チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

その喪失

 麻里子の着替えを待つ間に友弘は、麻里子にうるさく言われていたのを思い出して、久々に髭を剃った。剃刀は百円で三本も入っている安い安全剃刀を使ったが、友弘が考えていたよりはずっと切れ味が良かった。友弘は、自分が髭を剃る最中に、間違って顎の皮をそぎ落としてしまうことを予感していた。 無事に髭を剃り終えたとき、友弘は自分の予感が外れたことに安堵した。
 鏡に映った自分の顔を見る。彼は自分の顔に、子供受けする要素を見出していた。それは物心ついたころからずっとそうだった。彼の面立ちの持つそういった要素が、実際に何かの役に立ったということもしばしばあったし、それをもっとも実感できたのが隣の家に住む亜沙美に対するときだった。彼女は妹の麻里子の同級生で、まだ――友弘流の下賤な言い方をすれば――男を知らない年齢だった。友弘の家と麻美の家は低い塀で隔てられていて、しかし低い塀だったからこそ小さな亜沙美の姿もよく見えたし、亜沙美からも友弘のことが見えた。友弘が隣家の生活の一部を覗くときには、必ずと言っていいほど彼の隣には麻里子がいた。友弘はその理由を二つ知っている。亜沙美と麻里子が同級生であることと、麻里子が友弘の妹であることだ。そのどちらも、友弘にとっては日常の一部を構成する掛け替えのないものだった。
 間隔を置いた弱いノックが二回した。友弘は蛇口をひねり、手に持っていた安全剃刀の刃に流水をかける。消しカスみたいな細かいものが陶器の洗面台を流れていき、渦に巻き込まれて消える。友弘は刃に水がぶつかる角度を変えながら、隙間に入った髭を真剣に洗い流す。ドアを開けて入ってきた麻里子にTシャツの裾を引っ張られて、やっと妹の存在に気付いた。
「ちょっと、危ないよ」友弘は剃刀から目を離さずに注意した。「いま忙しいんだから」
「ねえ、私が何でここに来たか知ってる?」麻里子は澄ました顔で言った。
「お母さんにいつも言われていると思うけどさ」友弘は麻里子の質問をまるっきり無視して、麻里子に言い聞かせる口調で言った。「お兄ちゃんはときどき、忙しいときがあるから、そういうときは邪魔しちゃいけないって」
「ねえ!」麻里子は背後で大声を出し、いっそう強く裾を引っ張った。「私が、何で、来たかわかる?」
「何でかって?」内心うるさく思いながら、友弘は水道を止めた。安全剃刀を洗面台のわきに置いてあるカップに立てた。歯ブラシと一緒だった。「わかるもんか。誰だって人の考えてることなんかわからないもんだよ。お姉ちゃんが言ってただろう? ほら、向かいの家のお姉ちゃん……何だっけ、名前が出てこないけど」
「ちょっと、止めてよ!」麻里子はカップを指さして叫んだ。「剃刀を入れないでっていつも言ってるでしょう。私、何回言ったかしら」
「ああ……少なくとも」友弘は考えるふりをした。「五十回は聞いた覚えがあるね。僕はちゃんと数えてたんだ。うん、五十回だったね、ちょうど」
 麻里子は頬を膨らませて友弘を睨んだ。「私、夏休みの宿題の作文にお兄ちゃんのことを書くわ。私のお兄ちゃんは物忘れが激しいです。彼は可哀そうなことに……」麻里子は言葉を止めて、ちょっと呻吟したあと、小さな声で俯き気味に続けた。適当な文章が思いつかなかったようだった。「物忘れが激しいのです……」
「わかった、わかった」ため息をついて、剃刀をつまみ出し、カップの隣に刃を下にして寝かせた。刃が傷んでしまうかもしれないが、妹を泣かせるよりはましだと彼は思った。「これでいいですか? 麻里子お嬢様」
 友弘は濡れた手をズボンで拭うと、洗面所を出て、ドアの横に立ててある帽子掛けに掛かっていた水色のキャップ帽を取った。薄く積っていた埃を払うと、それを、ぴったりと後ろに続いていた麻里子の頭に載せた。ツインテールが左右からはみ出したのを見て、死にかけのウサギを友弘は想像した。
「似合ってるよ。思ったとおりに」
「お兄ちゃんは被らないの?」帽子をもっとも快適なポジションに置こうと苦心しながら訊いた。
「僕が?」友弘は目を見張ってじっと麻里子と目を合わせていた。やがて、下のほうに引っ掛かっていた白いキャップ帽――麻里子とお揃いだった――を取ってかぶった。
「どう?」妹を見下ろして、少しはにかみながら訊いた。
「似合ってるわ」と、麻里子は言った。
「どうせ、お世辞だろう? 麻里子はお世辞の練習に世界一熱心な女の子だから」と口では言ったが、実際はまんざらでもなかった。帽子を深くかぶりなおした。「いや、宇宙一かもしれない」
「お世辞じゃないわ」麻里子はむきになった。
