チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

ぱすてるメモリーズ 7話

面白かったですね

はっちゃけてて大変良かったですね。
けれどただ滅茶苦茶やってるんじゃなく実は秩序はちゃんと保たれていて、話の流れも無いようであるけれど大筋だけは明確で、そのなかにネタを丁寧にかつ無理やり果てしなく詰め込んでいて、ともかく中々面白かったですね。OPからEDまで、そしてオチまで含めて、やることやりきった感がすごいです。最後まで見て、作った側も見てる側も皆でうなずいてる、そんな感じ。
有名RPGはほとんどやったこと無いし、別にゲーマーというわけでもないので元ネタはあんましわかんなかったのですが。

ということでいいと思います。面白かったし、書くこと無いです。
無理やり書こうとすれば何か書けるのですが(いつも無理やりっぽいんですが)7話は特にそういうことをやる意味なさそうです。
あと、ツイッターとかで調べてると見つかる、本来の対象層であろうオタクにとって重要であるらしいお話――元ネタ作品のある場面との一致とか声優が誰だとか――は、わたしには何も言えないのです。

 

例えば沙織のネガティブの日について

明らかに生理を意識してるんでしょうけど、そこに近づけて読む必要もないでしょう。

言うとするなら、例えば、5話6話では主役の性格上の弱点が仲間内でトラブルの原因になることが示されていましたが、それを当人の成長という形で解消していました。作品世界の冒険というのは何らかの障害を乗り越える能力を得るための試練だったわけですね。
7話でも沙織の弱点がトラブルの原因になっていますが、成長という要素は抜き取られています。1日経つと勝手に治るのです。その意味では、トラブルを呼ぶという共通項を見せておきながら、7話の雰囲気に溶け込ませるようにして、さりげなく5話6話からずらしている、と言えます。それも、7話のストーリーについてというより、ぱすてるメモリーズにおける成長物語という定型そのものの価値をです。
7話では、主役の沙織は、経験により変化していく生きた人間という表現ではなく、物語のパーツあるいは物語を動かす装置としての、架空の登場人物という側面が強く出ています。この方法が現実パートを皆無にして虚構感を強調する7話の構成とマッチしてるともいえますし、さらにオチにも繋がっているといえるでしょう。もしかしたら沙織のキャラクターがそういう描き方に非常に合っているという事かも知れません……すなわち、同時に、7話で沙織を選んだ根拠であるのかも知れませんね。

彼女たちは、いくつかの過去回のように人間的に描写をしてもいいし、「美少女キャラ」なのですから、7話のような構成にすればとことん虚構のキャラクターとして描くこともできる。そのへんの自由さを持っているという事でもあるでしょう。

(もっとも、主役にまつわるトラブルで物語を運ぶとか、成長譚に仕立てるというのは、ぱすてるメモリーズ全体の、各話のストーリーを作るうえでの基本的な設計図である可能性もありますから、あんまり読み過ぎないほうがいいのかも知れません。)

ぱすてるメモリーズ 6話

6話は愉快なバカアニメに仕上がっていてかなり楽しめる内容だったかと思います。
じっくり見て興味を惹かれる点もありましたし、今回も感想を書こうと思います。

 

これまでの話との相違点

ネタがオタク向け作品ではない

オタク向け作品しか扱わないものと思い込んでいましたが、まさかのハム太郎(他)でした。
本作品のテーマと思われる作品享受の態度が軸であることは外していないものの、5話も同様ですが、オタク間の交流ではなく、作品に対する個人的な向き合い方、鑑賞態度について描いています。
「へっぽこチュウ太郎」という作品のことは、うさぎ小屋本舗の従業員全員が知っていました。一般向けアニメの、それもかなりの有名作品という位置づけのようです。オタクでなくても知っている作品で、(本作での)かつての秋葉原に集まる人々以外も知っているということになるでしょう。
6話主役の怜も知っていました。怜の趣味はロボットやプラモデルだという話が出てきましたが、もちろんそれ系統のアニメは見ているとして、それ以外のアニメにどれだけ詳しいのでしょうか。怜はアニメをあまり見ないけれどカワイイ好きなのか、それとも他の従業員に負けず劣らずのアニメ好きでかつカワイイ好きなのか。残念ながら現段階でははっきり判断できませんが、区別するべきでしょう。いい歳をしたおじさんが子供向けアニメ女児向けアニメに夢中になることをわたしたちは知っています。1話からオタク向け作品ばかり扱ってきたあと、6話にきてハム太郎とパターンを外し一般向けアニメを持ちだしてきたのですから、そこには何か読み取るべきものがあると考えられます。

チュウ太郎の話題で従業員たちが盛り上がる場面を、オタク間の交流の様子を描いていると言い切ってしまうわけにはいきません。有名作品の懐かしい話に花を咲かせるというのは、アニメをあまり見ない人でもありうるシチュエーションです。知らない作品を薦め合うというのはそのジャンルが好きな人同士でしかしませんが、知っている作品の話題で話が弾むのは、それほどジャンルに詳しくない人たちの間でも起こりえます。
もちろん「皆が知っている」にも種類はあって、「皆」というのも「日本人なら誰でも」だったり、「海外の人の多くも」だったり、「アニメ好きなら誰でも」だったりします。チュウ太郎という作品はどのレベルに該当し、また怜はどのグループに当てはまるのでしょうか。わたしには判断できませんでしたが、大事な問題だと考えています。


町の風景を映している

5話までとは打って変わって、彼女たちの住む町の様子をたっぷりと映していました。といっても秋葉原の現状を映していたのではなくて、怜の生活風景を映すという意図においてです。彼女の登下校や通勤の街並みを6話では知ることができます。そこにはオタク文化聖地のなれの果てとはまったく異なる次元の日常風景がありました。怜は「美少女キャラ」や「オタク」を仮託された存在としてのみではなく、生身の女の子としての生活を持っていることが感じられます。
もちろん、作品設計からすれば、怜や他の子たちが「美少女キャラ」の何らかの性質、「オタク」の作品享受の態度を負わされているという前提はあります。例えば、ハム太郎世界の攻略に怜を選出してギャップ萌えを提供することだったり、今回のテーマであろう「好きを好きと素直に表現する」という態度だったり。
であっても、怜は一人の人間であり、オタクカフェの従業員や作品世界で戦う戦士という肩書を外したところでは、動物好きでカワイイ好きの女の子であるのです。彼女のカワイイ好きは作品享受に限った話ではありません。嗜好は作品の好みにも反映されていますが、そこから外れた現実世界にこそ重点を置いています。


本題

構造の反復

本題と書いたそばから余談なんですけど、先に書いておきます。

6話のストーリーは、怜が自分の好きなものを好きと言えるようになるという話でした。
見えやすい形としては次のように表現されています。怜ははじめ現実世界で人の目を気にしていたせいでチュウ太郎に興味がないふりをしたり、道端の犬を撫でられないでいたのが、作品世界では一人の時に動物と存分にふれあい、その時仲間に隠していた可愛いもの好きがばれましたが、自分の好みを素直に表現することを認め、最後には現実世界でも仲間の目を気にせず泉水の前でも犬を可愛がることができていました。
これは、意味合いはちょっと違いますが、映像として描かれているものの構造は5話の焼き直しです。5話はというと、自分に自信の無かったちまりがイリーナの誘いを断り、作品世界で成長し、ラストは将棋のシーンに回帰しつつちまりの変化を描いて「締め」る。同じことを6話では映像的には犬を使ってしているということです。
物語作品の構造としては実に常套ではあるのですが、前回と同じ見せ方をするという点をみると、本作品におけるパターンの存在をにおわせます。というのは、直前の話と同じことをしている例がたった6話のうちにもう一つあるからです。3話と4話です。
仲間同士の大切な作品があり、そのうち一人だけが作品のことを覚えていたが他の子は忘れていて、そのせいで寂しい思いをしていたのが、みながそれを思い出すことで解消されてさらに仲がちょっと良くなる、という展開です。(参考:4話感想
(言うまでもなく、作品鑑賞・享受の態度のありかたを描くために、作品世界をウィルスが壊し、従業員たちがそれを救い、合わせて現実世界でも何らかの問題の解決や改善がなされる、というのがこの作品全体を通した第一のパターンですね。ちょっと問題が異なるかと思うので置いておきましょう。)

