チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

ミルキーウェイでつかまえて

七夕小説です。

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「もしあなたがこの話を本当に聞きたいのであればね……聞きたいのであればね、四郎。四郎? まずあたしが、どこでナニしたとか、あたしの少女時代どんなだったのかとか、あたしを生み出してくれたあなた、四郎? あなたが何をしたからあたしが生まれたのかとか、そんな下らない思い出話をしたがるかもしれないけど、正直言ってあたし、あなたとそんなこと話したくないんだな、四郎。だってあたしはあたしだけだもん」
 四郎? 四郎?――ひとつ話題を話し終えるごとに、僕に確認するのが涼子の癖だった。その癖は自分の話をちゃんと聞いてもらえているのかという彼女の不安の表れだったのかもしれないし、それとも単に、僕がいつでも彼女の話を聞いていなかったせいかもしれない。おそらく僕は根本的に人の話を聞かない奴なのだ。
 僕は今年、商店街で開かれる七夕祭りに行かなかった。スケジュール帳の「七月七日」に何重にも丸を付けて、果たして行くのか行かないのか自分でも判りかねていたけれど、結局部屋にとどまった。不思議と迷うことはなかった。初めから、丸を付けるときから行かないことに決めていたのかと思うくらいに。扇風機の駆動音の隙間に、雨音が隠れている、雨が降っている。だが、すぐに止むだろう。網戸の隙間から、回っていない換気扇から忍び込んでくる羽虫も雨の日はやってこないからほっとしている。彼らの大群にはいつも対処に困っている。僕は扇風機の心地よい風を背中に受けながら、隣にいる誰かに絶え間なく話しかけている。「涼子、そこにいるのかい?」涼子は僕の言葉に返事もしないで、僕の都合と関係なく勝手にしゃべり続ける。そこにいるのだ。「これは催涙雨というのよ。知ってた、四郎? あいつらきっと別れるわね!」微かに語尾を上げた、疑問文を思わせる独特のイントネーション。彼女の言葉を聞くことができるのは僕だけのようだ。もっとも、この部屋には僕と彼女以外、誰もいない。
「ねえ四郎、あの二人は愛し合っているのよ。自分たちを織姫と彦星に重ね合わせているんだ。馬鹿だね、自惚れだね」
「そうだね」
 数メートルおきに並んだ街灯が道を歩いている二人組を導く。中心街から戻ってきた幾組ものカップルが、今度は住宅街を歩いている。静かな場所を求めて公園を目指す者がいる、あてもなく彷徨う者がいる。彼らのように近所に住み小さいころから付き合いのある関係を、幼馴染という。僕と涼子も同じだった。いまでも同じだ。僕らを結びつけるこの名称が変わることは永久にない。
 僕と涼子は家の前の通りに向けた指を、人差し指だけを伸ばした形のままゆっくり上昇させながら、曇り空を指差して雲の向こう側を想像した。
「でも、そうして結ばれていくんだね」
「そうだね。そうあって欲しいね」
「ねえ四郎? 聞いてる?」
「聞いているよ」
「ねえ四郎、あたしの話聞いてくれてるの? ねえねえねえねえねえねえどっち?」
 僕と涼子がそうだったように、二人が愛し合うことは二人の意思ではなく得体の知れない権威がさせる。そいつに睨まれたらおしまいで、逆らうことは許されない。「いまここでセックスするのだ! お前ら!」そんなふうに誰かに銃口を向けられて命令されているかのように、若い人たちはその時になると目を血走らせて一心不乱に腰を振る機械と化す。かつて、僕と涼子がそうだったように。今日笑顔で出かけて行った僕の友人たちは今頃、この世には自分たち二人しかいないとでも言い出しそうな顔で、どちらかの家で情事に励んでいる。僕は涼子と断続的に言葉を交わしつつ、雨音に思いを馳せる。そんなこともあるよね、と。
