チクル妄想工房

ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

知らぬが姉妹

 シスプリの二次創作小説です。
 自分はシスプリを知って間もない新参者なため、キャラの性格が原作とかけ離れていると見受けられることもあると思います。ご容赦ください。

主な登場人物【四葉鈴凛、衛、花穂、咲耶、可憐、兄】


*******


 授業が終わり閑散とした教室には部活動の喚声が遠く聞こえ、赤々と差す西日は無人の机の列やワックスの薄くなった艶のない床板に染みるようなビビッド・カラーを落としていた。ひとり机の前で一時間ほど宿題と睨み合っていた四葉は、ついに我慢できなくなって鉛筆を放り「うわあ」と欠伸を漏らした。たちまち目ざとい教師から叱責を食らい、苦い顔で緩慢に鉛筆を拾った。
 新年度始まって間もないというのに早くも居残りの常連となっていた四葉は、目の前の担任教師の自分に対する待遇に不服だった。しかし、元を糺せば宿題をやってこようとしない四葉が悪かったのである。居残りを不満に感じながらも、四葉も自分の非を認めていたので、面と向かって文句を言うようなことはこれまでに一度もなかったし、兄や他の妹たちに愚痴をこぼすこともなかった。
 四葉は教壇の前で足を組んで座る担任をちらと覗き見る。視線は窓の外に向けられているように見えたが、四葉の一挙手一投足に目を光らせているのは疑いがなかった。四葉のわずかな身じろぎでも肩がぴくりと敏感に反応する。素直に宿題を終わらせる以外に教室を出る道はないと諦めた。
 妹たちの中で一番の健康体だったはずの衛が数日前に風邪を引き、調子を崩したと四葉は可憐から聞いていた。衛にしては珍しいことだと思った。「そんなにひどい風邪じゃないから、大丈夫よ」と可憐は言っていたが、四葉は衛の体調を心配していた。幸い数日間の療養で衛の風邪はおおむね治癒し、今日から学校へ復帰したらしいが、それならば回復祝いに赴くのが同じ兄を持つ妹同士としての筋であろう。そう考えて、学校が終わり次第、衛や可憐、咲耶鈴凛たちの通う学校へ出向こうと思っていたのだが、何とも間の悪いことに、帰り際、教室を出る寸前に、先日の宿題の未提出を担任に咎められ、居残り勉強が決定したという次第である。
四葉ちゃん、さっきから全然集中していないようだね」
 担任の声で四葉は現実に引き戻された。担任が黒板の前から、四葉の顔をさも優しそうな笑顔で見ている。
「早く帰りたかったら早く終わらせなさいよ」
「わ、わかりマシタ……」
 真っ赤に燃えるようだった夕日もしだいに色彩を失い、鉛筆の音と時計の秒針の音が時を刻む中、やがて教室の明かりは無機質な蛍光灯の白色だけになった。暗くなった頃合を見て担任が緑の厚手のカーテンを閉める。時刻は七時を回り、四葉の集中力はもはや限界に達していた。ときおりぼんやりと上の空である。その度に担任は注意を飛ばしたが、そうした繰り返しにも流石に飽きがきたと見えて、その諫め方もおざなりになりつつあった。
「うー……終わったデス……」
 解答欄に最後の一文字を記入すると、四葉はばたんと机に突っ伏した。普段の怠け癖がたたって、たかだか問題集数ページに膨大な時間を費やしてしまった。疲労困憊である。
「よくやったね」と言って、担任の手が四葉の肩を叩いた。「もう帰っていいよ。本当に頑張ったね。次からはちゃんとやってくるんだぞ」
 四葉は顔を横に向けて、目線だけ担任の顔を見上げる。
「ごめんナサイ、先生。次は絶対にやってくるデス……」
「調子いいことを言うのは構わないけど、口だけにならないようにね、次こそは頼むよ」
「はい……」
 と、一応は承服の返事をしてみたものの……。うーん、やっぱり、自信ないかもしれマセン――。職責を全うし清々しい顔の担任を尻目に、四葉は心の中でそう呟くのであった。

 家に着くと、玄関の前を行ったり来たりしている人影があった。四葉より少し背が高く、ショートボブに載ったゴーグルがポーチライトを反射して光っている。普段着のチャイナドレスではなく学校の制服を着ているところを見ると、家には戻らずずっと四葉の家の玄関をうろうろしていたようであった。
「遅かったじゃない、四葉ちゃん!」
 その人物は、ようやく帰宅した四葉の姿を見て取ると、とっくに痺れを切らしていたらしく叫ぶように四葉の名を呼んだ。
「あれれ、鈴凛ちゃん、どうしたデスか? もう真っ暗な時間デスよ」
四葉ちゃんこそどうしたのよ。私ずっと待っていたんだよ」
「うう、ごめんなさいデス。四葉、宿題やってなかったから……」
「また居残りだったのね。ホント、しょうがないなぁ」
 そう言って、大きくため息をついた。実際、鈴凛は待ちくたびれていたのだ。四葉は申し訳ない気持ちになって、黙り込んだまま鈴凛の表情を窺っていた。
「……まあいいわ。あのね、話があるの。四葉ちゃんに聞いて欲しい話」
四葉にお話……?」
「そう。四葉ちゃん以外はみんな知っているわ。だから、四葉ちゃんにも話しておかなくちゃいけないって思って」
 四葉は話を聞くために鈴凛を家の中に案内した。鈴凛が、帰りが遅くなる旨を自宅に伝える間、四葉は台所で紅茶を淹れる。ティーポットに湯を注ぐと紅茶の香りが漂い、四葉の鼻腔をくすぐる。しばらく茶葉を蒸らしていると、受話器を置く音が聞こえた。鈴凛が電話を終え、四葉の部屋に向かっていったようだ。四葉はポットとカップをトレーに載せると、台所を出た。
部屋に入ると、鈴凛は、部屋の中央に置かれた四角いテーブルに頬杖をついていた。鈴凛はドアが開くのを見ると、行儀が悪いと思ったのか腕を下ろした。紅茶を載せたトレーをテーブルに置いて、四葉鈴凛の正面に座った。
鈴凛ちゃん、お話って何デスか?」
 ところが、あれほど勢い込んでいたのが一転して、鈴凛は話すのを躊躇うような態度であった。無言のまま紅茶がカップに注がれるのをじっと見つめている。
「どうしたデスか? 四葉に何でも話してオーケーデスよ。……もしかして、恋の悩み? うーん、四葉、そういうのはわかんないデス。あ、それとも……」
 鈴凛四葉が捲し立てるのを半ば無視した形で、ティーカップをそっと手に取って、気分を落ち着かせるように一口飲んだ。
「あのね……」カップを置いて、視線を四葉に向けた。四葉の目を真っ直ぐに見据える。
 鈴凛の真剣な表情に、四葉は口を噤んだ。
「落ち着いて聞いてよ」
それから、鈴凛はとつとつとその日の出来事を語った。
「今日の授業が終わって、私はいつものように一人で帰ろうとしたんだ。メカ鈴凛の製作で忙しかったから。終業の挨拶が終わるとすぐに教室を出たわ。昇降口まで行ったら、花穂ちゃんを見たの。でも、なんだか様子がおかしいと思った。花穂ちゃんはじっとうずくまったままだったんだ。靴が出してなかったから、靴を履いている最中だったのでもない。何してるのかなあ、と思って声をかけてみたんだけど、花穂ちゃんは返事をしなかった」
「ふむ……、何があったのデスか?」
 四葉は先を促した。
「私もどうしたのかなあーって思って、近づいてもう一度、どうしたの、って訊いてみたんだ。そのとき、花穂ちゃんが自分の右手を押さえているのがわかった。だから、手をどうかしたの? って尋ねたけど、答えてくれなかった。何かを堪えてるようにだんまりでさ。それでちょっと強引に――花穂ちゃんは嫌がってたけど、押さえている手を剥がしてみたら、花穂ちゃんの右手の指から血が出てたのよ」
「血? 花穂ちゃんはケガをしていたの?」
四葉は姉妹の怪我に心を痛める。
「そう。どうして怪我をしていたのかは私にもわかんなかったけどさ、とにかく怪我の手当てが最優先だと思って、花穂ちゃんを保険室に連れて行った。だって、小指がこんな、……ぱっくりと」
 鈴凛は身を乗り出し、四葉の目の前で指を立てた。四葉はぎょっとする。
「花穂ちゃんは大丈夫だったデスか?」
「うん、見た目ほど傷は深くなかったみたい。私も焦っちゃってたんだ。消毒して、包帯巻いてもらったからもう大丈夫みたいよ」
「そうなんだ。大怪我じゃなかったんだ。あ、でもチアの練習ができなくなっちゃうのはちょっと可哀そうデスね、あんなに頑張ってたのに……」
 心配してそう呟く四葉に、その点は安心していいわ、と鈴凛は言った。
「チアは大丈夫みたい。保健室の先生が言うには、ちょっとしたかすり傷なんだって」
「そうデスか。よかったデスね」
 四葉は答えた。すると、鈴凛は表情を険しくして、「それが全然よくないのよ!」と唐突に怒りを露わにしたのだった。
「それから私、花穂ちゃんを保険室に残してもう一度昇降口に戻ってみたんだ。だって、そんなところで切り傷作るなんて変だと思わない? それで花穂ちゃんの座り込んでいたところを探していたら、床にこれが落ちているのを見つけたの」
 鈴凛はポケットから、小さく折りたたまれた白いハンカチを取り出した。四葉の目の前でそれを慎重に広げてみせる。包まれていたのは、二センチくらいに折られた、鈍く光るカッターナイフの刃だった。
 四葉は絶句した。
「よく調べたら、刃の先端にちょっと血が付いてたんだ。花穂ちゃんはこれで手を切ったのよ」
「そう、そうデスね……」カッターの折れた刃に焦点を留めたまま、四葉は呟いた。「これは紛れもナイ……」
「……四葉ちゃん?」
 四葉は弾かれるように立ち上がって、叫んだ。テーブルの食器が音を立てる。鈴凛は仰天してひっくり返った。
「紛れもナイ、傷害事件デス鈴凛ちゃん! 花穂ちゃんにケガをさせるために、誰かが花穂ちゃんの下駄箱にカッターナイフを仕込んだのデス!」
 力いっぱい握りこぶしを作って、たじろぐ鈴凛を前に四葉は表明する。
「この事件はじつに謎に満ちていマス。事件の謎を解き明かせるのは名探偵の四葉しかいマセン! 鈴凛ちゃん、花穂ちゃんのカタキは、この四葉が討ってあげマショウ!」