反復され、定型化すると、その型が一度きりだった時に持っていた価値は失われてゆきます。あるいは、繰り返すこと自体が価値を帯びてゆきます。各回を対比することで価値が生まれるということもありますが、今回は当てはまらないでしょう。あるいは、反復の形態を少しずつずらしていくことで何らかの効果を生む、というのは期待できるかもしれません。登場人物の成長物語を今後も組み込んでくることはあり得ます、が、3話4話を考えるとそれに限定されることもなさそうです。繰り返すことで一回一回の意味を軽くしてやるという見方がひとまず妥当かなと考えます。
3話の構成は作品享受がもたらす思い出という観点からしてそれ自体がテーマとなり得ましたが、4話ではストーリーを開始し形だけの落ちを作る道具でしかありませんでした。5話と6話ではともに登場人物の成長を描きたい意図のせいで、同じ風景に回帰するという作りはどちらの回でも重みを持ってはいますが、前回の話から繰り返されたという感触は消せません。同じパターンを使ったなという印象を視聴者に残すことになります。また5話と6話は似た観点を持っているというヒントにもなります。

注目すべきは、こうした個々のパターンが存在することよりも、物語を形作るための特定の展開や構造を後の回でも繰り返すことで、パターンを作っていく、という方法のほうだと考えます。反復し、定型化することで、意味を消してゆく、または別のものを付与していく、という本作の手際が見えてくるように感じられます。

さておき、以下ほんとうの本題です。

 

「好きなものは好き、自分の気持ちに正直にならんと、無くしてから言っても遅いんやで」

6話のテーマは南海の台詞がすべてと言っていいでしょう。一通り見れば誰しも同じ読み方のできるわかりやすい話であると言えます。
これは作品のコンセプトに関わる話なので、とても重要です。皆それぞれに好きな作品があり、作品の大切な鑑賞体験や、それにまつわる思い出を持っています。それを守ろうというのがぱすてるメモリーズの全体の設定でした。
であれば、彼女たち自身も自分自身の好きなものを好きと認め、表明する態度を大切にしなければなりません。そして、他人のそれを何よりも尊重しなければなりません。怜もコンテンツ享受者の一人として、自分自身の嗜好を大切にすることや、好きなものを好きと素直に表現する態度を体現することを求められました。また怜の仲間も、怜の何かを好きだという気持ちを絶対に尊重するはずなのです。作品全体のテーマからして、怜は今回のような変化をどこかで必ず実現することを求められていたと言えます。

 

泉水と怜のコミュニケーション

もうひとつ軸があります。今回のストーリーの発端は、泉水と怜とのコミュニケーションの問題でした。泉水が怜との間に距離を感じていて、それを解消しようと、怜のことをもっと知りたい、仲良くなりたいとアプローチをかけるところから話が始まります。怜は自分の内面をあまり表に出そうとはしませんでしたが、今回の冒険をきっかけに泉水は怜の可愛いもの好きという意外な一面を知り、怜も自分の趣味に関して以前より素直に自己表現できるようになり、最終的には二人の関係がそれなりに進展したように描かれています。

というのが、6話の二人の関係の流れですが、考察するうえで気をとめておくべきポイントがあります。

 

泉水の問題か怜の問題か

泉水は、従業員仲間である怜とうまくコミュニケーションが取れていないと感じています。かといって不仲なのかというとそういうわけでもなさそうで、怜のクールな振る舞いが他人と距離をおこうとしているように泉水の目には映るようです。あるいは泉水がそう感じているだけではなく、実際その通りかもしれません。怜は自分が可愛いもの好きであることを表明するのが恥ずかしい、自分のイメージと合わないと感じていて隠そうとしているのは事実です。
ところが、泉水は怜との交流における悩みを他の授業員に打ち明けると、怜は誰に対してもクールで泉水ととくべつ距離を置こうとしているわけではないのだと言われます。怜の普段の態度や性格を問題視する子はおらず、コミュニケーション上の不満も持っていない。怜は仲間と上手くやれていないわけではないし、普段の言動に対しては仲間から一定の評価をされています。ただ、泉水だけが怜との関係にぎこちなさを覚えているし、もっと仲良くなりたいと思っているわけです。

さて、二人の関係が上手くいっていないように見えるのは、泉水の問題でしょうか。それとも、怜の問題でしょうか。
泉水が怜との関係に不満があり、もっと仲良くなりたいと考えている以上、二人の間には実際に問題は起きているわけです。そしてどちらか一方が原因であるということでも恐らくないのです。

6話は泉水と怜の二人の視点が混在しています。冒頭部分を見ればはっきりとわかります。5話と同じく特定人物の成長譚という性質はあるものの、たんなる焼き直しではありません。二人の視点で物語が展開していることが5話との違いになっています。
二人のコミュニケーションの不和について考える上でのポイントは、泉水と怜のどちらに焦点を当てるかということです。

 

  • 泉水の場合

泉水の側から考えた場合、6話は仲間とのコミュニケーションというものに対する泉水の考え方が駆動する物語であると言えます。怜は泉水と他の子たちを区別しているわけではなく、他の子たちは怜の態度に不満を抱いていないのに、泉水だけが怜との交流の仕方を問題視しています。泉水の価値観や信念によれば、怜と自分との現状は改善すべきなのです。
怜は自分のことを話さない。泉水は怜のことを知らないし、もっと知りたい。ロボットやプラモデルが好きなだけじゃなくて、私生活はどうだとか、他の趣味はあるのかだとか、一生懸命話題を探して、とにかく怜の内面に近づきたいと考えます。
仮に物語設計からの要請が無ければ、泉水以外は怜の態度を問題視していなかったのですから、怜は乗り越えるべき課題を抱えてはいなかったとも言えます。怜は以前のままでも従業員仲間たちと上手くやっていくことはできたかも知れない。できなかったかも知れないとも言えるでしょうが、泉水の見聞きした情報からは自分の抱く違和感の他に問題は見つかっていない。にもかかわらず、泉水は怜にアプローチをかけた。とすれば、泉水の個人的な価値観こそが6話のストーリーを動かしたという見方ができます。

 

  • 怜の場合

怜の側から考えた場合、6話は怜が自分の正直な気持ちを隠そうとするあまり、普段から冷めた態度を取りがちだったかも知れない、ということでしょう。すでに書いたように、「好きなものは好き、自分の気持ちに正直にならんと、無くしてから言っても遅いんやで」という南海の台詞が表すテーマに繋がります。
怜が可愛いもの好きであることを隠そうとする点が、彼女の解決すべき問題であったとすれば、泉水以外の子が怜の性質を問題視していなかったということは、従業員のうち泉水ただひとりが怜の抱える問題に気付いたということになります。
可愛いもの好きであることを隠していたのは、アニメ公式サイトのプロフィールにあるように、彼女の恥ずかしがり屋で本心を隠そうとしてしまう面によると考えられます。彼女のこの性質は、今回泉水とのちょっとした不和を生んだように、欠点として問題を発生させることもあります。それが6話のストーリーで少しだけ改善に向かったと見ることもできるでしょう。

(ところで、同校の二人だけは、怜のほんとうの嗜好を知っているか察している、また性格を深く知っているせいで怜のいまの態度の理由を理解しているととれる描写が何個かありました。萌えポイントですね。)


趣味について

ぱすてるメモリーズでは、個々の作品をそれぞれ大切にし、それを鑑賞する者の思い出をまた大切にするという考え方を取っています。そこには、知人同士での思い出の共有や、作品を知る人同士の交流、作品を知らない人への紹介というかたちでのコミュニケーションなども含み、作品を通じて人と人とが関わりを深めていく様子も描いてきました。

一方で、6話の怜はプラモデル、5話のちまりは歴史といった具合に、登場する女の子たち一人一人が別々の趣味を持っています。趣味の情報は公式サイトのプロフィールでも確認できますが、各回でも注意して視聴すれば彼女たちの言動に各々の趣味嗜好が反映されていることもわかります。3話では美智のドール趣味が前面に押し出されていたことも思い出されます。各人わりと開けっ広げにしているのに誰も否定しないという良い関係がある、もしくは暗黙的に共有された倫理があることもわかります。