 家を出ると、日差しは、天気予報のキャスターの言葉から想像していたそれよりもずっと強く、友弘は辟易した。丹念に磨かれた黒檀の机のようにアスファルトは黒光りしている。遠くに煌めくものが見え、友弘は最初水溜りかと思ったが、それは逃げ水という現象だと思いだした。この知識は博学な――友弘から見ればの話だが――彼の妹、麻里子から得たものだった。麻里子の顔を見やると、彼女もうんざりしたような顔をしていたが、ひたすら無言で歩いていた。強情な奴だと友弘は思った。二人の前を、白地に黒ぶちの見たことのない野良猫が、驚くべき俊敏さで横切っていった。その無表情に友弘は苛立ちを覚える。と同時に、尊敬したい気持ちも起こった。
 ふと思いついて、友弘は妹に尋ねてみた。「通りがアスファルトでなかったらもう少しましだったのに、って思ってる?」
「いいえ、そんなこと。ぜんぜん」
 麻里子はぶすっとした表情だった。家を出た時からそうだったと友弘は心の中で苦笑した。
「ちょっと暑いけど、こんなのどうってことないわ。だってそうでしょう? 世界にはもっと暑い場所がごまんとあるのですもの」
 ごまんと、という表現に友弘は拍手したい気持だった。そして、彼女の言うことはもっともだと思った。友弘にとって、麻里子は昔から自慢の妹だった。その気持ちがいっそう強まった気がした。
 二人はろくに言葉も交わさぬままに、牧場みたいに広大な住宅地を歩いた。両脇に立ち並ぶ民家が、それぞれ違った強さで光を反射している。ときどき見受けられる、葉の青々と茂った広葉樹が作る影は、兄妹にささやかな安息をもたらした。それは特に、妹にとってはオアシスみたいなものらしかった。帽子のつばのわきから覗く、彼女の安らぐ表情を見ることで、友弘も何となく気分が良くなった。そうしながら、二人は歩き続けて、住宅地を抜け、小さな川に架かる小さな橋にさしかかったところで足をとめた。
 橋の上にくると、ちろちろと涼しげな音が、蝉の声に紛れてかすかに聞こえた。二人はコンクリート造りの橋の縁に立って、三メートルくらい下を流れる川を見下ろした。手すりは友弘の腰の高さまでしかなく、熱射病になって足元がおぼつかなくなり、さらに妹が隣にいなかったならば、きっととんでもない恐怖だっただろうと友弘は思う。川幅は五メートルくらいで、コンクリートによる平面的な護岸が施されていた。
 麻里子は足元に転がっていたビー玉くらいの石を――友弘にはアスファルトのかけらに見えた――拾い上げ、橋梁から手を差し出して川に落とした。その動作の無造作なのに友弘は驚いた。妹は川を見ると無意識に石を落とすくせがあるのかもしれない、と本気で考えそうになったほどだった。目を川に移したころには、石は水の中に吸い込まれてもう見えなかった。波紋が小さく広がっているのだけが辛うじて確認できた。
「涼しいわね」と、麻里子は彼女の胸まである欄干に両腕を乗せて、空を見上げてうっとりとませた表情をした。「水が流れているだけなのに、いい気持になるわ」と、気取った口をきいた。
「馬鹿だな、川のそばだから、気温が下がってるんだよ」友弘は知ったかぶって言った。
「やっぱり!」麻里子は声をあげて、期待を込めた顔で兄に振り向いた。「どれくらい? だいたいでいいから教えてよ」
「十度くらいかな」友弘は妹をがっかりさせないために、すかさず答えた。「もっとかもしれない。前に、本で読んだんだ。あの本はためになったね」
「ふうん」と感心したように言って、麻里子は正面に向き直った。右足がとんとんと一定の周期で地面を蹴っている。今度は、彼女は川面に目を向けていた。
 水面が、季節外れのクリスマスみたいにイルミネートされている。おそらく妹はそれに見とれているのだと友弘は思った。友弘自身も、川面に反射してまたたく光は綺麗だと思った。ずっと見ていたい気分だった。
「やっぱり暑いわ」しばらくすると、観念したふうに麻里子は深く息を吐いた。「帰りましょうよ?」
「いい考えだね。僕もそう言おうと思ってた」
 友弘を見てにっこりと笑うと、麻里子は駈け出した。背丈がラムネのビンぐらいになったところで立ち止まり、振り返って手を振る。「おーい」と、麻里子の声が聞こえた。友弘も手を振り返した。
 友弘は麻里子の表情や仕草をいちいち観察しながら、わざとゆっくりと歩いた。麻里子は待ちきれないというように、しきりに貧乏ゆすりをしていた。普段あまりしない所作だったので、彼はちょっとだけ満足感を得た。十秒に一度くらい、麻里子は友弘の名を必要以上に大きな声で叫んだ。
 友弘が麻里子に追いつくと、麻里子は待ちたくたびれたとでも言いたげな表情で――しかし彼女は何も言わなかった――普段よりも少しだけ速足で歩きだした。友弘は歩調を上げて、麻里子の歩きたいペースに合わせる。二人はどちらからともなく手を取って、汗ばんだ手のひらを合わせた。