**

 その翌日、鈴凛四葉に無理やり引きずられるようにして、衛たちの学校に出向くはめになった。時刻は午後一時をまわっていた。鈴凛は衛と同じ学校に通っているため、学校の勝手に詳しいからといって、校舎の案内という口実で四葉の捜査活動に付き合わされることになったのだった。
鈴凛四葉に事件について話したことを後悔していた。四葉以外の妹は、みな犯人探しよりも花穂の心のケアを重要視していたのである。兄も、本人は何も言わなかったがおそらく同じ意見だったろうと思う。みなの考えが一つの方向に向いたのは、妹のうちで最年長である咲耶の発言によるところが大きかった。
犯人を捜して謝罪させることも必要だが、それよりもまずやらなければいけないことは、傷ついた花穂を気遣ってやることだと、昨日、咲耶はしんみりと語った。鈴凛も含めて、誰もその意見に反駁する者はなかった。花穂の親も咲耶の話に感銘を受けたようで、大騒ぎして花穂の傷を刺激することのないよう、学校には念を押しておいたと言っていた。
 鈴凛たちの通う学校が近づいた。校門の外からでも部活動に勤しむ生徒の声が聞こえてくる。ときおり、鋭い金属音が耳を突き抜けていく。金属バットが野球のボールを捉える音だった。グラウンドは、土曜日は野球部、日曜日はサッカー部が使うという取り決めになっていた。
 敷地内には視界を遮る背の高い木が一本もないため、校門をくぐると校舎の端から端までを一度に見渡すことができた。汗を流しながらグラウンドを走り回る、野球部の練習風景がよく見える。
 鈴凛は並んで歩く四葉の突飛な服装が気になって仕方がなかった。インバネスコートに鹿撃ち帽という、どう見てもコスプレでしかない格好が本人にとってはお気に入りだというのである。せめて人と歩くときくらいは普通の服装を心がけて欲しいと鈴凛は思う。校門をくぐってからというもの、野球部の奇異の視線を痛いほど感じる。もちろんのこと本人はどこ吹く風である。
 二人は校庭を抜ける。コンクリートの段差を上がるとすぐそこが玄関になっていた。二メートル五十センチくらいの、太い鉄枠の両開きのガラス扉は、片側が動かないよう常時固定されている。扉に鍵はかかっておらず、取っ手を引くとぎいぎいと嫌な音を立てて開いた。部活動があるため、土日でもたいていは自由に出入りできるように開放されている。
 二人は校舎に入った。探偵という役どころのせいか、悪びれるところなどないはずなのに鈴凛はつい及び腰になる。うってかわって、四葉はスキップでも始めそうな足取りであった。四葉のこの神経を鈴凛は理解できない。
「ここが事件現場デスね。さあ名探偵の四葉が事件の謎を暴いちゃいマスよ! クフフフフフ!」
「ちょっと四葉ちゃん、あんまり大声を出さないでってば……」
「そんなこと言っても、四葉、本格的な事件に関わるのは初めてなんデス! クフフ、腕が鳴りマスねー」
姉妹が怪我をしている事件だというのに、四葉の態度はさすがに不謹慎が過ぎるのではないか。
四葉ちゃん、遊びに来たんじゃないのよ」
「わかってマスよー」
鈴凛の注意にも四葉聞く耳を持とうとしない。四葉が興奮して駆け出そうとするのを、鈴凛は肩を掴んで引き止めた。急に押さえつけられた四葉は勢い余ってひっくり返りそうになった。
驚いたように振り返った四葉を、鈴凛は睨む。
四葉ちゃん、出かけるときからずっと思ってたけどさ、あんた面白がってない? 花穂ちゃんが怪我してるんだよ」
「……どういうコト?」
 とぼけたように首をかしげた。その様子に、鈴凛は怒りがふつふつと沸くのを感じた。
「なんでそんなに楽しそうでいられるのかってことよ。花穂ちゃんに怪我をさせた犯人を調べるためにここにきたんでしょ? それなのに、遊びにきたみたいにはしゃいじゃってさ。結局、四葉ちゃんは花穂ちゃんをだしにして、自分が楽しい思いをしたかっただけなんじゃないの。……そういうのさあ、酷いと思わない?」
 鈴凛は持てる限りの感情を込めたつもりだった。にもかかわらず、四葉鈴凛がなぜ怒るのか理解できないとでもいうふうに、悪びれる様子はなかった。
「なに言ってるのデスか、四葉は真剣に花穂ちゃんのことを思ってやっているのデス! 自分の手で大好きな花穂ちゃんのカタキを討てるのが、四葉は嬉しいのデス。だって、いままで迷惑かけてばかりだった四葉が、やっとみんなの役に立てるんだもん……」
 それは鈴凛にとって思いがけない言葉だった。胸を打たれ、言葉が出なかった。四葉は持ち前の野次馬根性で動いているのだと、鈴凛は本気で信じかけていたのだ。
鈴凛ちゃんだって、花穂ちゃんが怪我させられて悔しいのデショウ?」
「……もちろんよ」
「だったら、早く犯人を見つけましょう。それに」
 四葉は一旦言葉を切って、ふところから“証拠品”のカッターの刃をつまみ出し、鈴凛の目の前に差し出した。
「放っておいたら、犯人がまた花穂ちゃんに危害を加えないとも限らないのデスから」
 毅然と言い切る四葉を前に、鈴凛は己を恥じ入った。本当に花穂を心配しているのなら、上辺だけの気配りより大事なことがある。花穂にとっての危険そのものを排除してやることこそ優先されるべきなのだ。そのことを、鈴凛四葉にはっきりと教えられたのだった。自分が思い込んでいたほど四葉は幼くなく、むしろ自分よりもよほど思慮深い人間なのだと思った。
鈴凛四葉の肩を掴んでいた手を放し、「ごめん」と決まり悪そうに言う。
「いいのデス。さあ、早いトコ片付けちゃいマショウ!」
 下駄箱は、正方形の玄関ホールを、昇降口から見て横に三つに区分するように並べられている。区画されたスペースは、左側から一年生、二年生、三年生に割り当てられていて、それぞれに下駄箱が、左右からたたきを挟んで向かい合わせに設置されていた。計六列の下駄箱は廊下の直前まで続いており、廊下は昇降口と直角に走っている。
 三か所に分けられたスペースのうち、真ん中のスペースから廊下を挟んだ向こう側は階段になっていた。また、三年生用に割り振られた右の区間の奥には警備員室があり、平日も休日も警備員が一人常駐している。警備員室の窓口からは廊下全体を見渡すことができるようになっている。つまり、廊下と昇降口の間を行き来しようとすれば、必ず警備員の目に留まることになる。
 花穂の在籍する一年二組の下駄箱は玄関ホールの左側の区間にある。二人は昇降口から左に折れた。当然ながら、学校の生徒である鈴凛はクラスごとの下駄箱の配置を知っている。一年二組はたたきの左側の、廊下寄りの下駄箱である。先立って歩く四葉にそう声をかけると、「わかりマシタ」と、元気のいい返事が返ってきた。
 下駄箱はスチール製で、象牙色のペンキで塗装されている。一人一人に横開きの扉が付いており、扉の左端には窪みがあった。そこには、取っ手を握ってロックを外すタイプのハンドルが取り付けられている。ハンドルが握られて留め具が外れると扉が右側に開く仕組みである。四葉は手近な下駄箱を開いて、その構造を確かめていた。
「鍵はかからないのデスね」
「うん。前に財布入れっぱなしにしちゃって、盗まれちゃった子もいたみたい」
「ふうん……。誰の場所でも勝手に開けられるのデスか?」
「そうだね」
 花穂の下駄箱は「1−2」に割り当てられた区間の、中央付近にあった。下駄箱の蓋に「花穂」と記された紙が留められている。その隣には「衛」と書いてあった。クラス分けで、花穂と衛は同じクラスになったと鈴凛は聞いていた。
「ここが花穂ちゃんの下駄箱デスか。何のヘンテツもない、他のと一緒の下駄箱デス」
「そうね。でも、ここにはカッターの刃が仕込まれてたのよね……」
 四葉はハンドルに指をかけて、何度か握ってから「ふーむ、問題なく動くようデス」と報告した。
「あ、ここに傷がありマスね」
ハンドルを指さして四葉が言う。鈴凛は四つ葉の手元を覗き込んだ。
「ほら、ハンドルの場所の窪みの底面デス。何かで引っ掻いたような跡がありマス」
「あ、ほんとだ」
 四葉はポケットから虫眼鏡を取り出して、下駄箱の傷を子細に観察し始めた。
「鋭利な金属で引っ掻いたようデスね、塗装が筋になって剥げていマス」
「ハンドルの端がこすったあとじゃないの?」
「それもあるかもしれマセンが、それにしてはちょっと傷が深い気もしマス。気になりマスね」
 四葉はそれきり沈黙し、傷跡に目を注いで考え込んでいた。
 手持無沙汰になった鈴凛は何気なく隣の下駄箱を見た。すると、その下駄箱にも同じ場所に同じような傷が付いているのを発見した。すぐに四葉に報告する。
四葉ちゃん、こっちの下駄箱にもそっくりな傷があるわ」
「ホントですか!」四葉鈴凛を押しのけて飛びついた。「おおう、これは……」
「どういうことかしら」
 それには答えず、四葉はさらに隣の下駄箱も確認する。
「おや、こっちにもありマスね。……どうやら、一年二組のゼンブの下駄箱におんなじ傷が付いているようデス」
「ふうん。それなら、私はやっぱりハンドルの跡だと思うけどなあ」
 鈴凛の意見に、四葉は「1−2」の左隣の「1−1」の下駄箱の前まで歩き、ひとつの下駄箱を指し示しながら答えた。
「こっちにも傷はありますケド、一年二組の下駄箱よりは浅いように見えませんか?」