「あいつらは馬鹿だよね。自分たちが自由に愛し合ってると思ってる。本当に愚かだわ! そんなわけないのにねえ! 七夕の瘴気にあてられてるみたいなもんだって、気づかないのだから幸せよね。その点あたしたちは違うわね」
「そう、その点において僕らは違う」
 僕と涼子との関係に終止符を打ったのは、高校時代にあった出来事だった。七月七日、地元の七夕祭りに僕と涼子は出かけて、僕は涼子にフランクフルトとチョコバナナを食べさせて、合意のもとで家に連れ込んだ。ああついに涼子と結ばれる、と僕は舞い上がっていた。明かりを消した部屋の窓から見える天の川を指差して涼子が開こうとした口を、僕は自分の唇でふさいだ。数えきれないほどキスを交わした。「いつまでも涼子と一緒にいられますように」というのが、思い出すと失笑ものだが、そのとき僕の心にあった、たったひとつの願いだった。
「あのときね、あたし言おうとしたのよ。『あたしたちもうおしまいよね! 今日この日このときが最後のとき! 四郎があたしの膣にソレを突っ込んだときが最後のとき!』って。でも、四郎は聞かなかったよね、あたしの話」
「そうだね、僕は聞かなかった。君の話を」
「ねえ四郎? 返事してよ四郎。あなたはいつだってそう、いつだってあたしの意見に返事をしないで一人でぜんぶ勝手に決めて。結局四郎は最初からあたしの体だけが目当てだったんだってあたし、いまでもそう思ってるよ。馬鹿。死んじゃえ」
 それから確かに涼子の言うとおり、僕と涼子の関係はおかしくなった。涼子が予感していたこと――僕と涼子の関係は繋がってしまったときに終わるということ――は的中したのだった。十年以上の歳月は確かに堅固な構造物をつくったけれど、僕らはそれをたった一晩でただのオブジェにしてしまった。
 でも、価値のあるオブジェじゃないかな――?
「価値のあるオブジェ? あなたが見て楽しむ以外に何の価値があるの。……いいえ、あなたが見て楽しむことに何の価値があるというの? 見ないでよ、見ないで。見ないでったら! 死ね、死ね! 死んでしまえ!」
「ねえ……ねえ僕もう君をさ、涼子、じっとして、黙って」
 僕にとって涼子は幼馴染であり、肉体であると同時に概念であり、もはや恋人ではない。ただの記号として僕は涼子を蹂躙する。かたわらにティッシュ箱を寄せて、写真立てに僕は僕のすべてを解き放った。ミルキーウェイ! 僕のミルキーウェイ
 涼子は言った、ミルキーウェイをありがとうと。新しい涼子の口癖は「ミルキーウェイくれるって言ったのに」だ。僕が途中で自己嫌悪に苛まれ、行為を中断すると、涼子はその晩夢の中で僕を咎めるのだ。「馬鹿、遅漏! 不能! インポ野郎! 死ね! ミルキーウェイくれるって言ったのに! ミルキーウェイくれるって言ったのに!」
 飛沫の後始末をしていると、玄関のチャイムが鳴った。出てみると涼子だった。雨の中わざわざ傘を差して歩いてきたようで、服が少し濡れていた。涼子の背後から聞こえる音で雨脚が強まっていることを知った。
「こんばんは四郎くん。こんな時間にごめんね」
「いや大丈夫だけど。とりあえず、濡れるから入ったらどう」
「ううん」
 涼子は首を振った。
「ねえ四郎くん。今日さ七夕じゃない。街でお祭りやってるよね。これからさ、あたしと一緒に行かない……かな」
「どこに?」
「七夕祭り。バスでさ、まだ通ってるみたいだから。あんまりゆっくりはできないけど」
 四郎? ねえあたしの話聞いてる? 駄目よ、駄目! あなたは行かないに決まってる。 そんなことを涼子が耳元で大声で訴えている。殺気立った目をして、目の前の女を指差して何事かを、もはや、聞き取ることのできない何事かを叫んでいる。
 行くわけないだろ、涼子。お前を置いていくわけがないよ。僕は声を出さずに虚空に向かって答えた。そこに涼子がいるからだ。
「四郎くん? 一緒に行こうって言ってるんだけど、あたしの話聞いてくれてるのかなぁ。ねえ、四郎くん……」
 あの日「一緒に行こう」って言ったのは僕だったね、涼子。幼馴染の涼子。いまでも変わらずに僕のことを「四郎」って呼んでくれる涼子!
