チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

シュタゲ10話まで。ややこしいけど、おもしろいよね

原作は未プレイです。アニメは現在放送されてる10話まで見てきたけど、はっきりストーリー覚えてるわけじゃないし、実を言えば何が何だかわからない。岡部たちがタイムマシンの研究をしている理由もわからない。そこは、知的好奇心、でもいいけど(いまは「登場人物の個人的な目的」には重きが置かれていないんじゃないか?と思ってる)。得体の知れない研究をしていることを除けば、描かれているものは何の変哲もない彼らの日常であろう。まあこのアニメ、伏線爆発なストーリーかもしんないし、いまの時点で評価すんのは無理だろう。
ここまでの話で、何度かDメールによる過去改変をしている。主に、「誰かの願いを叶えるため」に。あれって「実験」という名目で行っているけれど、Dメールの送信が実験であるのは岡部にとってだけで、他のメンバーにしてみれば、実験が行われたことすら岡部の言葉以外からは知ることができない。Dメール送信実験の成功・失敗も岡部にしかわからないことだ。メールの内容は、一度目は「宝くじ」だったけれど、バタフライエフェクトによるDメールの影響力を知った岡部は、何話だったかDメールによる過去改変に怖気づいた様子も見せた。できるなら送信実験はもうしたくないことだろう。だが岡部は「誰かのために」Dメールを送るということをやり始めた(あるいは自分への言い訳だったのかもしれないけれど)。ともかく、岡部は実験の動機を手に入れて「誰かの願いを叶える」ためにDメールを送る。そして願いは実現する。けれど、それが「よかった」「わるかった」の判断は、岡部には下せない。「願いを叶えること」は、その人が幸せになるということを目的としているのだけれど、世界が書き換えられてしまうことによって、願いが叶った事実だけでなく自分が何を望んでいたのかすら知ることができないのならば、願いを叶えることに意味はあるのだろうか。願いがかなったとしても、それを忘れてしまったならば「今の自分は願いの叶った自分であるから幸福であるのだ」とは言えないだろう。ネガティブからポジティブへの移行が幸福を生み出すなら、ネガティブな状況すら意識できない「無」の領域において幸福は生まれ得るはずがない。ちょうど先日まで読んでいた『相対主義の極北』にも似たようなことが書いてあったような気がする……よくわからんけど。岡部は改変前と改変後の世界を観察できる唯一の視点で、世界を相対的たらしめる存在そのものであり、両世界を比較し「よかったのだ」「わるかったのだ」と言えるのは岡部だけである。が、肝心の願った当人の価値観は永遠に失われたままであるから、何を根拠にして「よかったのだ」「わるかったのだ」と言えばいいのか、定かではないということであります。
岡部はDメールで誰かの願いを叶えることによって、無意識に「理想の世界」を目指していることになる。ユートピアというやつかな。現実世界の不具合を無際限に修正し、より完璧に近い世界線を模索し続ける、無際限に。完璧は、それが何かと比較されるからこそ完璧になりうるのであって、別々の世界線をたどる、隔絶された世界同士が比較されることはないから完璧な世界というものは、実際としては成立できない。だが、シュタゲにおいてそれを超える存在が岡部なのである。誰にとっても望ましい世界がありえないとしても、少なくとも「岡部の理想郷」だけは作られる可能性があるのである。だが岡部がDメールを「自分以外の誰かのため」に送り続ける限りそれすらもかなわず、永遠に理想郷は訪れない、岡部が取り残されるほかには「何も起こらない」。


幸福というのは相対的にしか成立できないものであります。比較され得る(=同次元に並立する)二通り以上の状況設定があり、同時に、それらを比較できる(=それらより一段高次に位置し、それらを観察できる)視点がなければ、幸福という概念は生まれることはないのであります。幸福を認識するのはその視点でしかありえないのです。ということでした。


シュタインズゲートってそういう話じゃないんじゃない!……って言われても困る。