「言われてみればそうね……。でも、そんなに違わないんじゃない?」
「うーん、確かに大きな差はナイかも。でも四葉は、一年二組のゼンブの下駄箱に、揃って一組よりも深い傷があるのはオカシイような気がしマス」
 納得いかない顔で、ぶつぶつと言いながら一年二組の下駄箱に戻る。
 四葉は再度花穂の下駄箱の扉を開けて、中を眺めまわした。
「うーむ、下駄箱の中には、アヤシイところはないみたいデス」
「別におかしくないんじゃない? ちょこっとカッターの刃を入れるだけなんだし、証拠なんて残らないわよ」
 鈴凛がそう言うと、四葉くるりと振り返り、「それもそうデスね」と感心したような声を出した。
「さっすが鈴凛ちゃん! 鈴凛ちゃんのおかげで、四葉、大変なコトに気づいちゃいマシタ」
「何言ってんのよ。当り前のことを指摘しただけじゃない」
「クフフゥ、違いマスよ」
 不敵な笑みを浮かべ、人差し指を立ててちっちっと舌を鳴らす。
「そうじゃありません。――ねえ鈴凛ちゃん、ちょっと質問していいデスか?」
「なあに」
「花穂ちゃんを保健室に送ったアト、鈴凛ちゃんはカッターの刃をどこで見つけマシタか?」
「え、玄関の床だけど……話さなかったっけ?」
「はい、四葉のキオク違いじゃないかと思って確認してみただけデス」
「あ、そう。で、それがどうしたの」
「あれ、わからないのデスか? オカシイと思いマセンか鈴凛ちゃん。だって、どうして花穂ちゃんを傷つけたカッターナイフの刃が床に落ちるのデショウ?」
四葉は得意げに言う。
 「花穂ちゃんがびっくりして落としたんじゃないの?」
「それなら、花穂ちゃんはいつケガをしたと思いマスか?」
「それは、靴を手に取ったとき…………あ、そうか」
 鈴凛四葉の伝えようとすることに気付いた。四葉は嬉しそうな顔で下駄箱をノックしている。
「そうデス。普通に考えたら、靴を手に取ったときに怪我をしたのならば、カッターナイフの刃は床には落ちマセン。靴の中に残るはずデス」
「え! じゃ、じゃあ、まさか……花穂ちゃんは靴にカッターの刃が入ったままなのに気付かずに、その靴を履いて……花穂ちゃんドジだから……」
 それを聞いて、四葉は眉をひそめた。
「なぁに言ってるんデスか鈴凛ちゃん。いくらなんでも、それはさすがに考えられないデス。それにカッターの刃はここにあるじゃない。あのね、花穂ちゃんの靴にはカッターの刃は入ってなかったのよ」
「そうなの?」
「間違いありません。名探偵の四葉が言うのデス」
「じゃあ、花穂ちゃんはどうやって手を切ったの?」
 鈴凛は当然の疑問を投げかける。
「それは……」四葉は返答に窮し、困ったように照れ笑いを浮かべた。「ぜーんぜんわかりマセン、それを訊かれたらお手上げデス」
「なんだ、期待させといて。ちょっと尊敬しちゃいそうだったのに」
「ま、まあ、たまにはこういうこともありマス」
 それから二組の下駄箱を逐一調べたが、これといって新しい発見はなかった。
 ひととおりメモを取り終わると、腕を組んで下駄箱にもたれながら、四葉は次にするべきことを考えあぐねているようだった。鈴凛四葉の思考を邪魔せぬよう、口出しせずにじっと待つ。二三分の間そうしたのち、四葉は何か思いついたらしく、やおら姿勢を戻すとつかつかと歩き始めた。鈴凛もその後ろに続いた。
 四葉が向かった先は警備員室だった。窓口には小太りで頭の禿げかかった、綾小路という警備員がいた。歳は四十くらいであろう。綾小路は十年以上この学校に勤めている古参の警備員である。
「ごめんください。あのー、ちょっとお尋ねしたいことがありマシテ」
 声をかけられて、横を向いて本を読んでいた綾小路はくるりと振り返る。四葉の顔を見ると、応対用の笑顔を作った。彼は職務中いつも笑顔を絶やさないことに定評がある。人当たりもよく生徒からの人気は高かった。
「はい、はい、なんでしょう?……おや、鈴凛ちゃん。こんにちは」
 綾小路は四葉の背後に立つ鈴凛に気付いたようだった。鈴凛は綾小路と話したことはなかったのであるが、鈴凛の顔はいつの間にかこの警備員にしっかりと記憶されていたようだった。もしかしたら彼は、ほとんどの生徒の顔を覚えているのかもしれない。
「この子、鈴凛ちゃんのお友達?」
「違うデス。四葉鈴凛ちゃんの姉妹デス」
 鈴凛よりも先に四葉が答える。
「ああそうなんだ。そういえば、鼻の形がちょっと似てるね」
 四葉は目を丸くしていた。二人は顔も性格も、似ているなどと言われたことはこれまで一度もなかったのである。鈴凛は嬉しいような照れくさいような、何となく腹立たしいような複雑な気分だった。四葉の視線を微弱に感じたが鈴凛はあえて無視した。
「おっと、そうだった。何か訊きたいことがあるんだったね?」
「そ、そうデス。昨日のことなんですけど、アヤシイ人を見ませんでしたか?」
「怪しい人ねえ……たとえば、どんな?」
「ええと……とにかく、アヤシイ人デス。挙動不審だったり、落ち着きがなかったり……」
 それはあんたのことじゃないのか、という台詞を鈴凛は飲み込む。
 綾小路は腕を組み、うーん、と唸りながら宙に視線を漂わせる。
「わからないなあ。昨日はすっとここに詰めてたけど、特に不審な人は通らなかったよ」
「休み時間もデスか?」
「二時限と三時限の間に入る二十分間の長休みと、給食のあとの昼休みには生徒がいっぱい通ったけど、大人は一人もいなかったな」
「そうデスか。それ以外の休み時間はどうデシタ?」
「授業の合間の五分休みかな? それなら生徒も通らなかったね。五分じゃ遊ぶ時間はないから、誰も校庭には出ないんだ」
「わかりマシタ。ありがとうゴザイマス」
 用がすむと、四葉は警備員室をあとにした。昇降口の前で立ち止まり、四葉は小声で鈴凛に喋りかける。
「あのヒト、なんだか兄チャマに似てませんデシタか?」
「何言ってるの、全然似てないわよ。それより、さっきの話は役に立ったの?」
「はい。犯行のあった時間がある程度絞れマシタ。カッターナイフの刃が下駄箱に入れられたのは、二十分休みか、昼休みに間違いありマセン。五分休みはここには誰もこなかったのデスから」
「なるほど。でも、休み時間に玄関を通った人なんて何十人もいるはずじゃない? それだけの情報で犯人がわかるの?」
「うーん、難しいデス。でもね」と、ポケットのハンカチを出して、広げる。「証拠はまだまだありマス。さっき取り出して鈴凛ちゃんの前に出したとき、このカッターの刃にオカシナところを見つけたのデス」
「どこ? 私は気付かなかったけど……」
 鈴凛四葉が取り出したカッターの刃に目を落とす。先端がやや欠けているのはしばらく使っていた跡であろう。鈴凛はそれを指摘してみた。すると、四葉は手応えのある反応を見せた。
「あ、ホントだ! でかしたデス、鈴凛ちゃん。それに、四葉の見つけた証拠とも関係していマス」
 四葉はカッターの根元を指差して、自分の発見の説明をする。
「ここを見てクダサイ、カッターの刃の根元の割れ方デス」
 言われてみれば、それは一目瞭然に奇妙な点だった。鈴凛は自分の手で拾っておいて気付かなかった自らの注意力のなさに呆れた。カッターの刃は、刃を折るために付けられた案内の溝を無視して、横一文字に割られていたのだ。
鈴凛ちゃんの言った、先っぽが欠けていたことは、犯人がカッターの刃を長い間折らずに使っていたというコトを示していマス。また、刃の折り方がヘタッピなのは、ハンニンがカッターの刃の正しい折り方を知らなかったためデス。この二点を考え合わせるとこういうコトになりマスね。つまり、犯人はカッターナイフを使い慣れていなかったのデス」
「なるほど、すごいわ四葉ちゃん! ということは、犯人は……」
「そうデスね、おそらく、工作などでカッターナイフを使う機会の少ない、女の子の可能性が高いというコトになるデショウ」
 四葉は自分の推理を自画自賛するように何度も頷きながらそう述べたあと、やがて思いついたように付け加えた。「あ、鈴凛ちゃんみたいに器用なコは別デスね。是非ともジョガイすベキです」
 真面目な顔で珍妙な言い回しをする四葉に、鈴凛は思わず噴出した。
「それはいわゆる例外ってやつね」
「それと、もう一つ。カッターの刃にぬるぬるしたものが付いていマス。ちょっと触ってみてクダサイ」
と言ってカッターの刃を鈴凛に手渡した。指先で確かめてみると、薄っすらと油のような、クリームのようなものが割れ目の付近に付着しているのがわかった。
「あ、ホントだ。血のことに気を取られてて、ちっとも気付かなかったわ」
 鈴凛はカッターの刃を四葉に返した。もしかしたら自分の手に付いていた機械油かとも思ったが、学校では作業はしていないはずである。
「残念ながら、四葉にはこのぬるぬるの正体はわかりマセン。でも、きっと犯人が残したものに違いないデス」
「でもすごいわよ。これだけ証拠があれば、犯人もすぐに見つかるんじゃない?」
 四葉は静かに首を振り、凶器をポケットにしまって言う。
「いいえ、これだけの材料ではまだまだ犯人には手が届きマセン。もっと情報が欲しいのデス。花穂ちゃんや、花穂ちゃんと同じクラスの衛ちゃんにも訊いてみマショウ。きっと何か知ってるハズです」

