実時間でしたが、同じ現実時間でも、SEの時間はこれとはまた独立して存在します。読者がいかなる速さで文章を読み進めようと、SEはそんなことは関係なく決まった長さだけ鳴って、静止するだけです。
もしこれが映画であれば、映像とともに音もリアルタイムで流れます。それは物語の進行する速度とも一致しています。それが映画というものを作っているし、映画を観賞するという体験でもあります。しかしノベルゲームのSEは、読者の読書時間とも、現実時間とも独立して、一旦鳴り始めればそれ固有の時間の中で存在するのです。

ノベルゲームのSEで重要なのは(別にノベルゲームに限りませんが)、長さでも早さでもなく、タイミングだと言えます。本作では、とくに瞬間の音に関してその性質が際立っており、また見事に演出されていると言えるでしょう。
刀を振るう風切り音は刀を振るった瞬間に発生します。足音は地面を踏みしめた瞬間に発生します。こうした運動はイラストの表示によって物語世界に現れるため、音源の出現とSEの発生が同期しているのです。

ここで注目すべきは、イラストの切り替えがクリックによって起こるということです。先ほど物語の進行速度をコントロールするのは読者のクリックであると書きましたが、まさにクリックのタイミングとSEと映像のタイミングが一致する、それが一定の基準…読者のクリックするペースにおいて繰り返されるというデザインが、本作の独特な時間の流れと音の迫力を生んでいます。
ひとつのカットの中で物語世界内でも現実世界でも一定の時間が経過し、次のカットに進むという区切りを、クリックという行為によって読者の意識に上らせる。そして、まさにその瞬間に、物語世界では何らかの運動が発生し、SEが発生する。
音はなぜ生じるのか、何が聞こえているのか、なぜ聞こえているのか、そういった当たり前のような音の原理を、改めて意識させてくれる仕組みになっているのではないでしょうか。


さて、冒頭で、物語作品で扱う音には「物語世界の音」と「物語世界外の音」があるという分類を引用しました。そして当記事で論じてきたSEは、主に「物語世界の音」でした。
「物語世界の音」という言い方をしていますが、厳密には、物語世界の音がそのまま我々の耳に届いているのではない、というケースが多いです。
映画や舞台などにおいて挿入されるSEには、擬音という特定の音に似せて作られたまったくの別の音が用いられることがあるでしょう。上記したように、音というのは人や物の運動に伴って発生するものであるから、これらの動きにタイミングや大きさや持続時間などを合わせて、それらしく聞こえるように演出しているわけです。
ノベルゲームでは、あらかじめ録音し調整したオーディオファイルを用います。フリーノベルゲームならば、多くの作品は、いわゆる「素材サイト」から出来合いのオーディオファイルを借りている。しかも数種類のオーディオファイルを何度も使いまわすことが多いです。映像作品とは違い、音の発生状況を描写するための情報量が少ないので、それで十分に間に合ってしまうのです。
もっとも、現実世界の音にしても、「そのまま我々の耳に届いている」かどうか怪しいものだったりします。犬が100回鳴けば、100回すべて異なる音があるはずですが、実際はほんの数種類に分類してそれらの間の区別しかしていない。それ以上の分類はそれを聞く我々にとって意味を持たないからです。当然さらに細かな区別が意味を持つ専門的職業の人にとっては別です。聞く人間によって音の価値というのは変わるのです。要するに、普段聞こえている何らかの音に関して、大多数の人は限られた分類のもとでそれを聞くということであって、仮にそうした認知を前提としてその音をノベルゲームで表現するならば、対応する数種類のSEを用いるということになります。

 

ノベルゲームの音響の特徴への反省や、実践的な演出方法の模索というのは、今後重要性を増してくるのではないかと考えています。
VRの普及が徐々に進みつつあるいま、VRノベルゲーム、VRADVというジャンルの作品がちらほら出始めています。先日ティラノVRという制作ツールも公開されました。
現状VR作品はHMDによる没入型コンテンツであり、一人称視点での体験型という形式が取られやすい。VRノベルゲーム、VRADVというジャンルでは、読者は物語の進行に合わせて、物語世界に身を置いて実際に音を聞いているという感覚が強くなってゆくでしょう。360度見まわすことができ、距離すら体感できる空間での音響演出は、現在のノベルゲームの環境――同時に得られる情報が固定された一枚絵と文章という状況で構築されてきた方法とは、異なったあり方を求められるはずです。

ノベルゲームではありませんが、一作品紹介しておきましょう。VRADV「Project LUX」では、3DCGキャラクターの動きに合わせたタイミングで足音などのSEを付加しています。立体音響になっていて、ただ距離は反映していないような気がしますが(舞台が狭い室内に限られるので重要度が低いせいでしょうか)、音源のある方向からちゃんと音が聞こえるようになっています。
全体的な雰囲気は、台詞のみで進む体裁や舞台装置の狭さのせいで一見演劇のようであり、人物の動作に効果音をしっかり一致させた映像作品的な音の付け方をしています。というか映像作品です。別段変わった手法を取っているわけではありませんが、音源の運動に対してSEのタイミングと方向を合わせるだけで、リアリティのある音体験が実現できるというVR物語コンテンツの一例と言えます。

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むろん、VRノベルゲーム、VRADVにはVRなりの問題が付きまとうのですが(背景画像、立ち絵と呼ばれていた素材をVRに持ち込む際の、それらの変質に伴う構造的な問題も無視できません。この件はいずれ作品数が揃ってきたときに、まだ取り上げる価値があったなら改めて論じましょう)、一個の方向性として演劇もしくはアニメに近づいていくのが(少なくとも形式的な秩序を保つためには)有効であることを「Project LUX」は示していると言えます。