6話のストーリーのきっかけは、泉水が怜と仲良くなろうとすることでした。最初に近づいたとき泉水は怜の好みを聞き出そうとしますが、そのとき話しかけるきっかけとして、怜が喫茶店で広げていたプラモデルのことを持ちだします。泉水は質問をし、怜は回答しますが、泉水はプラモデルに興味があるわけではなく、怜も簡潔な回答しかしないため話は広がりません。
最初はそんなちぐはぐなやりとりでしたが、最後には泉水は自分はプラモデルには興味もないし知ろうとも思っていないという正直な態度を見せます。怜も6話の経験で素直になりましたが、泉水もまた怜とのコミュニケーションにおいて嘘のない態度を取ることができるようになったと言えます。

ぱすてるメモリーズは、個々の作品は楽しみや思い出を共有できるものとして扱いますが、それとは別に、ごく個人的な趣味とでもいうような概念があります。6話ではとくに、個人の趣味というのは必ずしも他人と共有するものではないし、できるとも限らないという表現をはっきり出しています。そうした態度も他人の趣味を尊重することなのでしょう。興味があるふりをしたり、興味がないのに話題にしようとしたりしなくてもいい。誰かと分かち合うことをせずとも、自分が確固として好きであれる趣味を彼女たちは持っています。
(泉水のプロフィールの趣味の欄が「特になし」となっているのが気がかりではありますが、いずれ言及されるのでしょう。いやされないかも知れません。あまり信用できないので何とも……。)

 

ぱすてるメモリーズ 5話

最初は、なんて空っぽな回だろうと思いました。5話の内容は言うなればちまりの成長譚なのですが、そういった表層はぱすてるメモリーズにおいては意味を持たないだろうと考えていたからです。本作品の各話のストーリーそのものの分析には元々興味はありませんでしたし、視聴直後は今回ばかりは感想が書けないかなと諦めていました。
けれども、あれこれ考えているうちに、今回もいくつか気になる点が見えてきました。

結論から言うと、ちまりの心情描写に終始していたという点が、5話のポイントかなと思います。


本題に入る前に、4話の補足をしようと思います。

 

4話の補足

作品の価値について

4話では、「みにばす!」の本はおもちゃと一緒に無造作に箱に放り込まれていました。本の扱い方としては普通あり得ないことです。そのうえ、作品設定を聞いただけで内容を知らなかった従業員からは変態ラノベ扱いされています(実際に読んでみることで最終的に評価は引っくり返りますが)。
一方で、店内で客に提供するための本はきちんと棚に陳列されています。店長の指示なのか、従業員も客も興味を示す人が少ないであろう、ハードカバーの普通の本や、中身は写真か絵画と思われる額も飾られています。
1話では、「うさぎさんカフェへようこそ」は何冊も手に入る巻もあれば、一冊も見つからない巻もありました。同じ巻が何冊見つかろうが、合計でどれだけ大量に集まろうが、全巻揃えるという目的を果たすまで本探しは継続されます。
彼女たちが救ってきた「うさぎさんカフェへようこそ」も「薔薇色の乙女」も、それを好きでいる人がいて、その人が作品を再び求めたからこそ、従業員の目に入り、ウィルスから救われたのだと言えます。

こうした描写からは、コンテンツあるいはそれを提供するためのモノの価値というのが、恣意的に決められていることが読み取れるのではないかと考えます。

「うさぎさんカフェ」は全巻揃えることが重要なのであって、同じ巻が複数あってもあまり意味はないのです。棚に陳列するときに同じ巻を3冊も4冊も並べるでしょうか。通常はすべての巻を1冊ずつ並べるはずです。これは、数の多少により価値の大小が定まるということです。漫画を揃えることに限らず、収集物の価値がその希少性により左右されるというのは一般的なことです。
作品を救うというストーリーにしても、どんな作品であれ、従業員たちの目に留まらなければ忘れられていく道をたどるだけです。目に留まったとしても、従業員がその価値を知らないならば、「みにばす!」のようにガラクタと一緒にしまわれたり変な作品として捨て置かれてしまうかもしれません。

本作の設定として、秋葉原からオタク文化が消えたという出来事は、「全ての作品」が失われつつあることを意味します。しかし彼女たちは「全ての作品」を救うことはできないし、救おうともしていません。明らかに個人的な事情から作品の価値を定め、救うべき作品を選んでいます。

 

12人という人数について

12人というのは大人数ですが、これだけ揃えるのには理由があるでしょう。
まずは、以前も書きましたが、美少女のレパートリーとして必要であったこと。そして、各話の動機として活かされているように、どんな作品でも誰かが知っている、好きである、興味を持つ、というオタクの集合的知性としての機能があります。つまり、どんな作品でも救える可能性があるということです。
他にも、3話の感想でもちょっとだけ触れた話題ですが、作品の好みも接し方も、鑑賞体験から受け取る価値も、個人によって様々であることの表現でもあります。同様に、オタクたち自身の個性も人それぞれです。一口にオタクといっても一人一人は別の人間ですから、仮にその性質に何かしらの共通項があるのだとしても、当然いろんなひとがいるってことです。

 

では、本題に入りましょう。


本題

ちまりの心情描写しかしていない

5話はこれまでの話とくらべて決定的に異なる点があります。全編通してひとりの登場人物の心情描写しかしていないという点です。ちまりの心情とその変化以外に、何ひとつと言っていいほど内容を持たないのです。非常に徹底しています。

物語の動機として、ちまりの内面的な問題がありました。ちまりは自分がウィルスとの戦いで仲間の足を引っ張っているのではないかと自信を無くしています。その自信の無さは日常のコミュニケーションにも影響し、将棋の相手をしてほしいというイリーナの依頼を拒否してしまいます。そこから冒険が本格的にスタートします。
簡単に言えば、ちまりの内面の問題を解消するのが5話のストーリーです。
ちまりが自分など役に立たないだろうと考えてイリーナの誘いを断ると同時にウィルスが現れ、作品世界での冒険を経て、成長し、現実世界に帰還します。そして、再びイリーナと将棋を指すシーンに繋がります。5話の設計は比較的はっきりしています。
従業員たちを「美少女の亡霊」と見なすならば、彼女たちの「成長」を描くことはわたしの想定からは外れるのですが、5話の内容を考えると筋は通っています。

ちまりの問題は、単に自信が無いだけで、人格に欠陥があるわけではないし、彼女の果たすべき役割を全うできていないということもありません。彼女の行動が周囲を巻き込む重大な問題を引き起こしたわけでもありません。
5話ではちまりの自分自身への評価、チームの中での役割の再確認、そういった内的な問題のみが取り上げられ、最終的には解決します。その過程は、客観的には特別な事件を伴わず、ウィルス退治という日常の習慣のなかで、彼女は自らの課題を進展させる切っ掛けをさりげなくつかむことになります。


5話における鑑賞者と作品との関係

一人の登場人物の内面にフォーカスして物語を構成するというのは4話までとは明確に異なる態度です。4話までは鑑賞者の作品との接し方、作品がもたらす鑑賞者同士のコミュニケーションといった話題に注目していました。その中で、個々の作品に対して特別な思い入れを持った人物が必ずいましたが、特定個人の内面を掘り下げることはなく、内面的な変化を緻密に描くということも無かったと思います。
ところが、5話は状況が異なります。ちまりと「しょうおうのおおしごと」との間に深い関係はありません。ちまりが「しょうおうのおおしごと」の世界に出向くことになったのは、たまたま目の前に知っている作品が現れたことが理由です。ちまりに限らず、「しょうおうのおおしごと」に格別の思い出を持つ人物は誰一人登場していません。5話の物語の動機は「しょうおうのおおしごと」という作品の側にはなく、ちまりの内面的問題にあります。

言ってしまえば、扱われる作品は「しょうおうのおおしごと」でなくてもよかったのです。「しょうおうのおおしごと」という特定の作品と、そのファンとの関係は、5話のストーリーの根幹には含まれていないのです。

そうであっても、5話もこれまでの回と同じように、鑑賞者と作品との関係はきちんと描かれていたと言えます。5話で表現されているのは、作品世界での冒険を通じて、ちまりが成長する様子でした。つまり、作品を鑑賞するという体験により、鑑賞者が何かを学んだり、人格的に成長したりするという関係が、5話では語られているということです。


