チクル妄想工房

ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

滲みた記憶

 コーイチのくたびれた革靴は泥に濡れ、リノリウムを叩くたびに耳障りな粒が、黒く、ただでさえ黒い廊下をさらに黒く塗りつける。土の粒子は、光沢のある滑面とは相いれない。存在それ自体が、色という色を己の所有物だと主張しているみたいに深い影を落としている。コーイチの革靴は北の窓から回り込んだ月光を弾こうとして、触れることすらできず、靴の泥は校庭の静寂からは想像もつかない粘土質を、執拗にコーイチの背後に残した。軽快なステップで嫌というほど踏みにじられたリノリウムが、鈍重な足跡に針のような歓喜の声を響かせる。いまこの時こそが存在意義だと、嘔吐のように囁く。
 昔コーイチの歩いた廊下は、コーイチの見る限りでは生徒の手によってワックスがかけられていたけれど、徐々にくっきりと、傷跡を浮かび上がらせながら伸びていくことができる。まだ失われていないかつての、轍のような歪みをなぞる。一歩ずつ、水面を歩くように揺れる微光をかき回しつつ。点滅する幻影が一面の帯に、縞のように映り、コーイチは目がくらむような恍惚を感じていた。
 コーイチの求めていた平穏、ワックスの廊下に残る泥靴の跡、湿った音、コーイチの覚束ない足取りでひとつひとつパイプで繋いでいく。
 廊下の両端に位置する屋上への階段が一直線に、徐々に乾いた空気へといざない、コーイチは透明な糸で引かれるように上っていた。真っ暗な階段を何度も転びそうになりながら、泥が落ちてだいぶ軽くなった靴を運んでいた。反面コーイチの足は疲労で重くなっていた。息が上がっていた。でも、階段は続いていた。
 コーイチの求めていた乾いた平穏。
 コーイチは屋上に繋がるアルミ作りのドアのノブをひねる、けれどアルミのドアは、軋むだけで開かない。鍵なんて、ない。はっとして息を止める。
 風の音がしている。ドアの前に立ち尽くすコーヘイの目はドアの向こうにあるはずの、あったはずの、あると思い込んでいた、あると願っていただけかもしれない平穏を見据えていた。静かに、哀れなほどに一途に求めていたもの。そうしてもう一度ドアノブを掴んだけれど。
 誰もいない屋上の前で、座り込んでみると、忘れていたことを思い出せそうな予感がした。
 下校前、下駄箱の端の最下段を、昔の誰かがきっと使ったのだろうと、綺麗に掃除されたそれを見てコーイチは思った。忘れられることのない不要物。音を立てることもなく、永遠に孤独のこない孤独な箱であり続ける。純粋な透明感、それが程よい苦痛と絶望をもたらすことをコーイチは知っていた。見えないものがいまにも這い出てきそうで目をそむけた。取り込まれたら死ぬだろう、と直感したからだ。
 そこに靴を置いてみることをコーイチがしなかった、思いもしなかったのは、屋上の扉を開けることができたからだ。別に、飛び出そうというわけではない。ライトグリーンのフェンスが張り巡らされていて、できない。完全に閉ざされた四角い部屋、でも一面の青空。
 もちろん、いまは、外は見えないけれど夜空だ、満開の恒星。もしかしたら、フェンスが倒れてくるのではないだろうか。轟音を期待しつつ階段を下りた。けれども音はしない、足音すら。寒そうな北風の音だって、コーイチの耳には森閑たる鼓動だった。