***

 二人でと話し合った結果、花穂は自分が誰かに悪意を持って怪我をさせられたことに対するショックがまだ冷めないだろうということで、まずは見舞いも兼ねて衛の家を尋ねることにした。
 衛の家は学校から一キロほどの距離にある。近くを川が流れており、川の土手に沿ってのジョギングが衛の毎朝の日課になっていた。四葉の自宅の傍まで衛のジョギングコースは伸びていて、衛が家の前を通るのを四葉はよく見かける。他の妹達と別の学校に通っている四葉にとっては、毎朝挨拶を交わす衛は、元々気の合う――と、四葉は思っている――鈴凛と並んで、もっとも身近な妹の一人であった。衛が風邪をひいて姿を見せなくなってからというもの、四葉は毎日の生活に物足りなさを感じるのだった。病み上がりだから、もうしばらくジョギングは控えることになろう。
 二人は衛の家に辿り着いた。四葉が玄関の呼び鈴を鳴らす。「どなたですか」と答えたのは衛本人だった。久々に聞く衛の声に、四葉は嬉しさがこみ上げてきた。
四葉デス。衛ちゃん、お見舞いに来マシタ」
 ドアが開けられて、厚手のトレーナーを被った衛が顔を出した。暖かい陽気なのに厚着なのは、体に無理をさせないようにとの配慮からであろう。顔色はまったく悪くなく、調子がよくなったというのは本当らしかった。
「衛ちゃん、風邪は大丈夫デスか?」
「うん、ありがとう、四葉ちゃんに鈴凛ちゃん。咳も止まったし熱も全然ないし、お医者さんも、もううつる心配はないって言うし、すっかり元気だよ」
「よかったデスね衛ちゃん」
「うん、ありがとう。よかったら、いま咲耶ちゃんたちやあにぃが来てるんだ、上がっていってよ」
「え、アニキも来てるんだ!」
 予想外の名前に、四葉の隣に立っていた鈴凛が思わず声を上げた。
「うん。あにぃは僕が風邪をひいてから、毎日見舞いに来てくれてたんだ」
「へえ……そうなの。アニキはやっぱり優しいんだね。衛ちゃんにも、花穂ちゃんにも……」
 顔を赤くしながらいじらしく話す衛の言葉に、鈴凛が低い声で答える。その声に、どこか影があるのを四葉は感じ取った。四葉は隣の鈴凛の顔を見やるが、その顔は普段どおり何も変わらないようだった。ふと感じた違和感は、自分の勘違いだったのであろうか。すっきりしない気分が四葉の胸に残った。
 二人は衛の部屋に案内された。部屋に入ると、窓際に座って本を読むワイシャツ姿の兄がいて、部屋の中央では咲耶、可憐、そして花穂が丸テーブルを囲んで談笑していた。二人に気付くと、全員が新たな来客に笑顔を向ける。
「あら、四葉ちゃんに鈴凛ちゃん。いらっしゃい」
 咲耶は落ち着いた微笑を湛えながら、姉らしく先頭を切って挨拶をする。
「みなサン、こんにちはデス。あれ、花穂ちゃんも来てるデスか? 花穂ちゃんは……」
「ちょっと四葉ちゃん」鈴凛があわてて四葉を肘で突いた。「ちょっとは気を遣ってあげなよ……」
「いらっしゃい、二人とも」
 兄が本から顔を上げて、二人に向けてほほ笑んだ。「どうしたの、二人とも座りなよ。花穂の隣が空いてるよ」
 衛の部屋は板張りである。衛が急いで座布団を運んできて、花穂の横に並べて敷く。妹たちで集まるときのために準備してあるものだった。鈴凛が花穂の横に、その隣に四葉が衛の用意した座布団に腰を下ろした。
「こんにちは。鈴凛ちゃん、四葉ちゃん」
 花穂が舌足らずな、子猫のような声で挨拶をした。二人も花穂に挨拶を返した。花穂の声は、ちょっと聞いただけではいつもと変わりないようだった。みなに心配させないように明るさを装っているだけなのだと四葉は思った。
「ボク、二人のぶんのジュース持ってくるね」
 言い残して、衛が部屋を出る。それを合図に、各々はそれまでしていたことを再開した。
 四葉鈴凛は、可憐と咲耶、花穂の三人と雑談をした。可憐の最近読んだ本や、咲耶が買った新色のリップクリームや、花穂の家の庭に植えてあるパンジーのことなど他愛のない話題だった。そのあと昨晩のバラエティ番組の話になって、すぐに四葉鈴凛にも話が振られたが、バラエティ番組を見ない二人はその話題に交ざることはできなかった。
「二人はテレビを全然見ないの?」
 意外そうに可憐が質問をする。
「うん、私はラボに入り浸っちゃうから」
 鈴凛が答える。
四葉は兄チャマのチェキで忙しいのデス。それはもう大変なシゴトで、時間がいくらあっても足りないくらいデス!」
 四葉は胸を張り、気張って言い放った。
「ふ、ふうん……そうなの」
 可憐は小さく相槌を打った。が、それ以上言葉が出てこないらしく、苦笑いを浮かべていた。
 気まずい雰囲気に、四葉は自分の答えが見当はずれだったことを知った。冷や汗を流しながらあれこれ言い訳を考えていると、見かねたように鈴凛が助け船を出した。
「ねえ、可憐ちゃんはどんなテレビを見てるの?」
「ええと、可憐は歌の番組とか、映画とかかなあ」
 なんとか会話は持ち直した。四葉は肩を撫で下ろし、心の中で鈴凛に感謝した。
「花穂はね、アニメが大好き。アニメを見るために頑張って早起きしてるんだ!」
 訊かれてもいないのになぜか花穂は主張した。もっとも、アニメならば四葉も少しは見るので話は通じる。
四葉もちょっとだけ知ってマス。日本のアニメは、四葉が日本に来てビックリしたコトのひとつなの。日本のアニメはとっても面白くて好きデス。例えば、アヤシイ薬でちっちゃくされた探偵サンが、快刀乱麻を断つがごとくサツジンジケンを解決しちゃうヤツとか……」
「あー、花穂知ってる! 花穂もそれ見てるよー」
「へえ、花穂ちゃんもそういうの見てるんだ?」
 意外そうに咲耶が尋ねる。それに対する花穂の回答は、「うん、花穂おばかさんだから、頭良くなるかなあって」という突拍子もないものだった。
「何言ってるのよ、花穂ちゃんったら」
 咲耶の返答に合わせて可憐がうふふと笑う。
 どことなくぎこちない空気がそこにはあった。二人とも、本人には気取られないように注意しているが、花穂に対して明らかに気を遣っていた。
「――ところで咲耶ちゃん、その指、どうしたデスか?」
「え、なあに?」
 突然関係ない話を振られたことに、咲耶は戸惑いを見せた。
「その指デスよ。怪我したのデスか?」