ヒロインはまいちゃん

今回の作品世界では、戦闘の主力を担っていたのは従業員ではなく、ゲストキャラの少女でした。詰将棋という特殊なルールで挑んでくるウィルスに、ちまりも他の二人も打つ手がなく、唯一戦えるのが、作品世界の登場人物である「しょうおうのおおしごと」のヒロイン「まい」でした。マザーウィルスを倒し、作品世界を救うのも、まいの力によってです。従業員の仕事は将棋(チェス、トランプなどもいましたが)で勝負を挑んでくるウィルス以外の雑魚を排除し、主力戦闘員のまいをサポートすることでした。


ちまりの成長とは

ちまりの問題と絡めて考えてみましょう。普段の戦闘では、渚央と南海が前衛、ちまりは後衛のサポート役でした。2人はちまりのサポートを頼りにしているのですが、ちまりはそうは思っていなく、自分は役立たずで足手まといだと考えています。
今回の作品世界では、相手の主力と戦えるのがまいしかいないため、3人ともサポートに回ることになります。ちまりにとっては普段通りの役割のはずですが、彼女は無力な自分に焦りを感じているため、積極的に前に出て戦う役目を買って出ようとしますが、ことごとく失敗に終わります。一方、渚央と南海は自分の役割を理解し、まいのサポート役として適切に仕事をこなそうとしています。

ちまりの失敗には、彼女の能力的な適性を表現する意図もあったのでしょうが、別の意味もあるはずです。ちまりは自信こそ失っていますが、仲間の評価からすれば、サポート役としては実際に有能です。ゆえに成長描写において、先頭に立って戦う役目で成功体験をするべきではないのです。

普段の彼女に重大な欠落の無いことが重要です。ちまりは物語的に決定的な変化を求められてはいませんし、彼女自身もそれ自体を目的とはしていません。普段からパーティ内で十分役に立っているサポートメンバーとしての能力を、他者からの言葉によって確認し、今の自分に自信を持つことがちまりには必要なのでした。
ですから、5話では普段と同じ役割を与えられ、普段と変わらない仕事を遂行することが求められたのです。


作品鑑賞の体験は個人的なもの

5話で作戦の中心人物となるのはゲストキャラであるはずのまいでした。登場シーンでは、従業員の3人が詰将棋亀に襲われているところに颯爽と現れ、亀の群れをなぎ倒してゆきます。敵側の主戦力である亀やマザーウィルスに対抗する力を、まいだけが唯一持っていました。従業員たちはまいをサポートすることが役目です。5話で従業員のうちから主役として抜擢されたちまりもその一人です。彼女たちは手助けはするけれど、ヒロインはあくまでも登場人物であるまいです。
5話のこの配役には重要な意味があります。作品鑑賞という体験と、サポート役に徹する=(作品世界で)主役として活躍しない、ということが重ねられています。

ウィルスとの戦闘に独自ルールが設定されているのには、従業員を戦闘から排除するという機能があります。世界独自のルールで戦えるのはその世界の登場人物のみです。将棋は現実世界にも存在するゲームですが、一般人である彼女たちがまいと同等の戦力となることはできません。だから機能としては世界独自のルールのようなものです。
それは「あっち」と「こっち」を分けるルールです。5話では、戦闘力を発揮できない従業員たちは、サポートとして一応参加しているとはいえ、自分が守れないルールによって行われるゲームに臨むときの立場は傍観者です。今回の彼女たちは、そしてちまりは作品の鑑賞者なのです。ウィルスたちとの戦闘において彼女たちが大きな成果を上げることはありません。鑑賞者は作品世界に介入することはできないのです。4話までとは異なり、5話はそういった設計になっています。

ちまりは普段からサポートの役回りであり、今回のストーリーでは普段通りの仕事の中での自己肯定が目指されていました。積極的な戦闘は失敗によってことごとく否定され、まいのサポートに徹することを強いられます。まいの活躍を見届けることこそがちまりの本当の使命なのでした。自分のできることを精一杯やればいい、という自分の目指すべき姿勢を、自分のできることを精一杯やる以上のことができない状況で、まいの登場する物語の一部始終を見守ることによって、ちまりは知ることになります。

4話までの回では、作品自体や作品鑑賞という行為をコミュニケーションの手段や、思い出の共有手段として扱っていました。ところが、5話では、個人的な鑑賞体験と、そこから得られる成長という側面をクローズアップしています。作品鑑賞を、他者と共有する体験としてではなく、個人的な体験として描く視点を持っています。
ちまりのパートナーの2人は将棋に興味がなく、ちまりもまた将棋が特別好きという訳ではないようです。ちまりと2人は作品に関連した共通の興味ある話題を持っていません。また2人がちまりに対して口にするのは、現実でのちまりとの関係についてや彼女への肯定の言葉だけ。それはちまりの心を導くのみです。作品世界でのちまりの行動を強く束縛するような指示や意見はしません。渚央と南海はちまりの作品体験に口出ししないし、彼女たちの言動がちまりの鑑賞態度を決定的に方向づけたりもしません。
冒険の基本的なプランが決まれば、あとはちまりはちまりの意思で行動します。そうしてあらゆるものを見聞きし、まいの言動やパートナーの2人の言葉も、全てを作品鑑賞の体験として彼女自身に引き受け、現実世界に持ち帰ります。 

ぱすてるメモリーズ 4話

ぱすてるメモリーズ4話見ました。感想書くのどうしようかと思ったんですけど、突然やめるのも気持ち悪いので書きます。筆を執るのにこれまでよりも大きなエネルギーを要したので、これで最後になるかも知れません。ならないかも知れません。

 

前置き

・結局そんなに真面目に語るようなアニメではない

1話があまりにも説明不足かつ違和感のある描写に溢れていたので、もしかしたらちゃんと読めば面白いアニメなんじゃないかと思って、思いつくことを何でも書いてきましたが、2話で疑問を持ち、3話で確信した通り、これといって面白くないアニメです。
これは、そこそこヘビーなアニオタが、各話の本筋自体のつまらないことを承知で見るアニメだと思います(わざとクソっぽく作ってるので仕方がない)。ゆえにわたしには厳しいです。

本作品の魅力を知るにあたり、素晴らしい記事がありますので、未読の方は是非読んでください。こういうのが恐らく正しい態度だと思います。

nyalra.hatenablog.com

 わたしも一番アニメ見てたのがゼロ年代といわれる時期だった憶えはありますが、それでもごく一部にすぎませんし、本当にただ見ていただけだし、周辺情報にも興味はなく、以前以後の積み重ねもなく、同人活動にも縁がなかったので、肝心のオタクのハートが理解できないようです。すごく損をした気分です。

 

本題

・テンポがいい

これまでの話と比べてテンポが良いです。作品世界に入るまでの導入にややじっくり時間をかけますが、それっぽいやりとりを上手く繋げているので退屈はさせません。そして作品世界に入ってからの話はサクサク進み、わりと要素が多めなのに30分枠の半分強で収めているのはなかなか見事です。3話までと比べて時間がとても短く感じられます。
3話までは、キャラ同士のやり取りや話の展開のどうしようもなく滑っている感じは、わざとらしく作りましたというのを隠そうとしていませんでしたが、4話はそういった作為を感じさせず、ごく自然に古臭いというか野暮ったい雰囲気を醸成していました。
話の内容はさておき、1話30分で作ったアニメとして心地よく時間を預けられるものになっていると思います。


秋葉原の風景も秋葉原の人間も登場しない

4話の一番の特徴です。3話までは秋葉原で生きるオタクたちの姿がどんなに短い時間であれ描かれていました。最後には喫茶店が活気づいた様子を描写するというやり方で話を締めていました。
4話で登場するのはバスケをする女の子3人組です。作品の思い出を取り戻すことで達成した変化を、彼女たちが再び仲良しになる様子として描いています。
彼女たちは「一般人」でしょうか。違います。彼女たちは作品を愛するオタクでしょうか? 違います。彼女たち3人組は「みにばす!」という作品をきっかけにバスケを始めた作品のファンのように説明されていますが、彼女たち自身が「ロウきゅーぶ!」のパロディキャラとして登場しています。作品を愛する生身の人間として存在しているのではありません。