 帰り道、日差しはいっそう強さを増していた。往路は風流を感じさた蝉の声が、だんだん耳触りになっていた。妹と繋がった左手がぬるぬると汗で滑り、位置がずれるたびに握り直さなければならないのが少し煩わしかったが、手を離そうとまでは考えなかった。額から滲み出た汗の玉が大きくなって流れ落ち、それが目に染みた。
 住宅地が見えるころになると、暑さのためか、頭に振り回されるような不安定感を友弘は覚え始めた。しかし、妹の手前それを表に出すこともできず、必死に堪えて平気なふりをしていた。妹は平気なのかと隣を見やれば、彼女は平然とした顔を帽子の下から覗かせているばかりだった。友弘はいらいらしてわざと大きなため息をついた。妹にも聞こえる大きさで吐いたつもりだったが、彼女は微塵の気遣いも見せずに友弘を無視していた。その態度が友弘には信じられないほど冷淡に思えて、なお彼の神経は苛立った。煮えるような暑さだけでなく、妹からの仕打ちにも友弘は耐えなければならなかった。

***

 二人は自宅の門をくぐった。隣の家で、道路に面したところの植木に向かって、水撒きをしている少女の姿が見えた。大きな麦わら帽子を目深にかぶり、顔はほとんど影になっていた。彼女はオレンジのワンピースを着ていた。ホースを強く押さえすぎているのか、水しぶきが霧のようになって少女にかかっていたが、少女にはかえってそれが涼しいらしく、口元には微笑さえ浮かんでいた。妹が彼女の姿を見つけて、「亜沙美ちゃん!」と大きな声で少女の名前を呼んだ。少女はこちらを振り向いた。
ごきげんよう」と、ホースを手に持ったまま亜沙美は気取った調子で言った。
ごきげんよう! 亜沙美ちゃん」妹は急に手を離して飛び出していった。「元気? 暑いね」
「お兄さんもこんにちは」亜沙美が顔を友弘に向けた。妹にはできそうもない上品な笑顔を、亜沙美はいとも簡単に作ってみせた。
 友弘は悪戦苦闘して、暑さに引き攣る顔をなんとか笑顔に作り替えた。「こんにちは」
「暑いですね、お兄さん」彼女は妹ではなく友弘に話しかけた。
「ええ、本当に。――水やりかい?」そう訊いてから、見ればわかる当たり前のことだと気づいて後悔した。
 ええ、と相手は答え、とっておきともいえる笑顔を見せた。友弘は彼女の手元が気になって仕方がなかった。亜沙美の細い指が一生懸命にホースの口を狭めて、水を拡散させていたのだが、ホースを持った右手が、さっきから同じところを往復している。地面に水溜りができかけていて、友弘は落ち着かなかった。
「亜沙美ちゃん、これから遊ばない?」と、妹が言いだした。
「いいわよ。でもちょっと待って、お母さんに水撒きを頼まれてるの」やっと仕事を思い出したように、ホースの先を新しい土地に移動させた。
「そろそろお昼だから、家に入ろう」友弘は妹に向かって言った。「お昼を食べてから心ゆくまで遊べばいい。まだこんなに明るいんだから」
 麻里子は、彼の提案を承諾して、友人と別れの挨拶を交わして玄関に消えた。友弘も一言だけ挨拶を残して、妹に続いて家に入った。ろくに歩いていないはずなのに、足が鉛みたいに重かった。洗面所に向かう妹の軽やかな足音が聞こえた。
 昼食のサンドイッチを食べ終えると、妹はコップに残っていたオレンジジュースを一息で飲み干して、どたばたとすぐに出て行った。友弘はそれを横目で見ながら、自分のコップの中身を堪能していた。それは濃厚な、アイスミルクだった。
 ランチタイムがお開きとなると、友弘はカップをミルクで満たし、氷が五個浮かべて、それを持って自室に向かった。一歩歩くごとに氷がガラスとぶつかって高い音を立てた。コップの表面に付いた水滴が、指を伝って足元に垂れたのを、わざと踏みつけながら歩いた。
 ドアを開けて、通りに面した窓のそばに寄った。向かいの家が見えた。庭で犬と戯れている女性の姿があった。彼女の顔は頻繁に見るが、名前を友弘は思い出せない。小さかった頃はその女性によく面倒を見てもらったらしいのだが、彼はそのことも覚えていなかった。
 カップを傾けてミルクを一口飲んだ。それを窓際にある勉強机の上に置いて、その隣に自分も腰かけた。机に座るのは久しぶりだったので、懐かしい、小学生に戻ったような気分になった。自分が小学生のころのことは覚えていないが、小学生である妹がたまにやっていることなのだ。友弘の部屋でも、友弘が見ていないと麻里子はいつの間にか友弘の机に腰掛けていることがある。それは妹の悪い癖だと友弘は思っていた。また一口ミルクを飲んだ。
 再び外を見ると、向かいの家の庭から女性の姿が消えていて、犬もいなくなっていた。
