チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

三題噺「離陸、七夕、父」

 私に向かって妻の浴びせる罵倒の数もその時間も短くなり、今日は一言も口を利かぬまま妻は先月から始めたスーパーマーケットのパートタイムに出かけた。私たちの関係は同じ屋根の下にいながら、出会う以前の他人という関係に立ち戻りつつあり、そのことに関してただ残念に思う程度の感想しか抱けない私は、もしかして自分では気づかなかっただけで、仕事を失うずっと以前から妻に対しての愛情は薄れていたのかもしれない。仕事をなくしたばかりのひと月前の頃は、まさか新しい仕事が見つからないとは思いもしなかった。あの頃の私がそのまま今の私であったなら、妻や娘に土下座でも何でもしてのけただろうが、それが何の解決につながるわけでもないことも知っており、だからかどうかは知らないが、どうして娘だけでなく、自分で働くこともでき、私に対しては憎悪しか向けない妻までもを養わなければならないのか、今の私は馬鹿馬鹿しさしか覚えなかった。
 朝起きて、テレビを点けて、ニュースを見て、新聞を読んで、天気予報を見て、昼食の時間に冷めた朝食をとって、そのままソファに横になって、何の面白味もないバラエティ番組をぼんやりと眺めながら、喉が渇けば水を飲んで、時々トイレに行くくらいしか、今の私にはすることがなかった。そうして娘の帰りを待ち、娘と他愛のない話をしながら妻が帰ってきて食事の支度をしてくれるのを待つ。職安にも長らく足を向けていず、外に出ない日もたまにあった。蛍光灯の肉眼では捉えられない点滅が、私だけでなくすべての人間の限界を示してくれるようで、心地よかった。
 ふと外を見ると、起きたときから曇っていた空が沈んできたように重暗くなっていた。軋みを上げる腰を起こし、干しっぱなしの洗濯物を取り込んでソファに寝なおすと、果たしてさらさらと雨音が聞こえ始めた。やがてテレビのボリュームを上げなければ芸能人のセリフが聞き取れないほどの音になり、見たくもないテレビを消して足元に放り投げてあった読み止しの本を開いたが、数行も読まないうちにすぐに閉じてしまった。娘の帰りが遅いことに気付いた。
 骨の整った傘を探して縛ったまま持ち、以前愛用していた青地のチェック模様の傘を差して久しぶりに雨の中を歩いた。雨脚は止めどなく強くなり、私は犬の鳴き声すらかき消されるほどの轟音に打たれながら傘を叩く振動に身を任せていた。アスファルトを流れる川のような雨水に、足元から溶けてしまいたい、と思った。玄関の鍵をかけていないことに気付いたが、引き返すことはしなかった。自分が家の中にいる間に、外の景色はこれほど変わってしまったというのだろうか。何かを踏んだとしても、何かに躓いたとしても、足元はすべて水しかない。何か巨大なものに引っ掻かれた跡のように、住宅は水没していた。
 十メートルもない小さな橋を通りかかったとき、川の水が恐ろしいほど増水しているのを発見した。さらにかさが増して、氾濫するところが見たいと思った。私は欄干に身をもたせて川を見下ろした。普段からそれほど綺麗とは言えない川だが、雨の日は水ではないような土砂の色をしている。勢いを増した水流は川が形を変えてしまうほどに河道を蹂躙する。呑み込まれたら地の底深くに沈み込んでしまうのである……。私は欄干から身を遠ざけた。川に沿って背の高い草の茂った小道が伸びており、私は川の様子を間近で見るべく、橋の脇に回り込んで、草を踏みつけながら川上に向かって歩いた。
 降りられそうな石垣のある場所までくると、川の向こうに川に隣接して建っている古屋の軒下で、二つの影が動いたのを見た。雨に掻き乱されて視界がはっきりしないが、男女の二人組のようだった。声は聞こえない。目を凝らすと、二人とも学校の制服を着ていて、男が女に伸し掛かり、どうやら雨の中性交をしているらしかった。男の顔は判別できなかったが、しかし女の方は、よく見ると私の娘に違いなかった。
 私は古屋に向かって娘に持ってきた傘を力いっぱい放り投げ、傘は私の元まで微かに聞こえる音を立てて壁に衝突した。二人が身を竦ませたのがわかった。男の方が立ち上がり、急いでズボンを上げて、周りを見回し始めた。そしてじっと視線を送っていた私に気が付いた。男は足元で服を直している娘に私のいることを伝えて、娘は私を姿を認めると、雨の向こうで絵画のように静止し、本当に私が自分の父であるのかどうか確かめている風であった。そして男に耳打ちし、男は一目散に駆け出してすぐに見えなくなった。
 娘は落ちている傘を拾い、それを広げて雨の中に一歩出て、声の届かない向こう側から、一歩も動こうとしない私を見返していた。私は口の中で数言呟いただけで、娘に伝えなければならないことは何もなかった。立っている場所から数歩踏み出し、離陸する遊びを思いついた。


おわり