4話ではついに秋葉原の風景は一瞬も描かれませんでしたし、客さえ一人も現れませんでした。
女の子たちに関する「思い出が戻って友達同士の仲がちょっと良くなった」という変化は意味を持っていますが、それは3話で成されたことと何ら変わりありません。話の導入として使われているにすぎません。
4話での成果だと唯一言えるのは、「みにばす!」を読んだことのなかった従業員が作品を知り、それを好きになったことです。4話で成されているのは、つまるところオタク同士の作品交換です。
従業員は過去に人気だったある作品のことを知って興味を持ち、読んでみてその面白さを知ります。それから既にその作品を知っている子とその楽しみを確認し合います。他の子たちもその様子を見て自分らも手に取って感動して好きになります。これがひとつの作品のために現実で実行されたことです。この一連の出来事を、ウィルス退治によって達成された作品の救済と置き換えています。


・オタクの箱庭

解り切った話ですが、この作品はオタクのための物語です。はっきり言ってオタクしか登場しません。
4話では従業員しか登場しません。従業員たちは美少女でもありますがオタクでもあります。1話2話で描かれているのも、かつて作品を愛した人たち、何かのきっかけで思い出した人たち、彼らが再び作品を手に取る様子です。

確かに個々の作品は年月を経て人々の記憶から薄れていくでしょう。インターネットの性質なのか、一瞬だけ爆発的にブームになってすぐに鎮火する話題が目に付くのも否定できないことかも知れません。作品は量産され、個々の作品の寿命はとても短いように感じてしまうのも無理はないと思います。
ぱすてるメモリーズは、それを作品がウィルスに侵されたのだと表現し、従業員はウィルスを退治して作品世界を救います。けれども現実の秋葉原の風景は何も変わりません。ただオタクの隠れ家である「うさぎ小屋本舗」だけが賑わっていく。そこに集うオタクたちは、過去の作品をダシにおおいに盛り上がる。
そんな物語を既存作品の乱暴なパロディでやって、糞寒い脚本で片づけて一応の落ちを付ける。視聴者のオタクは仕込まれた細かいネタを拾ったり、正直につまらないと言ったり、あまりのくだらなさが逆に面白いと言ったりする。
オタクの自作自演で独りよがり、自己完結の、ひどい楽屋落ちアニメです。
いいえ、わたしは、まったく悪いとは思いません。

物語に一般人は登場しません。一般人はこのアニメを見ないし、このアニメを見ない人はこのアニメには登場しません。彼女たちが救っている作品たちにもきっと興味を示さない。彼女たちはオタクのために作品を救います。一般人の入り込む余地はどこにもありません。このアニメはただ楽しむには決して出来の良いものではありません。
オタクにしたって、作品を壊すウィルスなんてありはしないのを知っているし、彼女たちの行動で作品が救われたとも思いはしないでしょう。本当に作品が消えてしまうことだってないと思いますし、逆に誰の記憶にも永久に残り続けることだってないでしょう。

ただ、忘れてしまった人にときどき思い出してほしい、知らない人には知ってほしい作品をそれぞれ持っているというのは事実です。それを自分が心から好きだという、ただそれだけの理由で、です。


・オタク向け作品というくくり

ウィルス退治というのはわかりやすく例えているだけで、ある作品のために誰かが現実で何か行動を起こして、それによって作品を思い出す人がいたり、新たに好きになる人が増えたりしているというのが、本作品のストーリーです。
ポイントは、それが個々の作品の認知を広めるという、幅の大きな言い方ではなく、限定的に「オタク間の交流」として描いているという点です。ちょっと深読みすると、「オタク向け作品」というくくりをオタク自らが認めている(もしかしたらあえて強調さえしている)という見方もできます。事実ぱすてるメモリーズが扱う作品も深夜アニメばかりです。

本作品の視聴には関係ない話かもしれませんが、いわゆる「オタク向け」という特殊な扱い方をされる作品の価値を、一般の人にも認めてほしいという考え方もあるでしょう。徐々に認知が広まり、海外での人気が報道されたりもし、じっさいにそういうアニメをもっとカジュアルに楽しむ人もすごく増えたのかも知れません(裏付けのないわたし個人の印象です)。
それでも、こうした「オタク向け作品」というくくりや、それによる「オタク間の交流」というあり方もやはり説得力を持ちます。だからといって何か主張したいわけでは全くありませんが、本作品に込められた思いのあらわれのひとつかなという気はします。

 

ぱすてるメモリーズ 3話

基本的にクソアニメという認識でいいんだと思いますが、1話2話を見ていれば3話について書くことはありますし、せっかくだから続けて書きます。

 

前置き
  • 何もかも寒いし、話の展開も雑

このアニメが大変なアニメっぽくみえるのはこの辺が理由でしょう。ジャージとかうなぎとか酷いですし、関係ないネタを唐突に強引に入れるのもすごいです。
話の流れも多くのものを端折りながら寒いやりとりを挟むかたちで進めているので大変です。1話につき1つの作品を扱うのでネタを搭載することまで考えると30分という時間は少々短いのかも知れませんが、ぱすてるメモリーズを1時間見せられたら困ることも事実ですから仕方がないのかも知れません。好きです。


本題

人選の理由

前回の3人はキャスティングの理由が不明でしたが、今回は選出メンバーに過去のストーリーを作ることできちんとクリアしていました。3話の主役は美智であり、彼女には選出する明確な理由がプロフィールに絡めて用意されていました。一方、他の二人は美智に付随して登場していたのに近いでしょう。
また、先ほど調べてわかったのですが、今回の3人も、1話2話の3人も、学校が同じというつながりがあるようです。1話でトップキャラのピンクを出したいのはわかりますから、1話2話のキャスティングも自然ああなったと言えるかもしれません。


熱量の差

さて、3話で目立つ点を挙げるなら、そのひとつは、ある作品に対する個人個人の思い入れの度合いが違うということです。
従業員のうちで「薔薇色の乙女」の内容をはっきり憶えていたのは美智だけです。彼女にとっては結衣奈と薫子との、3人の思い出の作品で、そのことこそを大切に思っていたからです。にもかかわらず、結衣奈と薫子の2人もその作品のことを忘れていた。他の従業員も朧げに憶えているだけで、詳しい内容までは思い出せませんでした。
結果的には、結衣奈と薫子は「薔薇色の乙女」の内容と、それにまつわる美智との思い出を思い出し、作品世界で戦うための力を得ました。
美智にとっても、結衣奈と薫子にとっても、作品そのものの記憶だけが大切なわけではありませんでした。作品を一緒に楽しんだ3人の思い出であったことが大事だったのです。

美智と2人との間にも、3人と他の従業員との間にも、作品に対する熱量には差があります。
作品を鑑賞するという体験それ自体が、個人が生きている人生のなかで、あらゆる事物との関わりがあるなかでなされることです。時々の生活環境、鑑賞時の年齢、それまで蓄積してきた他作品の観賞経験、鑑賞時に持っていた知識体系、聞きかじった程度の体系化されていない情報も様々です。
同じ作品を鑑賞するのだとしても、鑑賞体験の質には個人差があるし、当然そこから生まれるであろう「思い出」というものも違ってきます。であるならば、今現在において持っている作品に対する熱量も違ったものになるでしょう。
そのことがとてもよく表現されていたと言えます。


思い出は個人的なもの

1話ではオタク文化の衰退した秋葉原の風景を描いていました。オタク文化が廃れたことでオタクコンテンツを扱う実店舗が消え、それを求めて訪れていた人たちもいなくなった景色が映されています。
無機質なオフィスビル街になり果てた秋葉原の風景から受ける印象や、推察できる本作品全体を貫くストーリーとはどんなものでしょう。
秋葉原は日本のオタク文化の中心地だったが、オタク文化の衰退によってこの土地から以前のような活気は失われた。だから彼女たちは、自分たちの大好きなオタク文化を取り戻したいと願う。そのために個々の作品の思い出を救っている。作品をひとつひとつ蘇らせることでオタク文化は復興し、秋葉原は元の風景を取り戻す。
およそそんな感じかと思います。しかし3話で示唆されたのは、それとは全く異なるものでした。

彼女たちが体を張って守ろうとしているのは秋葉原オタク文化それ自体ではありません。個々の作品それ自体でもありません。3話で語っているのは、本当に大切なのは、作品を鑑賞することで生まれた個人個人の思い出であるということです。
結衣奈と薫子が思い出を取り戻すことで、美智が大事にしていた「薔薇色の乙女」にまつわる思い出を再び3人で共有することが叶いました。
それは3人の問題であり、秋葉原の問題ではありません。