 友弘は机から降りて、窓を開けると、顔を出して周りを見渡した。隣の家の庭で縄跳びをしている麻里子と亜沙美の姿が見えた。亜沙美が跳ぶたびにワンピースの裾が翻り、花びらみたいだと友弘は思ってじっと見ていた。無防備に露わにされた彼女の足は、病的なまでに白かった。妹はどちらかというと色黒だったので、比べてみると違いがはっきりわかった。よく見れば、亜沙美の肌は全体的に、あまり日に焼けていない色をしている。外に出ていないわけではないことを友弘は知っていたので、もしかしたら白人の血が混じっているのかもしれないと思った。
 窓を開けたままにして、友弘は勉強机から降りると、帽子の一つ足りない帽子掛けから、さっきと同じ白いキャップを取ってかぶった。洗面所で自分の姿を鏡に映してみる。帽子の角度が気に入らなかったので、念入りに調節した。
 友弘が家を出ると少女二人は縄跳びを止めていて、並んで縁側に腰かけていた。友弘が声をかけるよりも前に、亜沙美が友弘に気付いた。
「あら、お兄さん」首をかしげるようにして友弘に顔を向けた。その拍子に、セミロングの髪がさらりと揺れた。
「やあ、暑いね」笑いながら、自分はまた同じことを言っている、と呆れた。「縄跳びをしていたの?」
「見ていらしたの?」亜沙美は訊いた。
「いや、縄を手に持っているから」友弘は弁解した。それから、「僕もそっちへ行っていい?」と訊いた。
「どうぞ」と亜沙美は答えた。
 地面が湿っていたので、亜沙美の家の庭は、友弘の家の庭よりも涼しかった。友弘は妹の麻里子の隣に座った。亜沙美は麻里子の向こうから前かがみに顔を出して、「いらっしゃい」と言った。
 麻里子は亜沙美にしきりに話しかけていて、亜沙美は嫌がることなくその相手をしていた。友弘は二人の会話に耳を傾けながら、地面を行進する蟻の隊列を見守っていた。二人の少女のどちらかの足が彼らを踏みつぶそうとしたら、足を下ろさないよう注意しようと考えた。隣に座る麻里子のサンダル履きの足は、砂が付いて粉をふいたようになっていた。彼女は半ズボンだった。その向こうにも二本の白い棒が伸びていた。蟻は四本の棒のすぐ前を、恐れるものなど何もないかのように悠然と行進している。
 亜沙美が突然立ち上がって、「何か飲み物を持ってきますね」と言った。
「お気遣いなく」
「いいえ、こんな暑いんですもの。干からびてしまうわ。――麦茶でいいかしら」
「じゃあ頂こうかな。君の持ってきてくれるものなら、何でもいいよ」
 亜沙美は照れたように微笑むと、家の中へ消えた。麻里子は名残惜しそうに麻美を見送っていた。友弘はその横顔を気づかれないように盗み見ながら、思わず麻里子の髪に指を差し入れていた。そのとたん、麻里子の肩が大げさに跳ねた。
「ちょっと!」怒ったように友弘の手を払いのけた。「やめてよ」
「汗をかいているじゃないか」汗ばんで湿り気を帯びた髪の感触が、友弘の手にまだ残っていた。「タオル持ってこようか、亜沙美ちゃんが戻ってきたら」
「お気遣いなく」と、麻里子は兄の口真似をした。「おあいにくさま。ハンカチを持っているわ」
 亜沙美が盆にコップを三つ載せて戻ってきた。
「お待ちどおさま」
 亜沙美は麻里子の横に座って、二人にコップを手渡してから、自分も一つ取って、真っ先に口を付けた。それが友弘には予想外だったので、まじまじと亜沙美の顔を見つめてしまった。亜沙美の目が一瞬だけ友弘と合ったかと思うと、亜沙美は瞬間的に頬を赤らめて、コップを置いてしまった。
 隣に座る麻里子は、コップに口を付けたり離したりしていた。麦茶が通るたびに蠕動運動する麻里子の喉を見て、友弘はカップを両手で持ち直して、膝の上に置いた。麻里子は友弘が見ているのも気づかずに――あるいは、気づいてはいてもお構いなしに、無我夢中で飲み物を飲んでいた。
 目の前の道を、犬を連れたポニーテールの女性が通り過ぎるのを見た。前の家に住む、名前のわからない人だ。犬は舌を出して過呼吸気味だった。ジーンズにくっきりと、足のライン、ヒップのラインが浮き出ていた。隣に座る少女たちと体形を比較することは、どちらにとっても失礼だと思った。友弘は口を付けていないコップを自分の右手に置くと、蟻の行列に顔を近づけて、両膝の上で腕を組んだ。二人の話し声をBGMにしながら、友弘は目を閉じて、左足をゆるやかに上下させて陶然とした。
 麻里子に肩を叩かれて我に返った。友弘はとっさに足を組んで、羞恥をごまかすために右手でコップを取って麦茶を飲んだ。口を付けたまま、目で応答する。
「私、もう帰るわ」
 友弘はあっけにとられた。
「その目はどういう意味?」無言でいる友弘に、訝しげに麻里子は顔を近づけた。
 友弘は組んだ足の膝の上に空いている左手を載せて、そのままの姿勢で答える。「どうして? 用事でも思い出した? 宿題とか」
「まあそんなところ」言いながら、麻里子は立ち上がった。反射的に友弘も立とうとしたが、思い直して腰を下ろした。
