チクル妄想工房

ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

mixi三題噺お題作成ツールより「小指」「諸行無常」

「夜の死」

 いまこうして君の枕元にいるのが私だということが、不思議でならない。君はベッドの上で目を閉じている。私のことを畜生のように見るその大きな黒い目を、閉じている。こんな風に、君の前髪をそっと手ですくってみても、君は身じろぎ一つしない。前髪が瞼の上に落ちたことにも君は気づかない。布団の下に隠された君の白い体を、いまは布団一枚で覆われている、その体を、私が、ついさっきまで掴まえていたその蝋のような肉体を、布団をはがして露わにしてみたら、寒さで目を覚ますだろうか? どうしたら君は目を覚ますだろうか?
 足が出ている。蒸し暑い外気の中で、二つの塊が石膏のように転がっている。くるぶしから下だけが私の目に映っている。指が十本。ほんの少し甲高な君の足はまだ幼くて、成人の女性の足とは思えないほど小さく整っている。産毛が見える。爪の形がぼんやりと見える。ちゃんと十揃っている。
 台所からグラスを出して氷を入れ、ベッドライトの薄明かりを頼りに、君のウィスキーを注いで少しだけ口に含んだ。君の寝顔を見ながら私は喉に広がる懐かしい血の味を、愉しみ、ふと目を覚ますと私の手にはなみなみと注がれたウィスキーがあって、隣には君がケシの花のような笑顔で口元を、奇妙にゆがめ、その手には、私の手にあるものと揃いの、底の厚いグラスがあった。君はグラスを高く頭の上に掲げていた。私はナイトテーブルに片手をついた傾いた体勢のまま、君の、漆黒の瞳をじいっと見つめて
 窓から吹き込む夜風が涼しい。気がつくと私の手には空っぽのグラスがあって、ベッドの上には静かに目を閉じている君がいた。
 軽くなったグラスをナイトテーブルに置き、ガウンを羽織って、トイレに入って用を足すと、サンダル履きで部屋を出た。ドアに鍵をかけて、私は家の前の大通りに出た。片側三車線の道路を、眩いライトを乱暴に散らしながら車が走っている。何台も。私はガードフェンスを乗り越えて、向こう側に渡ろうと思った。向こう側にはショッピングモールが建っていて、昼間はたくさんの人でにぎわう。真ん中の広場に大きな噴水があり、池には鯉が泳いでいる。夏場は涼しい場所を求めて噴水広場に人が集まり、人いきれで余計に暑くなる。今日もきっと満員だっただろう。私たちも越してきたばかりのころは頻繁に足を運んだけれど、君は物足りなくなって、結局隣町のもう一回り大きなモールに行くようになった。そのために私が免許を取ったようなものだ。いま、車のキーはナイトテーブルの引き出しに入っている。君もよく知っている場所だ。お互い好きなときに使えるように、置き場所を決めておいたのだった。
 一人でショッピングモールに来たことは数えるほどしかなかった。引っ越してから君と初めて買い物をした、二度と君は来ないだろうこの店で、いっぺんゆっくりと買い物をしたいと思った。いまならきっと誰もいない。ショッピングモールの敷地に明かりはなく、街灯だけが街並みを照らしている。通りに一歩足を踏み出し、クラクションとライトが私の耳と目を突き刺したかと思うと、何か固いものに突き飛ばされた気がして
 君が飽きてしまったのは、手軽すぎたせいかもしれない。歩いて一分とかからないところに思い出の場所があるのが、耐えられなかった。そうやって遠くのものこそ綺麗だといって手に入れようとするのが君だった。お揃いのカップで乾杯したあの夜から何年が経ったかわからない。自分の愛情の薄れからくる欲求不満を私の振る舞いに転嫁し、疑心暗鬼になった君が握りしめた、鋭く輝くカップは君の寝顔の横にある。あの夜の私たちの痛みはもうすぐ消えてなくなるだろう。夫婦の営みのあと、君は突然狂ったようになって、私の腕を引っ掻き、噛みつき、厚底のグラスで私の指を一本叩き潰し、それ以来右手の小指は第二関節が曲がらなくなり爪は二度と生えてこなくなった。仕事に支障をきたした私が退職して、もうじき三年になる。貯金もそろそろ底をつくころだろう。
 私はセミと人の渦の中で、温かい地面に横たわって、私の顔をのぞき込むワイシャツの青年と、隣の奥さんを見ていた。挨拶をしようとしたが上手く口が動かず、せめて笑顔をつくろうと頑張ってみたが、顎に力が入らなかった。ちょっと奥さんは? ねえ、奥さんを呼ばないと! ああ、妻は寝ているんですよ。起こさないであげてくれますか?
 ショッピングモールの建つ前、あの土地には公園があったという。中央広場の噴水は公園に元々あったもので、壊さずに残しておいたらしい。いつも親切にしてくれる、隣の家の奥さんから聞いたことだ。地元の人たちの希望だったそうだ。風に乗ってしぶきが飛んでくるたびに、私は彼女の言葉を思い出した。
 噴水など残しても、公園がなくなってしまったことに変わりはない。気休めに過ぎない。悲しいことだけれど、どうしてだろうか、いまはそんなことを考えてしまう。何かを元のまま永遠に残しておくことなどできない。諸行無常なのだ。公園だって、そして私たちだってそうだった。風景だって、季節だって、命だってみるみる崩れ、簡単に、散って、壊れて消えて、また生まれて、壊れる。
 君の声が聞こえたような気がしたが、聞こえるはずのないことは私が一番よく知っていた。私の耳もそろそろ何も感じなくなる。青年の顔がだんだんと、黒に沈んで、街灯の明かりと月の明かりが混じり、暗い夜と明るい昼の絵の具が灰色に滲んで、私はグラスに太陽と月とを溶かして、君と乾杯した。乾杯。

(おわり)