この理屈に準ずれば、彼女たちの活躍(作品世界でのウィルス退治という意味でも、現実世界での何らかのアプローチという意味でも)がオタクたちのコンテンツ鑑賞を促したとしても、それもまた秋葉原の問題ではなく、鑑賞者個々人の物語である。3話から読み取れるのはそんな態度です。

1話2話について振り返ってみるのもいいかも知れません。1話2話のストーリーは、「うさぎさんカフェへようこそ」が思い出の作品だという女の子が、交流ノートに残した言葉がきっかけでした。SNSでの呼びかけに応えてくれた人たちも、作品に対してそれぞれ大事な思い出を持つ人たちだと考えられます。ウィルスを倒したあとに店に来てくれるようになった客もかつて作品を愛した人たち、そしてこれから作品を愛し思い出を作るかもしれない人たちです。店長が作中のそれを参考に店の制服をデザインしたのも、作品に対する特別な思いの現れだと考えられます。


秋葉原の風景

3話の描写を総括すれば、作品を救い思い出を取り戻すという活動が目指すのは、ひとつひとつの作品の記憶を秋葉原という土地全体によみがえらせるのではないことがわかります。じっさい、従業員たちは1話から3話にかけて2つの作品を救うことができましたが、秋葉原の景観に変化があったという描写はありません。
それでも彼女たちの行動が、忘れられていく最中にあったいくつかの作品を再び人々の記憶に上らせ、かつてのファンたちに再度作品を体験するきっかけをもたらしたのは間違いのないことです。

彼女たちの活動成果を見て取ることができるのは、彼女たちの働く「うさぎ小屋本舗」の様子の変化によってです。1話以前も、じっさいにはそれなりの客入りがあったのかもしれませんし、そのうち何割かはオタク趣味を継続している人なのでしょうが、作中では解りやすさのためか閑古鳥の鳴く様子が映されているばかりです。それに対し、ウィルス退治を終えてからの喫茶店の様子としては、彼女たちの救った作品を目当てに訪れる人々が増えたらしいことが描写されています。3話の解決後に「薔薇色の乙女」のコスチュームを着るというキャンペーンを実施したこともこの文脈上にあります。
個々の作品を救うことで活気づいたのは、秋葉原という土地ではなく、喫茶店「うさぎ小屋本舗」だったことがわかります。

本作において、秋葉原の風景は単純にオタクの一般意思を表象しているのではありません。
いまでは彼女たちの居城である「うさぎ小屋本舗」が、以前は秋葉原にいたであろうオタクたちの居場所となっています。そうして、作品を救うごとに「うさぎ小屋本舗」は活性化し、彼ら愛好家の姿も増えていく。
本作品においては「うさぎ小屋本舗」こそかつての「秋葉原」なのです。

本作品の視聴において、上記は非常に重要な点だと考えています。


彼女たちもまたオタク

彼女たち従業員は古今東西の、もしかしたら忘れられてしまったものも含む、無数の美少女コンテンツ・美少女キャラの亡霊です。そして、オタクたちの限られた(もしかしたら唯一の)居場所を、自分たちの活動場所としています。「うさぎ小屋本舗」で接客をしながら、グッズを販売し、店内を装飾し、自分たちもオタクとしてコンテンツを鑑賞し、同時にウィルスを退治して作品の思い出を復活させる。
彼女たちは美少女コンテンツ・美少女キャラクターの亡霊でありながら、何らかの意味で、それを摂取してきたオタクたち自身とも重ねられていると考えられます。

引っかかる点もあります。彼女たちの救うのはどれも連載を終了した過去の作品であり、個々人の記憶の中にのこる思い出であり、訪れるオタクたちも恐らく昔の作品に思い入れのある人です。こういった昔の作品にこだわる態度と、他の要素とを関連させて掘り下げることもできるでしょう。材料の提示されていないうちは根拠のない推測しかできないため、現段階でこれ以上の言及は差し控えますが。


おまけ

彼女たちはきっと消えない

根拠のない推測と書いたそばから矛盾するようですし、先の展開を考えてもあまり意味はないのはわかりますが、それとなく見えてくる思想の片鱗(あるかどうか知らんけど。クソアニメだし)から、彼女たちの存在の理由や意義について思いを巡らすのも楽しいことでしょう。
「うさぎ小屋本舗」が新しい秋葉原なのだとすれば、彼女たちの物語を一通り終えて人々の思い出が復活したときも、彼女たちは消えてなくなりはしない。そんなことを考えます。

オタク文化の聖地としての秋葉原は復活しないでしょう(実際は知らんけど)。でも「うさぎ小屋本舗」はある。「うさぎ小屋本舗」として成立する秋葉原がどんな意味を持つのかは、わたしの不出来な頭ではよくわかりません。そも今の段階で考察すること自体困難です。
でも、ひとつだけ思うことは、彼女たちはきっと秋葉原という土地に縛られる必要がなくなります。「うさぎ小屋本舗」があれば、秋葉原という土地がなくても存在できるようになるのです。そんな明るい想像をしてしまいます。

ぱすてるメモリーズ 2話

結論を書きます。クソアニメです。じゃなくて、
一番のポイントは、1話にて現実世界で起きた問題の解決に、ウィルス問題が直接的に関与していないということ。

「うさぎさんカフェへようこそ」がまた読みたいという女の子の願いをかなえるために、単行本を全巻揃えることが1話の目的だったはずです。
同時に、作品の思い出が消えてしまうという問題も描かれていたかと思います。ウィルスに作品世界が侵されることによって作品世界が破壊され思い出も消えてしまうという設定です。
詳しくは後述しますが、これは現実に起きている出来事ではありません。

さて、「うさぎさんカフェへようこそ」を全巻揃えるという1話で提示された目的は、2話で達成されました。
いかにして達成されたか、ということが重要です。
マザーウィルスを退治して世界を元通りにしたことによってでしょうか。

違います。

1話でカフェの従業員が秋葉原中を走り回ったことと、SNSで投稿が拡散されて提供者が現れたことによって、達成されたのです。

ここが2話のポイントです。では詳しく書いてゆきましょう。

 

その前に、今回は先に疑問点を書いておきます。

 

疑問点

  • 作為的なクソ脚本とガタガタ人物作画

作品世界に入ってからの話は極めてくだらないものでした。子供向け変身ヒーロー・ヒロインものみたいな展開だけど、ものすごく大雑把だしキャラのやりとりも最悪レベルの寒さです。
また背景の丁寧さに比して人物の絵があまりにも雑だったのも非常に印象的でした。人物の絵にも動きにも見所が一切ない。
絵の方はどうだか知りませんが、脚本は明らかにそのようにわざとクソとして作られているでしょう。といってもどういう意図でそうしたのかはよくわからないです。単に悪ふざけという本作のスタイルに沿ったやり方なのかも知れません。

言うまでもなく、すべてを真実大真面目にやってこうなってしまったと見れば、こんなものは酷すぎますから即切りです。脚本も絵もきっと作為的なものだと考えて見るしかないです。

※(1/18追記)ツイッターで検索して、不安定な作画のせいでごちうさのパチモン感がすごい、みたいなツイートを見かけてなるほどなと思いました。パロディやるだけじゃなくパチモン感を出すためにあえて人物作画を雑にしたというのは納得のいく理屈ですね。そもそも彼女たちが古今東西の「美少女キャラ」のパチモンみたいな存在ですし。

 

  • メンバー選出意図が不明

メンバーが12人いて、キャラが被らないよう配慮されているとなれば、自然な発想として作品世界に向かうメンバーはその都度「選出」されると考えます。あの大人数は要するに美少女のレパートリーであるわけですから。
しかし2話で彼女たち3人が選ばれた積極的な理由があるのかどうかはやや疑問です。
原作の初期メンバーだから? 同様の理由で1話で最初に登場させたので続投した? おそらくそんなところではないかと思いますが、いずれも必然性はなさそうに思えます。

もちろん、この点については次回以降の選出方法によりはっきりしてくる事でしょうから、初回で判断するのは早すぎるとも言えます。

 