 麻里子が一歩踏み出し、足元の蟻はあっけなく踏みつぶされた。ばいばいと言い合って、少女たちはあっさりと別れた。麻里子は友弘の目の前で、行儀の悪いことに、我が家に帰るのに塀を乗り越えて行ったのだった。友弘はその光景を初めて目にして、妹のあまりにもやんちゃなのに面食らって、はしたないと咎めようにも言葉が出なかった。
「こうして二人で並ぶのは久しぶりですね」と亜沙美は唐突に言った。
 真ん前を見たまま「そうだね」と答えたが、実のところ、思ってもみなかった顛末に友弘はひどく狼狽していて、そのときは声を出すだけでも精いっぱいだった。
「私お兄さんと二人でお話がしたかったの」と、亜沙美。
「そう」たった二文字をゆっくりとつぶやくと、友弘はやっと亜沙美の顔を見ることができた。さらに、一度深く息をして、冷静さを取り戻そうと努めた。「それは、光栄だね」
「もっと何かおっしゃってよ」そうして、こぶし一つ分友弘に体を寄せた。「私、本当にお話がしたいのです」
「なぜそんなことを言うのかな?」
「麻里子ちゃんがお家に帰っちゃって、つまらないのよ」
「呼び戻そうか?」亜沙美の真ん丸な目と、ほのかに上気した頬の色を見ながら友弘は訊いた。「どうせ宿題なんかしてないだろうし。あいつはね、いつも夜になってからノートを開くんだよ。僕の知る限りでは、例外なくそうするね」
 亜沙美はけらけらと笑った。「あら、私もですわ」それから、「でも、せっかくご本人がやる気になられたのですし、やっぱり邪魔しちゃ悪いわ」と殊勝な言葉を加えた。
 妹のことを「ご本人」と言ったことに、友弘は吹き出しそうになった。
「いいのです。たまにはお兄さんとお話したいわ」亜沙美は顔を伏せた。うなじがちらりと覗いて、友弘はどきっとする。
 何を話そうか迷った挙句、「学校の調子はどう?」と友弘は訊くことにした。
「相変わらずです」亜沙美は顔を上げ、友弘に顔を向ける。そして、穏やかに細めた目で友弘を見る。「お勉強って難しいわ」
「妹と同じクラスだよね。宿題があるみたいだけど、亜沙美ちゃんは大丈夫なの?」
「あら、私言いませんでしたっけ」亜沙美はわざとらしく目を丸くした。「麻里子ちゃんとおんなじ。夜になったらやるのよ」
「簡単なもの?」
「算数の問題集」亜沙美はくすくすと笑った。それがいかにもいたずらそうな感じで、同じ歳の妹との共通点だった。この年頃の少女の、その笑い方は、一人の例外なく可愛らしいと友弘は思っている。
「何ページ?」と、友弘は訊いた。
「三ページ」
「なんだ、すぐに終わるじゃないか。亜沙美ちゃんなら三十分くらいかな」正直な予想を言ってみた。「要するに、一ページあたり十分というわけ」
「そんなものかしら」
「亜沙美ちゃんは、算数は得意なんだろう」
「普通よ」
「麻里子なんかぜんぜん駄目だ」友弘は微笑んだ。「あいつ、いつもテストを隠してやがるんだ」
 麻里子の目が一瞬だけ、友弘の膝に落ちた。そこにある友弘の左手を見たらしかった。「あら、そうなのですか?」ちょっと身を引いて驚きを表現したあと、彼女はわざとらしく笑った。
友弘はもう一度、「麻里子を呼んでこようか?」と訊いた。亜沙美はすぐにかぶりを振った。
「いいじゃありませんか。こうしているの、とっても楽しいわ」
「僕もそう思うよ」友弘は初めてコップに口を付けた。それを見て亜沙美もまねしたように麦茶を飲んだ。友弘は亜沙美よりも先にコップを置き、彼女の喉の動きを見ようとしたが、止めた。彼は組んだ足を下ろした。
 そのとき、部屋に置きっぱなしのミルクが急に気になり始めた。もう氷は残らず溶けてしまっただろう。なぜか、いても立ってもいられない心地になった。もしかすると、麻里子が見つけて飲んでしまっただろうかと想像する。
「麻里子ちゃんは足が速いのよ」と亜沙美は言った。「昨日、体育の時間に駆けっこをしたのですけれど、麻里子ちゃん独走でしたわ」
「亜沙美ちゃんは?」
「わたくしは」その一人称は初めてだった。「運動オンチです。もうまったく駄目なの。ぜーんぜん」
 亜沙美は後ろ手をつき、体をのけ反らせ声を立てて陽気に笑った。友弘は目を丸くしてそれを見ていた。亜沙美はまるで酔ってでもいるかのようだった。筋張った色白の喉元が露わになっていた。
「亜沙美ちゃんは足が細いね」友弘は彼女の足に目をやる。
 亜沙美は笑うのを止め、足を揃えて置き直した。
「あら、そうですか?」
「それに色白だよね」
 亜沙美は急に艶めかしさの漂う表情をして、両足を縁台に載せると、体を友弘に向けて体育座りの格好になった。オレンジの隙間から白いものが覗いた。「そうですか?」内緒話でもするかのように彼女は囁いた。井戸の底を思わせる真っ黒な瞳で、上目遣いに友弘を見据える。暴力的な籠絡を求めるような表情に、友弘は思わず息をのんだ。