 部屋に入ったときから四葉の頭の隅に引っかかっていたことだった。咲耶は右手の人差指に、幅広の絆創膏を巻いている。
「ああ、これね。これはお裁縫してて、ちょっと針を刺しちゃって」
「そう言えば咲耶ちゃん、昨日からしてたよね、その絆創膏」
 可憐である。ええ、と咲耶は口ごもるように答えた。
「そうなの……。そんなに大きな絆創膏を貼ってるから四葉びっくりしちゃった。どうぞ、お大事にデス」
「うん、ありがとうね、四葉ちゃん」
 そのときドアが開いて、盆にジュースを載せて衛が戻ってきた。
「二人ともお待たせ。オレンジしかないけど、いいよね」
 衛は二人の前にジュースを置いた。礼を述べると、鈴凛はさっそく一口飲んだ。四葉もそれに倣ってコップに口を付ける。疎外感の拭えないどこか居心地のよくない空気に、二人はすっかり喉が渇いてしまっていたのだった。
「あ、絆創膏といえば、花穂ちゃん。昨日のこと鈴凛ちゃんから聞きマシタ。大変だったデスね」
 四葉が何の気なしにそう口にしたとたん、場の空気が一気に凍りついた。花穂を覗いた全員の視線が四葉に集中し、その圧迫感に四葉はたじろいだ。
「よ、四葉、なにかマズいコト言った……?」
 硬直した空気をどう取り繕うものかと四葉は一人一人の顔を順に見る。誰も何も言わない。花穂は俯いて肩を震わせている。
 やがて咲耶四葉に向けていた目を鈴凛に移して、非難するように問うた。
「ちょっと鈴凛ちゃん、四葉ちゃんに話したの?」
「う、うん。一応。おんなじ妹だしね。隠しておくのも変でしょ」
「そう、あなたがそう決めたならいいけど。でもまさか、『チェキです』とか何とか言って、学校を調べたりとか、推理小説の探偵みたいなマネしてないでしょうね、四葉ちゃん?」
 四葉鈴凛も返す言葉がなかった。たったいままで衛の学校で、下駄箱を探したり警備員に事情を聴いたりしてきたばかりなのである。黙り込む二人を見て、咲耶は呆れ顔で大きくため息をついた。
「ほうら、そうよね。この子ならそういう、人の気持ちを考えないことだって、自分が興味を持ったら何だって面白がってやりかねないもの。だから言ったのよ、四葉ちゃんには教えないほうがいいって」
咲耶ちゃん……そんなコト、思ってたのデスか……?」
 咲耶の露骨な悪意を目の前にし、四葉は困惑した。そしてそのことを黙っていた他の姉妹たちにも疑惑を覚えた。自分の知らないところで、自分は姉妹たちに除け者にされていたのだろうか。四葉は、どうにか不吉な考えを振り払おうとする。
咲耶ちゃん、そんな言い方しなくても……」
 すっかり縮こまる四葉を見て、可憐がおそるおそる口をはさんだ。だが、可憐の言葉は咲耶をさらに逆上させる結果となった。
「なによ、可憐ちゃん。この子の味方するっていうの? 私、なにか間違ったこと言ったかしら」
「可憐、そんなこと知らない……。でも、花穂ちゃんもいるんだし……」
「だからなおさらよ。よくも本人の前で傷口に塩を塗るような話題を平気で掘り返せるわね。ほんと、信じらんないくらい無神経。あんた、花穂ちゃんに謝んなさいよ」
「さ、咲耶ちゃん、四葉ちゃんだって悪気があったわけじゃ……」
「悪気がなかったら何を言ってもいいっていうの? ……ほら、さっさと謝んなさいって言ってるでしょ!」
 咲耶四葉の手を掴んで引っ張り、無理やり花穂に頭を下げさせようとする。咲耶の剣幕に、四葉は恐怖のあまり無意識に抵抗していた。咲耶の手を必死に振りほどこうとする。咲耶四葉のその態度がなおさら気に入らないと見えて、四葉の腕を握る手にさらに力を込めた。四葉は痛みに顔をしかめた。
「ねえやめようよ、咲耶ちゃん……。落ち着こう、咲耶ちゃんらしくないよ」
 衛も弱々しく静止するものの、咲耶聞く耳を持たない。
「は、放して……!」四葉は悲鳴を上げた。
 四葉たちの目の前まで歩み寄っていた兄が、咲耶の腕に手をかけた。びくっと体を震わせて、咲耶四葉の腕を振り棄てて、兄の顔を振り返った。
咲耶、やめなさい。花穂も困っているよ」
「でも、お兄様」
 咲耶は訴えかけるような口調だった。
「いいんだ。四葉がこういう事件に首を突っ込みたがる性格なのは僕も知ってる。それが、ときには他人を傷つけるだろうということもね。でも、そんなことは四葉だってちゃんとわかってるはずだよ」
 兄は落ち着いた物腰で咲耶を諭す。
「それに、今回はちょっと僕にも思うところがあってね。みんなには黙っていたけど、四葉には僕から調査の許可を出したんだ」
 それを聞いた全員が一斉に兄に注目した。咲耶は、予想だにしなかった兄の告白に自分の耳を疑っているようだった。疑惑の目で兄と四葉の顔を交互に見ている。兄は続けた。
「昨日、四葉から電話があったんだ。明日花穂ちゃんたちの学校を調べてもいいですか、犯人を見つけて花穂ちゃんに謝らせたいんです、ってね。僕も、花穂を傷つけた犯人が許せなかった。どうしても捕まえたいと思った。だから四葉にお願いしたんだ。しっかり調べて、証拠を見つけてきてくれって。そうだよね、四葉
 四葉はじっと兄を見上げたまま、肯定も否定もできずにいた。兄も返答は期待していなかったらしく、黙ったままの四葉にふっと微笑むだけだった。
「だからね、咲耶四葉はこれっぽっちも悪くないんだ。非難するなら、僕を非難してくれ。――花穂も、こんな僕のことが嫌いになったかな」
 花穂はふるふると首を振り、否定の意を示した。
 咲耶は唇を噛み締めて、握り締めた両手を震わせている。――お兄様は決して自分を裏切ったりしないはずなのに、なぜ――? 兄に向けられた、すがるような目が、咲耶のそうした心情を物語っていた。自分の言い分が兄によって否定されたのが悔しくてたまらないといったふうであった。その気持ちは四葉にもわかる気がした。四葉にとっても、兄はただ一人自分を理解してくれる存在だったからだ。だから少しだけ、咲耶に同情の念を覚えた。
 だが――。
 それにしても、兄はなぜあんなことを――?
 兄は咲耶から視線を外し、四葉に向き直った。
四葉、ご苦労様。頑張ったね。四葉がここに来たということは、その本当の目的は衛に事件当日の状況を聴くためだったんだろう? さあ、仕事はまだ終わってないよ、最後までしっかりやるんだ――」
 労いの言葉をかけると、四葉の頭に、大きな、暖かい手を載せた。

