チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

ゲイったらゲイだもん!

「先生、この問題がわからないんですけど」
「どれ」
「これです」
 僕は教科書を指差した。先生の視線が僕の指先に集中する。――もちろん本当は指先ではなく、それが指し示す印字に、だ。
「問9です、因数分解まではできたのですが」
「これか、難しいよね。これはね……」
 先生の顔が、僕の顔のすぐ隣にのぞいた。眼鏡の向こうでノートを見つめる切れ長の目を、僕は横目で盗み見る。鋭い視線が方程式を捕らえ、解きほぐしていく。
 先生の唇がかすかに震えている。口の中で何かが脹らんでは消え、漏れることなく飲み込まれている。辛うじて聞き取れたいつくかの数字が、偶然に僕の身長や体重を示しはしまいかと耳をそばだてた。空気の振動を、肌で敏感に感じながら。3、6、1、8……。先生の誕生日は……。
 先生のつまんだ鉛筆が、猫の尻尾のように紙を這い、やや弱めの筆圧で黒鉛を擦りつけてゆく。まるで呪文……先生の書く文字は、僕の目を捕らえて決して離さなかった。僕の瞳は操られるように鉛筆の先端を追う。追いかけて来い、と命令されているわけでもないのに。
「わかったかい」
「わかりました」
 案外簡単だった。どうして解けなかったのだろう。
 どうして解けたのだろう。
 そよ風のような溜息を残して先生が立ち去ると、僕はハンカチを取り出して額の汗をぬぐった。
 ……濡れている、濡れて……。

                               *

 蛍光灯のした、数学のノートを開く。先生が余白に刻んだ殴り書きの式をもう一度読み返し、先生の残影が立ち現れるまで反芻する。特に三行目は忘れてはいけない。これは大切な式だよ、これは大切な式だよ、先生はそう言っていた。僕の耳に染みついて離れようとしない、若干かすれたような星屑のテノールが。
 僕は先生をかける。先生かける先生。
 鋭く尖った鉛筆の先が、爪を立てるかのごとくノートを引っ掻く。罫線を何度も乗り越えながら、紙に残ったのは、放課後の教室で見た優しさに満ちた線とはまるで違った、荒々しい傷跡。
 それでも僕は止めなかった。何度も何度も繰り返しノートに刻んでいく。今日の僕の知識、技術、情熱。
 復習。そして、予習。
 明日は今日解けなかった問題が解けるように。先生に新しい問題を教えてもらうために。もうこれ以上何もないところまで先生と一緒に上り詰める……そんなことは不可能だとわかっていても……見えていたんだ、蜃気楼のような展望台が、先生の瞳の中に。
 ――新しい式を作ろう。
 先生にそう言って欲しかった。
 僕は、作りたかった。僕だけの式、先生だけの式……。

                               *

「この小説の作者は誰かわかるかな?」
「わかりません」
「授業で教えたはずだよ、思い出してごらん」
 そう言われても、思い出せないものは思い出せない。それほど有名な作家ではなかったのだろうか。
 考え込んで無言になる僕の目の前で、学生用のイスに後ろ前に座った格好で、先生はにっこりわらっている。
「降参かな?」
「すみません」
「気にすることはないよ」そう言って先生はおもむろに立ち上がった。その洗練された動作に、僕は思わず見とれてしまう。「物を忘れることは自然なことさ」
 たとえそれが誰かの名前でも。
 先生は手に持った教科書に目を落とした。
「百九十八ページ」
 あわてて自分の教科書をめくる。そして先生は朗読を始めた。
 聞き覚えがあった。あのときも、こうして僕は……先生の声に耳を澄ませていたんだ……。
 湿り気を帯びて艶やかに光る薄めの唇が、あらゆる音を次々に形作り、発せられた声は光をも歪めながら僕の耳に飛び込み、そして皮膚を粘膜を覆い尽くした。縛り付けられるような痛み、しかし恍惚。僕は言葉の渦に吸い込まれ、全身の自由を奪われていた。
 先生の頬に差した夕焼け色が、徐々に鮮やかさを増し、教室を侵食していく。世界を染め上げてゆく。
「思い出したかな」
 先生の眼鏡が夕陽を反射して、僕を見つめる先生の瞳が見えなかった。
「わかりました――」
 先生、僕を見て、先生……。


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ずいぶん更新してなかったので、穴埋めというか時間稼ぎというか、別所にうpしたやつですがここにもうp。
諸事情のためもうしばらく(たぶん結構しばらく)新作のうpは休止。
たまに気まぐれで古いの張るかも知れないけど、いいよね!