  • これらの疑問点は、一見たんなる詰めの甘さとも取れる

2話は(1話もだけど)全体的に極めて雑です。
それゆえ、ぱすてるメモリーズの「違和感」を、意図的な仕掛けだったり作品の思想の現れだったり、読み解く価値のあるものとみなしていいのか、それとも単なる「失敗」と見てしまうべきなのか、非常に心配になってきております。はっきりと意図的だとわかるクソはいいのですが、そうではない微妙な乱暴さに対しての評価に迷うのです。

はたして、このアニメの雑さが、どこまで計算ずくなのか、計算ずくでなくても作り手の信念に基づいて現れたものであって一貫性が保証される、そういう類のものであるか。それは視聴者として見極めるべき点です。作品に対する信用と、以降の視聴態度にかかわる問題です。

とりあえず、今回は判断は保留にしてまともに書いてゆきます。

 

ということで、前置きを終わります。

 

以下本文

ウィルスは作品世界を壊すか

設定上は、ウィルスに感染することで作品世界が壊れ、現実の人々からも思い出が失われるという事になっています。
しかし、もしウィルスを倒すのが作品を救うための解決策なら、1話でなんのために必死で本を集めたのでしょうか。もちろん集めてほしいという願いがあったから、作品の思い出を守りたい彼女たちは集めることに決めたのかも知れません。ですがそんな問題ではないのです。なぜそれを1話で描く必要があったのかという事です。
最初に書いたように、現実世界に対するウィルスの直接的な影響は描かれていません。漫画本が黒くなったような表現があるだけです。

ウィルスによって作品が失われるというのは、わかりやすく言えば「嘘」です。
漫画本がなくなったのは、「うさぎさんカフェ」が絶版になって、秋葉原中の書店を探し回っても全巻揃えられない状況だったからです。
そんな中でも、「うさぎさんカフェ」がまた読みたいという思いを持った人がいたことこそ注目すべき事のはずです。
最後にはSNSで情報が拡散して、フォロワーの誰かに1巻を提供してもらったことで全巻揃えることができました。ここでも、過去の作品を懐かしがる人が大勢いたこと、彼らの協力で目的が達成されたことが重要です。

以上が事実として描かれたものです。
1話の最後に誰かが言っていたように、「大切な思い出は消えない」のです。

一連の出来事にウィルスは何ら関与していません。
わたしが思うに、ここが2話の一番のポイントです。超現実的なことは何も起きていないのです。


「あっち」と「こっち」

2話でようやくきちんと描かれましたが、彼女たちには現実世界と作品世界を行き来する能力があります。そして、その扉となっているのが「うさぎ小屋本舗」です。

作品世界と現実世界、「あっち」と「こっち」を行き来できるのは、彼女たちとねじれウサギであり、彼らには共通した特徴があります。「あっち」の性質と「こっち」の性質を併せ持っているということです。

彼女たちは「美少女キャラの亡霊」/「生身の女の子」という二重性を持ちますし、この物語の主役として「ウィルスを退治する戦士」/「喫茶店で働く女の子」という二つの立場を持っています(正確にはこれは二重性を持つがために与えられた役割で、ここで挙げるのは順序が逆ですが)。
ねじれウサギは「動いて喋る謎の生物」であるけれど/かつては「うさぎ小屋本舗のマスコット」でした。
これらは前者が「あっち」、後者が「こっち」の性質と見なすことができます。
こうした二重性を持つために、彼女たちは「あっち」と「こっち」を行き来できるのです。

そして、うさぎ小屋本舗はそんな二重性を持つ者たちのたまり場、住処になっています。
また「美少女キャラの亡霊」である彼女たちと秋葉原の人々が、ともに安定して存在し接することのできるほぼ唯一の場所でもあります。
うさぎ小屋本舗は「あっち」と「こっち」との狭間で、両方の世界の法則が共存できる場所なのです。

なぜかと言えば、うさぎ小屋本舗自体が非常に特殊な場所であるからです。
まず、明らかに「メイド喫茶」/だけど「普通の喫茶店」をかたっています。さらに、視聴者のいる「現実」と/ぱすメモ世界の「現実」があることを前提し、「オタク文化の盛んだったころの秋葉原」と/「オタク文化の廃れた秋葉原」を対応させるならば、それぞれに繋がる要素として「アニメグッズ店」/でありながら「喫茶店」も併設している、という特徴もあります。
ゆえにうさぎ小屋本舗は、作品世界と現実世界の境界となり得ているという訳です。


彼女たちの見ているもの

ところで、秋葉のオタク文化が衰退したという状況は、現実の出来事として描かれています。実際に秋葉原からは実店舗が消え、数多くあったオタク系の雑誌も廃刊、漫画本はなかなか集まりませんでした。
これを1話2話で語っていたのが誰かといえば、うさぎ小屋本舗で働いている彼女たちです。

彼女たちは「あっち」と「こっち」の両方を行き来でき、両方の世界の風景を見ることのできる存在です。いまの秋葉原で、オタク文化の衰退が現実世界と作品世界の両方に起因することを知っており、さらに個々の作品を守るための手立てすら持つ、唯一の存在です。

作品世界と現実世界、「あっち」と「こっち」は明確に分けられています。ウィルスが作品を人々の記憶から消す力を持つとしても、直接侵略しているのは現実世界ではなく作品世界の方です。作品世界から現実世界には直接干渉できないし、逆に現実世界から作品世界へも干渉できません。このことは、彼女たちが両世界を行き来できる能力を持つがゆえに戦っている、という構造からして自明でしょう(少なくとも今のところは)。

オタク文化の衰退の原因は、設定上はウィルスによるものです。ウィルスは「あっち」の存在ですから、戦うことのできるのは彼女たちだけです。もし本当にウィルスが作品を破壊して思い出を消しているならば、その理屈を理解しうるのは彼女たちだけという事になります。
秋葉原の人々は現実世界しか認識できませんから、彼女たちの知る理屈は通用しません。彼らにとってオタク文化の衰退の原因はウィルスではないのです。
2話の主旨はここにあります。

1話は完全に現実世界の出来事で「現実的」な出来事です。(あの作品世界での)現実の出来事を、(視聴者のいるこの世界という意味での)「現実」と同じ仕方で理解できる秩序のもと起きたものとして書いている、という意味で「現実的」です。
繰り返しますが「超現実的なことは何も起きていない」のです。だからウィルスは世界を壊していないと言えるのです。

翻って、2話はまさにその超現実の世界です。超現実の作品世界で、ウィルスが作品世界を破壊し、結果現実世界では思い出が消えようとしています。彼女たちにしか認識できない事象を描いた、彼女たちにしか理解できない法則によって成り立つストーリーです。


彼女たちの見ているものだけがある

1話2話とも物語の視点は彼女たちにあります。1話は現実世界、2話は作品世界の話でしたが、ふたつの世界は彼女たちにとって容易に繋がる世界であり、双方をともに自然な体験として語ることのできる身体を彼女たちは持っています。
けれどもふたつの世界には明確な区別をしなければなりません。現実世界のみに身を置く人間には、作品世界に属する物事を知ることはできないのです。ウィルスなど存在しないし、ウィルス退治が作品を救う方法であるとは、誰も考えはしません。

ぱすてるメモリーズは、「あっち」側を認識できる彼女たちの視点から描かれた物語です。
言い換えると「こっち」側だけに属する者の視点による描写がない世界です。

世界は2種類あり、彼女たちの視点からはその両方を認識することができます。「あっち」を知る者は、「こっち」だけを知る者の言葉を語ることはできません。「あっち」と「こっち」をともに知ることで真実が見えることを理解しているので、「あっち」をふまえて語る事しかできないのです。

作中では、秋葉原にいる「生きた人間」の声や生のすがたというのは、ほとんど出てきません。
1話では残された数少ない店舗で、2話ではうさぎ小屋本舗の客として。またSNSや交流ノートの書き込みとして、わずかながら確認することはできます。現実世界に生きる彼らの見ている風景は、そこからうかがい知れるのみです。

であるとすれば、果たしてぱすてるメモリーズの世界の風景は、いったいどの程度「現実的」な風景といえるのでしょう。どこからどこまでが現実の風景なのでしょうか。

ぱすてるメモリーズ 1話

ぱすてるメモリーズの1話を見ました。
ものすごく面白かったわけではありませんが、書き残すべきことがあるかなと感じましたので、1話だけかもしれませんが、記事にしておこうと思います。