****

 一時はどうなることかと思ったが、兄のとっさのフォローで騒ぎは収まりを見せ、鈴凛はほっと肩を撫で下ろした。咲耶の怒りようは尋常でなかったが、騒動の原因の一端は自分にもあったのだと鈴凛は反省していた。そもそも、当日にみなで集まったときに、自分たちは、四葉には教えないようにしよう、という咲耶の提案に反論すべきだったのだ。可憐や衛たちも同様の心境であろう。
 四葉のメモに一通り目を通した兄は、その仕事ぶりに満足しているようだった。それから、兄の補佐のもとで、四葉による事情聴取が執り行われることとなった。四葉は、可憐と相向かって座り、メモ帳を開いてボールペンを構えた。四葉の隣では兄がそれを見守っている。
「まずは可憐チャンに訊きマス、可憐ちゃんは休み時間は何をしていマシタか?」
「可憐は、長休みは教室で鈴凛ちゃんとお喋りしてました」
 と言って確認を取るように鈴凛を見る。鈴凛は頷いた。ふむふむ、と四葉はメモを取っている。
「それでね、昼休みは図書館で本を読んでいたの。図書館では咲耶ちゃんを見ました。そうよね、咲耶ちゃん?」
 と、咲耶に同意を求めた。
「……ええ、図書館で可憐ちゃんと会ったわ」
 そう応える咲耶には、もう不機嫌なそぶりは微塵も残っていなかった。感情を隠す技術はさすがは最年長の咲耶といったところか、と鈴凛は素直に感心する。それとも兄の前だから、強がっているのだろうか――?
「ふーむ、じゃあ昇降口には可憐ちゃんは一度も行ってないのデスね? ……わかりマシタ。ありがとうございマス」
 四葉はやや落胆した様子だった。昇降口に行っていないということは、すなわち可憐は怪しい人物も見ていないということになる。そして、その点は鈴凛も同じだった。長休みは可憐と話していたし、昼休みは教室でメカ鈴凛製作のアイデアを考えていたのだから、事件の捜査には貢献できそうにない。
 この取り調べで重要となってくるのは、休み時間に昇降口に行ったかどうかという点である。なぜなら、警備員の言葉を信用するならば、犯人が花穂の下駄箱にカッターの刃を仕込んだのは長休みか昼休みのどちらかに違いないからだ。したがって、その時間帯に昇降口を訪れていないものは、事件の目撃者とはなり得ないのである。
 続いて、咲耶の話を聞くことになった。
「私は、長休みは教室にいたわ。一人で本を読んでいたの。昼休みはさっき可憐ちゃんが話した通りよ。長休みに読んでいた本が読み終わったから、図書館に返しにいって、そこで可憐ちゃんとばったり会ったってわけ」
「ふむふむ……咲耶ちゃんもアヤシイ人物は見てイナイ、と」
 次は鈴凛の番だった。自分がずっと教室にいたことを話すと、四葉は残念そうな顔をした。一緒に捜査した仲間としては少し申し訳ない気持ちがあったが、事実なのだからどうしようもない。
 そのあと、四葉は衛に事情を聴いた。衛は、自分もずっと教室にいたのだと述べた。
「長休みも昼休みもデスか?」
「うん。ボク、まだ本調子じゃなかったから。休み時間もトイレ以外は教室から外に出なかったんだ。――そうだったよね、花穂ちゃん?」
 まさか自分に確認されるとは思わなかったのだろう、花穂はあたふたとしながらそれに答えた。
「え? えー……えっと、花穂は……長休みは教室にいたからぁ……うん、衛ちゃん見たよ。でもね、花穂、昼休みは外にいたからぁ……」
 花穂はまだ若干、顔色が優れないようである。やはり、本人にとってこの事件は辛い思い出でしかないのであろう。被害者を目の前にして事件をいじくり回すことを決行した兄の考えが、鈴凛にはいまだ理解できなかった。だが、兄は妹の中で最年長である咲耶よりも、さらに考え深い人間のはずだ。そんな兄が行き当たりばったりの無茶をするとも思えないのである。何か考えがあるに違いない。だから黙って見守るしかないと、鈴凛は判断したのだった。
「花穂ちゃん、昼休みに外に出たのデスか?」
「うん、昼休みもチアの練習があったんだ」
 花穂の何気ない一言に、四葉と兄は顔を見合わせた。そして一条の光明を見たように四葉の顔に輝きが浮かんだ。先ほどよりも興奮した調子で、四葉は花穂にもう一度訊いた。
「そのときは、下駄箱にはどこも異常はなかったのデスね?」
「そうだけど……」
 得たりとばかりに、四葉はクフフと笑う。
 四葉の言わんとするところが、鈴凛にも理解できた。昼休みに花穂が下駄箱から靴を出して履いたのならば、下駄箱にカッターが仕込まれたのは、必然的に昼休みよりもあとだということになるのである。これで、かなり犯行時刻が絞られたはずだった。
 だが、兄の表情は明るくない。兄はノートを開いて四葉の見落としを指摘する。
四葉の言いたいことはわかる。でもね、よく考えてごらん。昼休み以後に犯行が為されたということはあり得ないんだよ。昼休みよりもあとの午後の休み時間は、誰も昇降口を通らなかったという、五分休憩だけだ。また、放課後についていうと、授業が終わると間もなく、鈴凛が玄関で花穂を見ているんだから、その前に誰かが花穂の下駄箱にカッターの刃を置けたはずがない。そんな時間はなかった。そうだろう?」
 兄の言う通りだった。四葉はやはりその点を失念していたらしく、笑顔が固まった。
「う……たしかに。さすがは兄チャマ、鋭い推理デス」
 しかも兄の言葉を素直に解釈すると、この事件の不自然な点が浮かび上がってくることになる。鈴凛四葉の横顔を見たが、ただ首をひねっているばかりである。その様子から察するに、どうも四葉鈴凛の気付いた重大な事実に思い当っていないらしかった。兄も、知っているのか知らないのかわからないが、口を開こうとはしない。やむを得ず、鈴凛は事件の問題点を自ら提示することにする。
「ねえ、私気づいたんだけどさ、いまのアニキの言い分だと、まずいことになると思うんだけど――」
 四葉は何事かと目を剥いた。兄はといえば、その件は鈴凛に一任する、先を続けたまえとばかりに傍観するだけだった。余計な責任を背負わされてしまったらしい。口出ししたことに後悔しつつも、鈴凛はあとを続けた。
「――凶器が置かれたのって、長休みか昼休みでしょ? でも花穂ちゃんは昼休みに靴を履いて外に出ているじゃない。つまり、昼休みの時点でも凶器はまだ置かれていなかったということよね。そしてアニキが言ったように、昼休みよりあとに置かれたのでもない。とすると、凶器が花穂ちゃんの下駄箱に置かれるような時間はどこにもなかった、ってことになっちゃうんじゃない?」
 四葉はあっ、と声を上げた。
「そうだね」兄だった。「その通りだ。よくわかったね」
「ど、どういうことデスか? もしかして……花穂ちゃん……」
 四葉が何か言おうとするのを、兄は手で制した。この瞬間に四葉が何を考え付いたのかは鈴凛にもわかった。鈴凛もちらと脳裏に浮かんだことではあったが、それを口に出すことは、花穂の人格をひどく侮辱することと同じである。要するに、“花穂の狂言”である。
四葉、言っていいことといけないことがあるよね」
「ご、ごめんナサイ……」
「でも、ある意味で似たようなものかも知れないね」
 と、兄は謎の言葉を呟く。
「実際に被害者がいて、事件が起こったことは明白なのに、それが行われたはずの時間は虚空に消え去ったかのように見えなくなっている。普通に考え進めていくと、花穂が被害者となったこの事件は、犯人が誰であれ、犯行可能時間がどこにも存在しないんだよ」
「兄チャマ、まさかこの事件は……フカノウハンザイ!?」
 兄の挑発するような台詞に、聞き慣れぬ用語を持ち出しながら四葉は逸り立った。不可能犯罪――独特の美しく妖しい響きに、その場にいた全員が息をのむ。
 今にも自分に掴みかかりそうな四葉を落ち着かせようと、兄は説明を始めた。
「違うよ四葉、犯人はちゃんと証拠を残しているよ。それも至って明瞭な、ね。四葉も、一緒にいた鈴凛も、自分たちでは気づいていないかもしれないけど、事件を解くための材料はすべて目にしてきたんだよ。
この事件があたかも存在し得ないような形になってしまったのは、ちょっとした偶然によるものなんだ。事件は実際に起こった。まず、これは間違いない。花穂が現実に怪我をしてるのが何よりの証拠だね」
「そうよね、私は花穂ちゃんが怪我してるとこに居合わせたんだもん。保健室にも連れて行った。保健の先生だって証言してくれるわ」
鈴凛は自分の体験を話す。
 そう、事件が起こらなかったなどということは、絶対にないのである。
「それは……わかりマスケド、じゃあ、事件はいつ起こったのデスか? 四葉はそれが知りたいデス」
 その質問には答えず、兄は預かっていた四葉のノートを取り出し、ぺらぺらとめくりだした。何が始まるのかと、その動作を四葉は食い入るように見つめている。やがてあるページに差し掛かったところで兄は手を止め、ページの一角を指で示した。四葉が殴り書きした解読困難なおぼつかない文字で、そこには、このように書いてあった。
“ドウキは不明”
「大切なことはね、四葉。順序なんだ。物事には順序というものがあって、それは例外のない世界の法則なんだ。積み上げたトランプは上から順に取るのが原則で、一番下のカードの数字とマークは、上に重なるすべてのカードが取り去られたときに初めてその姿を僕たちにさらす。……わかるかな、四葉。いま四葉たちの目に映っているのは、沢山のカードの裏側なんだ。一番下のカード――犯人のカードを取るためには、その上に積み重ねられたカードを順に一枚一枚取り払っていく工程が必要なんだよ。いきなり一番下のカードを取ったり、真ん中のカードを抜いたりすることはできないんだ。何が言いたいかというとね……考える順序を変えるだけで、事件の真相は面白いほどはっきりと見えてくるものだということさ」

