チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

花火

 部屋の外で夏子が呼ぶ。僕は、お気に入りのスムースジャズをかけて、ロッキングチェアに腰かけて旅情小説をめくっている。さして内容は頭に入ってこない。優雅な時間が好きだった。扇風機は止めている。夕立が長引いたおかげで、窓から入ってくる風だけで今夜は十分に涼しかった。何度目かの僕の名前が呼ばれ、声が大きくなっていることに気付いた。仕方なく立つ。本を置きコンポを止めて、タオルをかけた夏子の前に立った。額が濡れて光っていた。
「今日は涼しくてよかったね」
 夏子は目を向けたままだったが、返事をしなかった。僕は、ごめんねと謝った。
「まだ七時半だよ、花火は八時からだから、三十分も余裕がある」
「打ち上げ会場までは遠いのよ、もう遅すぎるくらいじゃない」と、怒ったように言った。
「車で行けばいいんだろう」
「車で行けるわけないでしょ」夏子は怒り出すのを我慢しているみたいだった。「車でどこに行くの。歩いて行くに決まってるでしょ、何言ってるの? ねえ今日は涼しいんじゃなかったの」
 夏子は腕時計をしていた。音楽を止めたので、針の音がかすかにする。僕の支度さえ整えばすぐに出かけられるようだった。僕は部屋に戻り、机の上から財布を取ってポケットに突っこんだ。財布は軽かった。お金はほとんど入っていないようだった。屋台が出ていても、たこ焼きを買うくらいがやっとだろう。夏子にせがまれたらどうしようかと心配になった。引き出しを開けて腕時計を探していると、夏子の腕に時計があったのを思い出して、引き出しを閉めた。
 夏子がシャツの襟首をつまんで風を入れていた。胸元の大きく開いたオレンジのTシャツは、単にサイズが大きいだけで、本人は涼しくて夏にはちょうどいいと言っていた。そのシャツが汗で濡れてしわをつくりながら、夏子の体に張り付いている。電灯の下だと下着がうっすら透けて見える。外はもう暗かったから何も言わなかった。
 台所に立ち寄って冷たい水を一杯飲んだ。夏子は冷蔵庫を開けて探し物をしている。居間をのぞくと両親がテレビを見ていて、隅では扇風機が回っていたが、僕の部屋よりもずっと暑かった。出かけるの、と訊かれて、花火を見に行くんだと答えた。いってらっしゃいと母が言う。居眠りをして聞こえていないと思った父が、ソファから手をひらひらさせた。夏子が背中をつついた。ドアを閉める。冷たいものが背中に当たる。夏子がアイスキャンデーを二つ持っていた。
 外は涼しかったが、ほとんど風はなかった。二人で歩きながら夏子の持っていたアイスを食べた。元々僕らの間には大した会話もないから、一緒にいると無言になる。口がふさがってちょうどよかった。一緒にいることだってそう多くはない。虫の声に混じって、遠くで犬の遠吠えがした。耳を澄ませば夏子の腕時計の音も聞こえそうだった。虫の声は大きくて、時計の針の音が聞こえるはずはないけれど、耳を近づければ聞こえるかもしれないと僕は思った。夏子がなるべくこちらを見ないようにして、歩いている。アイスの棒をくわえて、遠くに見える、街の明かりを見ていた。僕も同じ方角を眺めながら、アイスのなくなった棒を道の脇に吐き捨てた。草を踏むと夕方に降った雨の飛沫が足にかかる。小さな橋を渡るとき、夏子がふと立ち止まって、アイスの棒を川に投げ込んだ。落ちる途中で見えなくなって、何の音も聞こえなかった。
 夏子があと五分しかないと言って、突然走り出した。それほど時間が経ったようには思えなかった。ぼんやりと後姿を見ていると、夏子の姿がだんだん遠くなって、しだいに闇に消えてしまいそうになって、僕は慌てて後を追って走った。なぜか夏子は振り返ろうとしないで駆けていく。スピードを落とそうともしなかった。僕のほうが足は速いはずだったが、途中で諦めて立ち止まった。暑くてしんどかった。気づいたら息が上がっていて、これ以上走ったら倒れてしまいそうだった。歩いてゆっくり追いかけようと思ったが、夏子がどこから花火を見ようとしているのか、そういえば僕は知らなかった。
 橋の上だろうか、丘の上だろうか。街のほうだろうか。近いところだろうか、それとも遠いところだろうか。それにしても、せっかく一緒にきたのに、一人で走って行ってしまうなんて、あんまりだと思った。夏子がどこへ行きたかったのか知らないが、やっぱり車でくればよかった。
 やがて鳴りだした花火が、遠くで小さく咲いた。指先にも満たない小さな花火だったが、ここからでも十分に真ん丸に見えた。ずいぶん遠いようだった。たかだか三十分、人の足で歩いたからといって、進める距離は知れている。夏子はいまどこから花火を見ているのだろう。夏子は、花火が始まったことに気付いているだろうか。
 目の前の交差点に、かかしのように突っ立ってぼんやりと花火を眺めている夏子の姿があった。ひときわ大きな花火が上がって、すごおい、と声をあげる。夏子はこちらを向いて手を振った。ようやく追いついて、隣に立ち、ここからだとすごくよく見えるね、と僕は言った。でも、一人で歩いていた道から見たものと、それほど違わないと思っていた。夏子も、うんと答えて笑ったが、きっと僕と同じことを考えていたに違いない。
(おわり)