「私、日に焼けないのです。どんなに外で遊んでも」
「そうなんだ」
「麻里子ちゃんみたいな肌が健康的で羨ましいわ」
「女の子って色白に憧れるものじゃないの?」起伏のない胴体から伸びた、二本の下肢の間に視線を向けたまま、友弘は尋ねる。「もっとも、麻里子はその手のことは気にしていないようだけれど」
「いろいろよ。日に焼けにくい子なら、色黒の肌に憧れることだってあるわ」彼女は自分の膝に顎を乗せた。
 友弘は、自分の見つめる先に、隣の少女が気づいていないわけはないと思った。
「そろそろ帰らないと」と、友弘は言った。
「どうしてですか?」亜沙美は不安な表情を隠しもせず、むしろ見せつけるように、人形めいた顔で感情を表現した。体育座りを解き、膝立ちの格好になって、友弘に顔をぐっと近づける。帽子のつばとつばが触れた。「まだお日様はあんなに高いのに? もうお帰りになるの?」
「妹の宿題を見てやろうかなと思って。――絶対に遊んでるから、あいつ」
「わたくしにも宿題を教えてくださらない?」それから一秒ほど間をおいて、亜沙美はぽんと手を打った。「そうだ、麻里子ちゃんと、私と、三人でやりません? 私の家で」
「いや……」友弘はうまい返答が浮かばない。「たまには、その……」
「兄妹水入らず、ですか?」
「そうだね……」羽虫を追うように友弘は目を動かす。「うん、そんなところだね。これは……家族として大切なことだと思うんだ。誕生日のパーティと同じくらいに。――君だってそう思うだろう?」
「ええ、思います」亜沙美は姿勢を戻し、友弘と平行になって縁側から足を下ろした。「お兄さんの言うとおりです。どうも私、少し厚かましかったみたい」
「そんなことはないさ」横目で亜沙美を見るが、彼女は友弘を見ていなかった。「まあ、ちょっとくらい厚かましくても、子供はいいと思うけどね。もちろん亜沙美ちゃんはこれっぽっちも厚かましくないのだけれど、その――つまり、一般論として」
「そうですわね」聞いているかいないかわからない、気のない声だった。
「じゃあ、その」
「お帰りですね」亜沙美は靴をつっかけて立った。「お家までお送りいたしますわ」
 亜沙美は友弘の前に立って手を差し伸べた。一瞬躊躇したが、結局彼はその小さな手に自分の手を載せた。妹の手とは違って、汗はほとんどかいていなかった。

***

 部屋に戻り、キャップを脱ぐと、そのまま帽子掛けに引っ掛けた。妹の水色の帽子は元の場所に戻してあった。彼の忘れていたコップは、中身を残したまま、部屋を出る前と変わらず勉強机の上に置かれていた。氷はすべて溶けていて、滴り落ちた水滴がコップの足元に水溜りを作っている。友弘はそれを乱暴につかむと、残っていた中身を一息で飲み干した。
 慎重に、割らないように、握りしめたコップを机に戻す。友弘は急に力が抜けて、そのままベッドに座りこんだ。
「お兄ちゃん、帰ったの?」ドアの外から麻里子の声がした。「ただいまくらい言ったらどう?」
「ただいま」友弘はぞんざいに返事をした。
「おかえり」
 友弘はすぐに麻里子がドアを開けて入ってくるものと思っていたが、その気配はなかった。思っていたというより、彼は期待していたのだ。だからほんの少し、失望した。
 先刻まで話していた少女が時折見せた、人を獲って食いでもしそうな表情を思い出しては、友弘は身震いした。そうしていると、彼女と同じ年齢の、妹のことが気がかりで堪らなくなる。立ち上がり、自分の部屋のノブに手をかけるも、その手が震えていることを見て、ノブを離す。そしてまたベッドに戻り、縁に腰かける。そんなことを何度も繰り返していた。
 亜沙美がいつの間にか大人の女性に近付いている――もしかしたら、憧れて真似をしているだけかもしれない。だが、どちらにせよ、それは大変なことだ。彼女自身が気づいているかどうかはわからないが、たとえ自覚していたとしても、本人の想像している以上にそれは大変なことなのだ。二度と取り返しのつかないことなのだ。友弘は、自分の心が光の届かない絶望の淵に徐々に沈んでいく感覚を覚えたが、それでも、いまの彼にはそうして沈み込むがままにしておくほかはなかった。傍観することしか許されない自分の無力さと、時間というものの無情さ、そして、それに抗うことのできない――抗おうとすらしない、あらゆる影響を限りなく自然なままに受け入れようとする少女の魂の清純さを嘆いた。
 友弘は上半身をベッドに倒して、仰向けになると、天井を見るのが嫌で目を閉じた。明りが入ってくるのも鬱陶しくて前腕で光を遮ったが、彼の求める暗闇はどうしても得られなかった。濡れた瞼を隠すことしかできなかった。