*****

 物事の順序というものを四葉はあまり考えたことがなかった。日常に行っている探偵活動も行き当たりばったりの運任せばかりだった。体を動かしての調査は得意だったが、論理を組み立てて考えることは不得手だったのだ。――だから、自分はせっせと歩き回って証拠を集めることしかできない。自分だけじゃ事件は解決できない――。
 四葉は悩んでいた。自分はホームズにはなれない、薄々そんな気がしていた。しかし、認めようとしなかったのだ。認めたくなかった。幼少のころから憧れてきたのだから。それに、自分と正反対に、積極的に活動することを嫌い頭脳労働だけを得意とする兄への対抗心もあった。
 兄の頭脳明晰さは、四葉だけでなくすべての妹が認めるところだった。でも、本人が積極的に問題ごとに首を突っ込むことはなかった。彼の頭脳があればたちどころに解決したであろう事件も数多くあったように思う。それなのに、妹たちの問題に対して、兄はできる限りの不干渉を心がけていたように思えてならないのだ。それは、妹たちの問題解決能力の成長への憂慮もあったろうし、妹たちの兄離れという目論みもあっただろう。そして、ある部分では――自意識過剰と言われそうだが――四葉の立場を慮ってのこともあったかもしれない、そう四葉は思っている。つまり、自分の好奇心の旺盛さを個性として兄は認めてくれていたのだ、と。
 今回の事件で自分のした行動は、果たして正しいことだったのであろうか。探偵の介入によって、事件は望まれない結末を迎えてしまうこともあるのだ。もしも自分が何もしなかったなら、花穂や、鈴凛や、他のみんなはどうしていただろう。事件のことなど忘れてしまって、普段どおりの日常に戻っただろうか。
 きっとそうだろうなと思った。
 花穂は一見頼りなさそうに見えるが、本当は芯の強い子だ。もしもまた同じような被害にあっても耐えることができるはずだ。それに、励ましてくれる大勢の姉妹もいる。花穂は自分に危害を加えようとした犯人を見つけることなど、決して望んではいないのだ。
 それでも自分は犯人を探そうとした。その結果、事件は後戻りのできないところまで進んでしまった。すでに進展の軌道に乗ってしまっている。当事者の望むと望まぬとに関わらず、このまま解決を迎えることだろう。
 兄は、本当に自分に何かを期待していたのだろうか。
そして、本当に犯人を捕まえたいのだろうか。
 電話での相談など、四葉はしていなかった。今日の捜査はすべて四葉の身勝手な行動だったのだ。兄はなぜ嘘を吐いてまで、自分を庇ってくれたのだろう?
 そして、兄は今回に限ってどうして自ら事件に介入するような態度を取ったのだろう。今までは一歩引いたところから傍観するばかりだったのに。
兄のことも、事件のことも、そして自分自身のことも……。四葉には、わからないことだらけだった。
 兄の手の中にあるノートが周囲の音をすべて吸い込んでしまったかのように、部屋はしんと静まり返っていた。兄の存在が部屋を支配していた。自分の鼓動と呼吸だけが聞こえる。誰も言葉を発しなかった。みな、兄の言葉の続きを待っていた。
 しばらく無言でいた兄は、掛け時計の秒針が一周したころになって、ノートから顔を上げ、重々しく口を開く。
「犯罪の背後には普通、動機が存在するんだ。四葉だけじゃない、みんな知っているだろう。今回みたいな、特定の相手に危害を加えることだけを目的としたものは、特にそうだ」
 兄は花穂に視線を移した。
「花穂、誰かの恨みを買うようなことをした覚えはある?」
 単刀直入な質問だった。
「わかんない。花穂、誰かに嫌われるようなことしちゃったのかなあ。花穂ドジだから……」
「花穂ドジだから、か」
 兄は微笑んだ。優しい笑みだった。
「花穂、ドジなのは悪いことじゃないよ。花穂のいいところはそれをきちんと認めて、しかも自分のドジに負けないように頑張る、正直なところだ」
 兄の励ましの言葉に花穂は俯いて、頬を紅潮させた。
 兄がゆっくりとノートを繰っている。静かな部屋に、四葉のノートの立てるぺらぺらという音が響く。
「まあ、動機の話はひとまず置いておこう。他にも気になるところがあるからね。うん、ここだな」
 兄は開いたページの内容をまとめる。
「……下駄箱のハンドルを収める、扉の凹部の底面に、硬いもので引っ掻いたような傷があった。それは一年二組のすべての下駄箱に付いていた……この部分なんだけどね」
 兄はシャツの胸ポケットから、四葉から受け取っていたハンカチを取り出す。そっと封を解くと、凶器として用いられたカッターの刃が現れる。
「たぶん、下駄箱の扉に傷をつけたのはこのカッターの刃だね。これを窪みの底面に、ハンドルに噛ませるように置くと、扉を開けようとハンドルを握ったときに指に刺さるわけだ。花穂が怪我をしたようにね。つまり扉の傷は、花穂がハンドルを握ったときに、カッターの刃がハンドルに押されて、扉をこすってできたということだ」
 四葉は兄の推理力に脱帽した。あの傷にはそういった意味があったのだ。加えて、カッターの刃が床に落ちていたのも、カッターの刃が置かれていた場所で説明が付く。ハンドルを設ける凹部に刃が置いてあったのならば、指を傷つけたあとカッターの刃は自然に下に落ちるに決まっている。
 だが、疑問がないわけではなかった。四葉は突っ込みを入れる。
「じゃあ兄チャマ、一年二組の扉のゼンブにおんなじ傷が付いていたのはドウシテ?」
 いい質問だ、と兄は言った。
「もちろんそれにも理由はある。――ねえ花穂。花穂は下駄箱を開けて、中を確かめて見たかい?」
「ううん、開けるときに怪我しちゃったから」
「そう、そうだね。そして、カッターの刃は床に落ちた。……じゃあ、鈴凛に訊くけど」
 今度は鈴凛の番である。
「花穂を保険室に運んだあと、玄関ホールに戻って床に落ちていたカッターの刃を拾ったんだったね?」
「そうよ」
「そのとき、花穂の下駄箱を観察してみた?」
「ええと、してない……」
「そう、鈴凛は下駄箱を見ていない。そこに傷があったかどうかも、ね」
「ねえお兄ちゃん、どういうこと?」
 可憐は話が飲み込めていないようだ。それは四葉も同様だった。
「傷があったかどうかわからないということは、言い換えると――これは僕の想像でしかないんだけどね――傷がなかったかもしれないということにならないかな?」
「え? でも……それじゃあ、さっき言っていたことと違っちゃうよ……」
 可憐は疑問符を浮かべる。
「違わないんだな、可憐。僕が言いたいのは、花穂の開けようとした下駄箱に傷がなかったということじゃない。もちろんそこには傷はあった。そうではなくて、“花穂の下駄箱に”傷があったかどうか、ということだよ」
 あーっ、と花穂が大声を出した。
「か、花穂、もしかして……」
「――うん、開ける下駄箱を間違っちゃったんだね。きっとチアの練習で急いでいたんだろう。ドジだなぁ、花穂は」
 そんな馬鹿な――! 誰もがそう叫びたかったことだろう。花穂は本来なら被害者ではなかったのだ。花穂は、“自らのドジのために間違って被害者になった”のである。事件解決に寄与しようと四葉は散々走り回ってきたが、ここに来て一気に力が抜けてしまった。ドジもここまでくると犯罪に近いものがある。人騒がせというほかない。花穂は何だか泣きそうな顔であるが、四葉には花穂をフォローできる自信はなかったし、するつもりもなかった。
 兄は花穂に苦笑いしながら、話を再開した。
「カッターの刃が仕掛けられたのが花穂の下駄箱だったとすれば、犯人にそれを仕掛ける時間はなかった。しかし、もしそれが違う下駄箱だったとしたら、カッターの刃を置くのは長休みでも昼休みでもいいことになる。犯行時間の問題はこれでクリアだね。
そしてもう一つ。一年二組の下駄箱すべてに傷をつけた理由は、犯人の本当の標的をわからなくするためだったと考えられる。おそらく犯人は、鈴凛が去るのを見計らって一度現場に戻ったんだ。証拠を残していないか確認するためにね。そこで運よく扉の傷に気付いた。だから、本当の標的がばれて、自分が犯人として特定されてしまうのを防ぐために、犯人は一年二組のすべての下駄箱に傷をつけたんだ。傷を隠すなら傷の森を作ればいい、という論理だね」
「あにぃ、本当の標的は誰だったの……?」
 さあね、と兄は言った。
「そんなこと僕が知るわけない。でもね、僕たちにとって事件はこれで解決なんだ。もう心配することはないんだよ。花穂は誰にも恨まれてない。最初に言っただろう、考える順番は大切だって。怪我をさせられる動機がないんだから、今後被害にあうこともない。それで十分じゃないか。犯人はわからなかったけど、僕にとってはそんなことはどうでもいい。確かに花穂は指に怪我をしちゃったし、犯人は憎いけど……でも、花穂は本当なら無関係なんだから、花穂が気にしないと言えば僕もこれ以上深入りするつもりはないよ。みんなにもそうしてもらえると助かる。それと、四葉――」
 名前を呼ばれて、四葉は涙のこぼれそうになった目で兄を見た。兄の視線と四葉の視線が重なって、兄の瞳が持つ引力のようなものに、四葉は吸い寄せられそうになる。
「本当にお疲れ様。事件の真相がわかったのは四葉のおかげだよ。よく頑張った、役に立ったね……ありがとう、四葉
 四葉は兄の大きな胸に飛び込んだ。そして、大粒の涙を流し、わあわあと泣いた。がっしりとした、それでいて優しさのこもった腕が四葉を包み込む。涙は止め処なく流れ、いつまでも止まりそうになかった。
 自分が兄に求めていたものはなんだったのだろう。自分の気持ちを理解し、自分のすべてを認めてくれることではなかったか。その願いは四葉の知らないうちに、たぶんずっと昔に叶っていたのだ。
 そして、四葉は思う。自分のしてきたことは間違っていなかったのだと。なぜならば、兄がそれを認めてくれたのだから。四葉は少しだけ、自分に自身が持てたのだった。

