チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

魔法少女少女☆ほむほむほむ

 タイトルは誤解を狙ったものです、ということは僕は裏切ります。



 まどかマギカ良かったデスネ。見方によっては辛い終わりだったかもしれないけど、僕はあれはじみじみと「いい感じ〜」って囁き合うような結末だったと思います。
 さて僕はロリコンですが、それも「少女」を知りたかったからです、半分くらい本当のことを言えば。かの有名な『ロリータ』に劇的な影響をうけ、そこに希望を未来を見、以来文献を集めたり小学校の横を通ったり先生の娘さんに恋したりしてますが、いまだに一般的な変態の域を出ることは叶いません。
 さて「少女」。少女というと「純粋」「無垢」、そんな言葉が浮かぶかもしれない。実際、創作物の中で、それらの象徴として「少女」が用いられることもあるだろう。が、僕にとって少女という存在は、それらの性質も否定しないけれど、「無力さ」という側面もそれなりに重要な要素なんじゃないかと思われるんです。
 まどかマギカ魔法少女が願いの対価として魂、それ以降の人生のすべて、を支払わされてしまったことには、普通の少女を魔法少女に変身させるという物語進行上の目的のほかに、少女という存在が現実世界において差し出すべき対価を他に持たない無力な存在であるという含意もあったんじゃなかろうかと感じた。これはまどかマギカという物語世界における願いと対価のつり合い、という話じゃなくて、与えられるのではなく自分の力で何かを得ようとすれば自然自己犠牲を強いられる、丸裸同然ともいえる装備の乏しさ。
 まどマギ魔法少女は、制度のなかで永遠に苦しまざるを得ない少女、世界・社会=権力=魔法少女制度のあり方に干渉できない、できても打破することの叶わない、弱い存在としての少女でした(最後はまどかが成長を見せてくれましたけれど、魔法少女が権力に支配される存在として描かれていたからこそ、僕はあのラストはこの上なく納得がいっている反面、9話における杏子のさやかのための奮闘や10話のほむらのループによって方向づけられていた目的地に向かって、直通のバイパスを貫いたような都合の良さ、予定調和な感を拭えないわけです)。
『砂糖菓子の弾丸は打ち抜けない』もそう、実弾を持たない少女……桜庭さんは僕の少女観に大きな影響をもたらしたと思う。
 少女というのは無力なんです。少女の「無力さ」という一面、僕が少女を、アイテムとしてでなく「少女」を描くとしたら、「無力さ」を前面に出して描くのでしょう。
 少女が少女でなくなる瞬間、そこに人は光を見出すのだろうけれど、だから僕は違うことを想うんです。それよりも、まるで、檻の中で少女を飼うような情景、飼い主としての僕、私、俺、そして飼われる少女、支配され蹂躙され、それでも必死に無意味な抵抗を試みる非力な少女。僕はそんな少女こそ綺麗だと思うし、舐めて舐めつくしたいと思うんです。
 もっとも実際問題、男性からすれば「少女」は無力でも何でもなく、現実の存在としての少女はその魅力によって人生を崩落させかねない、小悪魔のような存在ですらあるわけでありますが……前科者は語る。


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まど☆マギ
 まどマギは最初、アンチ魔法少女ものだと思ってたけど、全く違った様相になりましたね。題材が「魔法少女」であることはそれ自体が目的じゃなかった、みたいなんですよねえ。女の子たちの存在意義にしてもそう、見事に、作品のために物語を作り上げたんだなって。物語をつくる、描く、という点では本当に頭が下がりました。
 前からわかってましたが改めて思ったことですが、僕に足りないのはここだったんですね。「物語」をつくること描くこと。書きたいことはあるんです、でも物語を僕はなかなか生み出せない。