「お兄ちゃん、入っていい?」遠くのほうから麻里子の声が聞こえた。幻聴かと思ったほど控えめ声だった。「お兄ちゃんの考えていることを当てるわ……。部屋に入っていいかどうか断わるなんて、珍しいと思ってる」その声は、耳元で囁くみたいな、かろうじて聞き取れる大きさだった。
「正解だよ」
 彼が答えるとすぐ、ドアをそっと開ける音がして、続いて心臓の鼓動と同じくらいの足音がして、誰かの体温が空気から伝わってきた。友弘は瞼が乾くまで、腕を顔に抑えつけていた。
「ねえ」何度目かの呼びかけで友弘が腕をどけると、麻里子の顔がすぐそばにあった。ベッドに乗っかって、彼女は友弘の顔を真上から覗きこむような格好だった。「どうしたの、亜沙美ちゃんと喋っていたはずなのに?」
「もういいんだ」ふとするとまた涙があふれそうだったので、声の出し方にも気を払わなければならなかった。「別れてきた。あの子も宿題が忙しいって言ってたから、そうした」
「ふうん」麻里子は友弘の隣に正座すると、寝転がる彼の髪を細い指先で、退屈そうにもてあそび始めた。
「麻里子、僕らと亜沙美ちゃんとはどれくらいの付き合いだったっけ」
「私が幼稚園のころから」麻里子は友弘の髪を指に巻きつけながら答えた。「亜沙美ちゃんちが、そのころ引っ越してきたってお母さんに聞いた。でも、そのことは絶対にお兄ちゃんのほうが詳しいわ。だって私はそのころまだ三歳だったから」
「そうだね」友弘は妹の顔を見る。彼女も友弘を見ている。「もちろん自分で知ってたさ。麻里子を試したんだ」彼は頭にくすぐったさを感じた。妹がつまむ髪の量を増やしたのだ。
 麻里子と話していると、いつまでも、何時間でも何日でも何年でもそうしてしまいそうな気がする。それが限りある貴重な時間の浪費だということはわかっていたが、わかっていてもなおこうして他愛ないお喋りだけで無為に時を過ごしてしまいそうだった。
 何の底意もなくただ純粋に言葉を返してくれるのは、友弘にとってもはや妹だけだった。少なくとも彼はそう感じていたし、彼にとっては自分がそう感じたという感覚だけしか信じるところはなかった。
「亜沙美ちゃんは、お兄ちゃんのことが好きなのよ」何の前触れもなく、麻里子は親友の秘密を暴露した。「ずっと好きだったんですって。それはもう数えきれないくらい昔から、ずうっとそうだったのよ」
「やっぱり」友弘はできるだけ何気ない調子で呟いた。「何となくね、そうじゃないかって思ってたんだ。さっきだって――」
「またウソ?」彼の言葉を遮って、麻里子は口を開いた。その声はいくらか冷たかった。「……お兄ちゃんはいつでも嘘ばっかり言うから」
「嘘じゃない」彼は主張したが、妹が自分の言葉を信じたとは思っていなかった。
 しばらく友弘と見つめ合ったあと、妹は「ねえ、こういうのって、ばらすべきじゃなかったのかな?」と当たり前のことを、まるで無邪気に訊いた。彼女の表情は、どことなく笑っているように友弘には見えた。
 思いがけない場面で笑うのも妹の特徴なのだろうと友弘は思う。昔、友弘が部屋で本を読んでいたときに、隣で突然忍び笑いを始めた妹の横顔が浮かんだ。麻里子がそのとき何を考えていたのかはずっと謎だった。彼にとって、妹はとにかく考えていることが見えない。妹の思考は、彼女が喋っているときでも、黙っているときでも、友弘はいまだに満足に推し量ることができない。この先もきっとそうだろうと、彼は、相互的な意思疎通の不可能を受け入れていた。
 質問に答えない友弘の言葉を待って、麻里子はお預けをくらった犬みたいにしばらく黙っていた。彼を見つめる妹の眼のあまりに丸いのに、友弘は思わず目を反らしそうになった。人形にはめられたガラス球と何ら変わらなく見えるそれは、その輝きのあまりの純粋さゆえ、ただ見つめられているだけで心の深くに仕舞い込んだ感情を無理やり引きずり出されるような恐怖を友弘に与えた。
「そう言えば、机にミルクが置きっぱなしだったわ」やがて彼女は諦めたように、話題を変えて話し始めた。
「それなら、さっき飲んだよ」
「薄くなってたのに、飲んだんだね」
「だってしょうがないよ、放って置いたんだから。僕が忘れてたんだ」友弘はまともに話そうと思い、上体を起こして妹に向けた。「そういうのを自己責任って言うらしいね」
「それも、向かいの家のお姉さんが言ってたんでしょ」妹は友弘の隣に位置をずらして、横から見上げるような姿勢になった。「雅代さんだっけ」
 友弘は一瞬言葉を失った。きょとんとする妹に向かって、興奮しながら言った。「そう、そう。雅代さん」
「雅代さんがどうしたの」
「いや……何でもないんだ、こっちの話」そうは言ったが、雅代の名前が頭から離れそうにない。「ところで雅代さんっていくつだっけ。僕は昔、よく遊んでもらっていたらしいけどさ」
「知らないわよ」麻里子は怒ったように答える。「自分で考えたほうがいいわ」