******

 衛の家を出ると、外は真っ暗だった。街灯の周りを様々な大きさの虫が、自分たちの習性に盲従して一心不乱に飛び回り、命を縮めている。鈴凛は、昆虫は哀れだと思った。意思もなくプログラムされた動きに従うだけなんて、まるで機械みたいだ。もっとも、人間がそうでない保障もまた、ないのではあるが。
 四葉の家に足を運んだ昨日を思い出す。自分が四葉の元を訪れたときは、鈴凛はまさかこんな結末になることは予想していなかった。四葉の行動力と観察力にも恐れ入るが、兄の頭の回転の速さには敬服する。あれだけの証拠から、あのような結論を導くなど兄以外にはできない芸当だ。人間離れした想像力である。
 考え事をしているうちに目的地に着いていた。兄の家の前だった。
 鈴凛には、兄に訊きたいことがあった。兄の吐いた嘘についてである。電話で四葉に捜査の許可を与えたという嘘は、事件解決後の四葉の様子を見ればその狙いはわかる。だが、もう一つの嘘についての鈴凛の疑問は解けない。
 兄の足音が聞こえ、近くまで来たのがわかった。鈴凛は通りに歩み出た。
 突如目の前に現れた鈴凛を見て、兄は驚いていたようだった。
鈴凛……」
「説明してよアニキ。さっきのあれ、嘘なんでしょ」
 語尾は疑問系だったが、それは断定であり詰問だった。二人は無言で立ち尽くした。数分間身じろぎせずそうしていたが、兄はやがて、諦めたように肩を竦めた。
「……わかったよ。まさか鈴凛がそんなに鋭いとは思わなかった」
「賢い鈴凛ちゃんを甘く見てもらっちゃあ困るわ」
「そうだね、認めるよ」
 ふう、とため息をつく。真相を葬って平和に済ませたかった兄としては、こういった展開は実際、相当悔しいのであろう。
「まず、凶器のこと。アニキ、私の目はごまかせないわよ」
 渋々、兄はポケットから鈴凛のハンカチを取り出した。中には、この二日間で嫌というほど目にしたカッターナイフの刃が入っている。これだね、とそっと凶器をつまんで鈴凛に見せた。
「アニキ、どうして不明瞭な証拠を手付かずのままにするの。カッターナイフの刃には不可解な点がいくつか残っているわよね。このぬるぬるした軟膏みたいなもの。これは一体何?」
「リップクリームだよ。もちろん、犯人のね」
「リップクリーム?」
「そう。――鈴凛、間接キッスって知ってる?」
 突拍子もない質問に鈴凛は拍子抜けする。
「そりゃあ知ってるけど、それがどうしたっていうの?」
鈴凛は火傷したとき、どうする?」
 兄が真面目なのか、ふざけているのかわからない。鈴凛は、だんだん馬鹿にされているような気がしてきた。怪訝な目で兄を見返す。
「答えて、鈴凛
 兄は返答を促した。
「……反射的に、耳たぶを触る?」
「そう。じゃあ……もしカッターナイフの刃で指を切ったら?」
 その質問で、鈴凛は兄の意図に気付いた。兄もそれを察したらしく、自らの問いに解説を加えた。
「わかったみたいだね。凶器に使われたカッターの刃が、案内の溝に沿ってではなくて、横一直線に割られていただろう。つまり犯人はカッターナイフを使い慣れていないか、相当不器用だったかのどちらか、もしくは両方だ。四葉のノートにも書いてあった。――そう、だから、犯人はカッターの刃を割るときに失敗しちゃったんだ。うっかり自分の指を切ってしまった。それで、つい口に怪我をした手を持っていったんだね。そのときにリップクリームが付いた。その手で折れた刃を拾い上げたんだ」
 それが、兄の説明するリップクリームが付着した理由だった。
「それと、おそらく、動機に関しての言い分にも鈴凛は納得していないよね? 動機については何も述べていないのと同じだから、不審に思われても仕方ないよな。僕は四葉のノートで知ったんだけど、鈴凛は実際に現場を見てきただろう? 花穂の隣の下駄箱の名前も」
「……衛ちゃん……」
 そうだよ、と言う兄の声には、暴かれるはずのなかった真実への悲愴が漂っていた。
「そう、犯人の本来の狙いは衛だったんだと僕は思う。もちろん衛じゃなく、もう一方の隣の生徒である可能性も否定できない。でも、犯人が昨日指を切ったことと、凶器にリップクリームが付いていたこと、そしてさっき四葉がみんなから聞き出した“アリバイ”を考え合わせると、ある一人の人物が浮かび上がってくる。その人物が犯人であるという前提で考えると、本来の被害者が衛であることは十分にあり得るし、もし衛であれば、犯人が犯行に及んだ動機もはっきりする。しかもその動機は、仮定した人物以外の人間が犯人である可能性を、ほぼ完全に否定するものなんだ」
 鈴凛は兄の言葉を元に思考を巡らせる。指を切った、ということは、犯人は怪我をした部位に何らかの治療を施した可能性が高い。そしてリップクリーム。鈴凛は最近、どこかでそんな話を聞いたような覚えがあった。さらにアリバイである。アリバイ……?
「アリバイってことは、もしかしてアニキ、私たちの中に犯人がいるっていうの?」
 当たり前だろう、と兄は言った。
「いいかい鈴凛、犯人のターゲットが衛だとする。衛はここ数日間風邪をこじらせて学校を休んでいた。そして、やっと今日回復して学校へ行けるようになった。その初日に犯人に狙われたんだ。おかしいと思わないのかい? ずっと学校を休んでいた衛が、その間に、怪我をさせられるほどの恨みを誰から買うんだと思う? 名探偵の四葉にも、犯人のこの心理だけは理解できないだろうね。四葉はどこまでも純粋な子だから。でも鈴凛になら……もしかしたらわかるんじゃないかな、犯人の気持ちが。いままで、すぐ近くで鈴凛を見てきた僕にはそう思える」
 鈴凛は、衛の家を訪れたときに玄関で聞いた、衛の言葉を思い出した。
“うん。あにぃは僕が風邪をひいてから、毎日見舞いに来てくれてたんだ”
 衛がそう言ったとき、鈴凛の心に生じた黒い感情。振り払おうとしても振り払えず、一旦は消えてもまたすぐに生まれる。それは、“嫉妬”と呼ばれる感情だった。鈴凛の心は、嫉妬という海に浮かんだ箱みたいなものだった。ちょっとでも海に波が立ったり、箱が傾いたりすれば、黒い海の水は箱の中に容赦なく侵入してくる。
「衛が学校を休んで恨みに思う者はない、普通ならそうだ。でも、衛が学校を休んだからこそ恨みに思う者もいる。それは、僕の妹たちだったんだ。僕は衛のことが心配で、衛が休んでいる間中、毎日見舞いに通っていた。だけど、それは失敗だったんだね。僕の大切な妹たちは、僕が思っていた以上に嫉妬深いようだから……」
 兄はカッターの刃を指先で弄んでいる。一人の妹が、同じ妹を傷つけるのに使った凶器だ。
「一体、誰が衛の下駄箱にカッターの刃なんか置いたんだろうね」
 犯人が妹の誰であっても悲しいことだと鈴凛は思う。だが、おそらく兄の辛さは鈴凛以上なのだ。兄の顔は陰になっていてよく見えないが、事件を防げなかった無力感への悔しさを湛えた兄の表情が、容易に目に浮かぶ。
「まず手を怪我した花穂と本来の被害者であった衛、そして別の学校に通っている四葉は容疑者から除外しよう。衛はずっと教室にいた。だからカッターの刃を仕掛けるのは長休みでも昼休みでもいいんだ。そこで、長休みにアリバイのない人物はというと、可憐と鈴凛は一緒に教室にいたのだから、咲耶だけということになる。次に昼休みだ。昼休みは、今度は咲耶と可憐が図書館で会っている。機会のあったのは鈴凛だけだ。つまり、咲耶鈴凛が犯人ということになる」
 兄は感情を排除した声で抑揚なく話し続ける。このままでは、繊細なバランスで精神を支えていた糸が突然ぷつんと切れて、兄は狂ってしまうのではないかと思った。鈴凛もこれ以上聞きたくはない。だが、すべてを自分ひとりで背負おうとした兄の覚悟を無視して、真実を知りたいとわがままを言ったのは鈴凛本人なのだ。だから、鈴凛には最後まで聞く義務がある。
鈴凛、指を見せてごらん」
 言われたとおりに両手を差し出す。兄は鈴凛の両手を取り、しばらく眺めたあとひっくり返してまた観察する。外気にさらされていても兄の手は暖かく、兄の存在がわずかに現実味を取り戻した。
「機械ばっかり弄ってるからかな、傷の多い手だね」
 鈴凛は自分の顔が熱くなるのを感じた。
「でも、どれも治りかけた古い傷だね。最近はコンピュータの方が忙しいのかな」
 鈴凛の手を、兄の手が離れた。
鈴凛咲耶の指に大きな絆創膏が巻いてあったのを見たよね。花穂が怪我をした、ちょうどその日からだ。僕が最初に咲耶を怪しいと思ったのは、昨日、咲耶の指の絆創膏に気付いたときだったんだよ。よりによって花穂と同じ日に怪我をしたというのだから、僕は不審に思った。本人は針で刺したなんて言っていたみたいだけど、そんなの嘘だ。針の刺し傷くらいで、あんな大げさな絆創膏を貼る必要なんかない。
それから昨日、咲耶がこの事件のことを四葉には話さないようにと提案したこと。いま思えば咲耶は、四葉が証拠を見つけだしてしまうのを恐れていたんだな。咲耶の今日の荒れ方を見ただろう。咲耶は、四葉になにか証拠を握られたんじゃないかと焦っていたんだ。それと同時に、花穂が被害者だということをみんなに印象付ける効果も狙っていたのかもしれない。その目論見は成功したと言えるね。誰も花穂が、他人の下駄箱を開けようとしたなんて、考えもしなかっただろうし」
 そう。だが、兄には気付かれてしまったのだ。咲耶にとっては最も知られたくない人物だったはず。
「それから、カッターの刃に付いていたリップクリーム。今日の会話を思い出してごらん。可憐の本の話のあと、咲耶が新色のリップのことを自慢げに話していたのを鈴凛は覚えているかい。
 それにカッターの割れ方の問題もあるね。鈴凛は器用だし、カッターは使い慣れてるだろう。一方、咲耶は工作も何もしないから、きっとほとんど使ったことがないと思う。本人の筆箱を確かめさせてもらって、実際に断面を付き合わせてみるのが確実だろうけど、僕は、そこまではしたくない」
 そう言って兄はカッターの刃を道路に放り投げた。アスファルトに落下した凶器は、空虚な金属音を一瞬だけ鳴らして、夜のしじまに溶けて見えなくなった。中身を失った白いハンカチが兄から鈴凛に手渡され、鈴凛はそれを乱暴にポケットに押し込んだ。
「私、このことは誰にも言わないから」
「ありがとう、助かるよ」
「資金援助よろしくね」
「わかってる」
 兄が微笑んだような気がした。
咲耶ちゃんは気付いているかしら、アニキが咲耶ちゃんが犯人だって見抜いたこと」
「さあ、どうだろうね」
 咲耶は、衛に嫉妬するあまり犯行に及んだ。それは、もしかしたら、咲耶と同じ気持ちを抱いていた鈴凛も同じことをしたかもしれないということなのだ。では、可憐や衛、花穂はどうなのか。妹ならば、誰もがそうした悪意を持ちえたのではないか。そうだ、四葉とて決して例外ではないのだ。
 鈴凛の脇を通り抜け、玄関をくぐる兄の背中をじっと見送る。兄は今後も、咲耶に、そして自分や他の妹たちに対して以前と同じように接することだろう。兄はそれができる人間だ。
 玄関がかすかな音を立てて閉められ、鈴凛は暗闇に一人残される。不意に孤独感が押し寄せた。
 今回の事件で自分の果たした役割はなんであったのか。
自分がカッターナイフを四葉に見せなければ、四葉が証拠探しをすることもなく、事件が迷宮入りになっていたのは確実だろう。だから、解決への切っ掛けを作ったのは自分だともいえる。だが、事件が解決しないことに何の問題があったのだ? 結局真相を知ったのは、兄と自分だけだったではないか。事件が解明されぬまま忘れ去られても、同じことだったのだ。
 自分に役目などなかったのだと鈴凛は結論した。いまこうして兄の家の前に立っているのも、自分が偶然兄の論理に疑問を持ったからに過ぎない。ここには四葉が立っていても、可憐が立っていてもおかしいことはなかった。そう、誰でもよかったのだ。
 散々姉妹のことを心配して、事件に悩まされて、結局、鈴凛の心に残ったのは忘れ去ることの叶わないわだかまりだけだった。そして、咲耶への――否、すべての姉妹に向けられた不信感。それを鈴凛は、今後背負って生きていかなければならない。
 これから鈴凛を待っているのは憂鬱な毎日だけである。アニキのことが少しだけ、鈴凛は嫌いになったのであった。

(了)


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 ミステリ風味にしたつもりです。ミステリでシスプリを書いたというより、シスプリでミステリを書いたという感じかも。ゆえに、シスプリである必然性は? と聞かれると返答に窮します。キャラ設定が似たようであればシスプリでなくても成立したかなぁ、と自分でも思います。反省。
 読んでくださってありがとうございました。