視聴後に調べたところ、本作はソシャゲが原作とのこと。原作を知らないで見ましたが、この記事を書く前にインストールしてちょっとだけやってみました。こちらに関しては、そこまで書くべきことも無かったかと思います。アニメの視聴を原作と関連させてもいいのかもしれませんが、1話に限って言えば無視してアニメのみについて書いてしまったほうがいいかなと思いましたので、そのように書きましょう。

ごちうさのパクリだのパロディだのと言われているようで、わたしもその作品は未視聴だったので1話だけ見てみました。まぁ、1話だけじゃわかりませんでした……)


どんなアニメか、彼女たちは何者か

結論から言いますが、彼女たちは「美少女キャラの亡霊」といえる存在ではないかと、そんなふうに見ておりました。オタク文化の衰退した秋葉原という土地に憑く地縛霊とでもいったところです。

オタク文化は衰退してしまっているので、彼女たちは生きた存在ではありません。なぜなら、彼女たちは「美少女キャラ」なのですから、生きていれば、あのように顕現するはずがなく、死んでいるからこそ現れている。
亡霊であるすなわち存在するはずのない存在なのに、生きているかのように振舞っている。とうぜん、そこには理由があるはずですね。
というわけです。詳しく書いてゆきましょう。


美少女がたくさん働いている「うさぎ小屋本舗」

まず、オタク文化の衰退した秋葉原という舞台設定なのに、トップキャラがピンク髪という時点で猛烈な違和感しかありません。
なんでお前はそんな不自然な髪の色をしているのか。
言うまでもないことです。彼女が美少女コンテンツのヒロインだからです。

「うさぎ小屋本舗」は元グッズ店で、いまは併設された喫茶店をメインに経営しているということでした。
しかし、グッズを目当てに来る客が多いとか少ないとか、そういう次元ではありません。うら若い美少女たちが大勢で、フリフリのコスチュームで働いている喫茶店。これは明らかにメイド喫茶など何らかのコンセプト喫茶店の様相です。オタク文化は衰退したはずなのにです。
加えて、大勢の美少女がワイワイやるという、ある種の美少女コンテンツの系統としての見た目を保つ設定としても機能していることがわかります。

キャラ被りしないようにそれとなくバラけさせた見た目や性格などの個性、設定。美少女コンテンツなら常套の手法でしょうが、ここはオタク文化の衰退した秋葉原。そんな女の子たちのひしめく「うさぎ小屋本舗」は異次元空間でしかない。
どの子からもそこはかとなく感じられる「どこかで見た感」、個性の微妙に足りていないような感じ。それを目立たせてしまう、1話の脚本構成と大人数に押されたとでも言いたそうなキャラ描写の不足。
彼女たちが果たして「リアルな存在」と言えるかどうか。こうした特徴は、彼女たちが「美少女キャラの亡霊」であるゆえではないか。

すなわち「うさぎ小屋本舗」とその従業員たちは、失われたはずのオタク文化や美少女コンテンツの残滓だと言えるのです。(秋葉原オタク文化という文脈だとしても、メイド喫茶と二次元美少女コンテンツを単純に一緒くたにするのは悪い筋かもしれませんが……。)
いまの秋葉原に彼女たちの安寧に生きられる場所はありません。小さなグッズ店兼喫茶店という安全地帯(幽霊屋敷ともいえる)があって、フリフリコス美少女従業員としての地位を得て、ようやく生き延びているという状況なのです。


生きるために

秋葉原は、オタク文化が衰退し、残された数少ない店舗もひとつまたひとつと閉店しつつあるという状況です。放っておけばいずれすべての店舗が消滅し、美少女コンテンツ趣味の人もいなくなり、恐らく「うさぎ小屋本舗」の客足も完全に途絶えて、彼女たちはもはやこの世に留まることはできなくなるでしょう。

この辺に関しては、本作、ウィルス退治なるものが大事な設定としてあるようですが、1話ではほとんど触れられていなかったので、1話のメインストーリーである本探しに焦点を絞って書いてゆきましょう。

1話のストーリーは、交流ノートに書かれた「『うさぎさんカフェへようこそ』が読みたい」という女の子の願いをかなえるために、従業員たちが東奔西走するというお話。秋葉原にはまだ数件書店が残っているので、彼女たちは手分けしてそれらを当たります。
そういう単純なお話です。

彼女たちは、自身が何らかのオタクであるということもあって、オタク文化自体に対してもそうですが、それを楽しんできたオタクたち個人の思い出というのをとても大切に考えています。だからひとりの客でしかない(名前を覚えるほどの常連ではおそらくない)女の子の願いであっても真剣にかなえようと奮起します。
アキバ系オタク文化の衰退した後でも、女の子のように慎ましくたしなんでいる人もいるのです。オタク文化の衰退というのは、そんな彼らの思い出の根源が失われてしまうということでもあります。だからオタク文化を守りたいという気持ちや行動は、それを楽しむ人々のための善であるのです。そんな価値観が、明確に表明されています。

ところが、本探しに関しては、彼女たちにはもうひとつの行動原理があります。
なにかというと、彼女たち自身の生存です。本探しは、消滅寸前のオタク文化を守ることによって自分たちもまた生き延びたいという、彼女たちの生存戦略だというのが、1話のストーリーのもう一面です。

風前の灯火であるオタク文化を孤独にささやかにたのしむ人々の思い出を、消えゆくままにせずどうにかして守りたいという善意。彼女たちの行動にはそれが確かにあるのかもしれません。しかし、この善意というのは(事実それが相手にとって善だとしても)表向きの有様であって、そこに自分たち亡霊の生存の正当性を負わせている、というわけです。

ただ、秋葉原オタク文化が完全に復興したときには、亡霊としての彼女たちはおそらく存在できなくなってしまうでしょう。オタク文化が消えゆく最中にだけ亡霊として現れることのできる「美少女」、それが彼女たちなのだと思います。

さて、なぜ本探しが彼女たちの生存に繋がると言えるのか。それは彼女たちが「モノ」に憑く霊でもあるからです。

 

モノに憑く霊

彼女たちは秋葉原という土地に憑く霊だと最初に書きましたが、のみならず、彼女たちにはもうひとつ依り代があります。
既に書いてしまいましたが、1話の表現に従っていえば、コンテンツとして流通している「モノ」です。

茶店は元々はグッズ店でした。物置には無数のコレクション(かつての商品?)があります。店長は漫画を参考にして彼女たちの着ている制服をデザインして着せています。そして1話で探すのは紙の漫画です。
物置の品々を見て目を輝かせていた様子からも、彼女たちがモノの思い出を大切にしてるということが見て取れます。

つまり、彼女たちが直接に守ろうとしているのは「モノ」なのです。
1話からわかるオタク文化というのは、要はコンテンツが物理的な物として流通して、それを基盤にしてオタクたちが観賞したり収集したり、思い出を作ったりという思想なのです。

物理的な「モノ」を所持したい、収集したい、それを目の前にして蘇る思い出がある。こういうことは事実だろうし、わたし自身気持ちはよくわかります。
けれども現在のコンテンツの消費というのは、動画配信だの電子書籍だので済ませようとすれば済むし、SNSで作品の感想を共有するほうがメインの楽しみになったりさえする(ちょっと関係ない話だけど)。コンテンツ享受の段階に、モノは必ずしも介在しなくなっています。

それでも「モノ」なのだと。
少なくとも1話はそのように書かれています。
コンテンツとは「モノ」である。そして思い出は「モノ」から生まれる。なにより「うさぎ小屋本舗」で売っているグッズの存在意義は、そういった「モノ」であることそのものでしょう。

この作品で(少なくとも1話で)書かれているのは、そんな「モノ」に対する思想です。

この世界でいう秋葉原は、単にオタク文化の中心地だったというだけではありません。
実店舗が消えたということは、モノを売る店、その場で買える店が消えたということです。そして生き残っている小さな店もぽつぽつと閉店している。それによって失われるのは、手に取って存在を確認できる「モノ」であるということです。この現状は彼女たちの本探しが困難を極めていたことからもはっきりと読み取ることができます。

 


2話以降がどういう話になるのかわかりません。ここで書いたこととは全然関係ない話になるのかも知れません。きっと、ウィルス退治の意味によって作品の本当の思想が見えてくる、といったところでしょう。1話だけで完璧にあれこれ言えるような構成ではないです。
それでも、とにかく第1話の中に、なかなかいい話があったかなという事です。