「昔のことはあまり覚えてないんだ」友弘は妹の機嫌を損ねたくなくて、言い訳をした。「だって、いまだって、僕らはほとんど昔と変わらないだろう?」
「あら、そんなことないわ。どうして?」妹は不思議そうに首をかしげた。「私だってお兄ちゃんだって、昔に比べたらずいぶん変わったと思うわ」
「いいや、そんなこと……」友弘は言葉に詰まる。「でも、変わったって、嬉しくないだろう。僕は、忘れたんだ。とにかく昔のことはね……。そりゃあ昔のほうが、いまよりも何もかもずっと良かったと思うさ。だけど、それとこれとは違うだろう? お前ももう大きいからわかると思うけどさ、僕の言うことが」
「わからないわ」麻里子はつっけんどんに言った。「それって矛盾してるわ」
「してないよ。――ともかく、意味もわからないくせして、矛盾なんて、そんな難しい言葉を使うのはやめろよ」
「意味はわかってる!」麻里子はいきなりどなり散らした。「昔なんて何も知らないくせに、何一つ覚えていないくせに、偉そうなことだけ言って!」
 そう言って麻里子は、自分のすぐ横にあった友弘の手に平手を振りおろした。爆ぜるような小さな音が鳴った。驚いて友弘が手を引っ込めると、今度は友弘の胸をこぶしで殴る。麻里子は唇を固く結び、瞼に涙をためて、何度も何度も友弘を殴った。
「何でそういうことをするんだ」友弘はわけがわからなかった。からくり人形みたいに同じ動作で胸板を殴りつける妹を前に、彼は困惑して、どう対応していいかわからない。「そういうところが子供だって言うんだ、麻里子は。ぜんぜん昔から変わってない……本当に……」
「どうしてそんなこと言うの!」暴れる麻里子を抑えようとすると、友弘の手に、雫が落ちた。「お兄ちゃんだって、すごく変わったのよ。違う人みたいになった。亜沙美ちゃんにはもっと、優しかったし……」麻里子はそこで一旦言葉を止めた。「私にはもっと冷たかった」彼を殴る動きもぴたりと止んだ。
 それきり黙りこんで、麻里子は肩を震わせていた。髪の毛を縛っているヘアゴムがいまにも解けそうなのを見つけて、友弘はそれを縛り直した。二度と解けないように念入りに、何重にも巻き付けた。そうしながら、妹の言うような記憶を必死に手繰ろうとしたが、何も得られなかった。自分が変わったのはこういった部分なのだろう、という結論に彼は至ったが、それすら何か違うような気がした。
 一度荒れ模様になってあとは泣くばかりの妹を見守りながら、友弘の口をついて出たのは、「麻里子は、早く大人になりたいかい?」という言葉だった。彼は言い終えるや否や、はっとして口をつぐんだ。ひどく恥かしいことを言った気がしたのだ。
 麻里子は、ううん、とゆっくり首を横に振った。それが本当か嘘かは友弘には量りかねたが、妹が自分を想いやってくれたことだけは理解できた。妹は顔を伏せたままだった。こちらに顔を向けてくれたらどんなに幸せだろう、と彼は思う。
「亜沙美ちゃんは、僕の知っている亜沙美ちゃんじゃなくて、どこか不安定で不自然で、作り物みたいだった……作りかけの粘土細工みたいに、とても不格好だった。僕は、麻里子には、いつまでも麻里子のままでいて欲しいんだ。そうでないと、きっと、麻里子のことを僕は忘れてしまうから……」
 麻里子は友弘の胸に頭を埋めて、「亜沙美ちゃんがお兄ちゃんのことを好きなのは、本当よ」と、まだ震える声で言った。「だから、亜沙美ちゃんのこと、忘れないであげてね」
 その約束に頷く自信は、友弘にはなかった。
 なぜ美しいものは美しいままでいられないのだろう。いてはいけないのだろう。
 亜沙美はすでに、少女だった亜沙美の面影を失いつつあり、同時に亜沙美にとっての友弘も、もう昔の友弘ではなくなりつつあることを、友弘は知ってしまった。亜沙美の変化は、彼女自身だけでなく、少女だった亜沙美の中に存在した友弘の死さえも意味している。それどころか、彼女の持っていた世界はすべて留まることなく変化を続け、いつかは完全に消えてなくなり、まったくの別物になってしまうのだ。同じ朝が、二度と来ないのと同じように。そして朝よりもずっとうつろいやすく不安定なものこそ、みながそれぞれに持っている世界なのである。ことに少女の世界は染まりやすく、穢れやすいものだ。
 しばらくして、嗚咽もすすり泣く声も聞こえなくなった。まだ目の赤い麻里子を部屋に送ると、友弘は自分のベッドに戻った。麻里子の残り香に顔をうずめながら、彼は来るべき睡魔に意識を委ねる。自分が目覚めたとき、妹はどんな顔をしているだろう。自分はどんな顔をして妹に会うだろう。未来を想像することは友弘にとって恐ろしいことでしかなかった。だが、目が覚めたら自分はもっと冷静でいて、恐怖も薄らいでいるはずだ。そういったことが自分の抱く恐怖の実態なのだろうと、意識の消え入ろうとするさなか、友弘は考えるのだった。