「ごめん。聞いてるよ、いつだって聞いてるよ君の話を。昔だってそうだった。聞いてたんだ、ちゃんと。答えたくなかっただけでさ」
「……いまも答えたくないってことかな?」
「さあ」
 僕がそう答えてから数十秒、涼子は身じろぎひとつせず、僕の目をまっすぐに見据えていた。まばたきも我慢して、僕の思考を見透かそうとするかのように涙ぐんだ目で。涼子は人の目を見ただけで何かがわかると思っている。残念ながら涼子には、僕の何も見ることはできない、もはや何一つとして。
 涼子が立ち去ると、僕は玄関の鍵を閉めて、部屋に戻り再び窓のそばに腰を下ろした。いっそう強くなった雨が、しぶきで窓枠を濡らしていたが、窓を締めず網戸のままにしておいた。耳元に雨の飛沫がときおり当たる。
 涼子が僕を忘れられないのと同じで、僕も涼子のことをいつも気にかけている。涼子が毎朝家を出る時間も知っているし、部活が終わって帰ってくる時間も知っている。ただ、会いたくなかったのだ。涼子が僕を忘れない限り、僕は自分から涼子と会うことはしないつもりだった。もしかすると涼子は勘付いているのだろう、僕が涼子ではない「涼子」に心を奪われていることに。というのは考え過ぎだろうか。
ミルキーウェイくれるって言ったのに!」
「ごめんな、いまミルキーウェイをあげるから。さあ口を開けて」
「ねえねえねえねえ四郎、あたしの話聞いてる? ミルキーウェイくれるって言ったじゃない、さっき。また止めるの? やろうって言っておきながらやめるんだ。四郎はいつだってそうだもんね。自分の都合で突然やろうって言ったり止めようって言ったり。四郎、ねえねえねえねえねえ聞いてるの?」
「涼子、じっとして、黙って、お願いだから」
 僕は涼子を黙らせるために、剥き出しの絶望から濃厚なミルキーウェイを発射した。天の川がテーブルの上を流れて写真立てと僕の間に一本の細い道をつくる。僕は――僕と涼子は、溢れる寸前まで増水した川を人差し指で辿って古くなった思い出に辿り着く。本当は僕らの関係をどうしたかったのだろう、何を望んで僕は涼子を家に連れ込んだのだろう。
 いまでさえ涼子は僕に好意を持ち続けているようだけれど、僕のような男をそういつまでも好きでいられるはずはない。僕が避け続けているうちに涼子は見限って別の男と寝るだろう。そのとき僕が正気を保っていられるかどうかわからないから、「涼子」が生まれて、ミルキーウェイを秘密の遊戯に書き換えた。だが、そんな安易な逃避が永遠に続くとは、僕も思っていない。こいつもいつかいなくなる。唯一の救いは、七夕の夜に恋人はセックスをするとか、幼馴染とセックスしたら関係が壊れるとか、そんなくだらない力によるものでなく、完全に僕の内部的な問題であるがために僕の意思のみによって決別できるということだ。涼子が自分から僕の元を去っていくことは絶対にない。僕が消去したいと望まない限り、涼子はいつまでも何度でも僕の種が続く限り僕のミルキーウェイを飲み続けてくれる。それに、もしも僕が涼子を必要としなくなったとき、僕は別れを悲しむことはない。僕が悲しまなくなったときこそが別れのときなのだから。涼子の言うとおり、僕はいつでも自分勝手な奴で、涼子の気持なんか考えもしないのだ。涼子には「ミルキーウェイくれるって言ったのに!」と言わせておけばいい、と思っている。雨は強まるばかりだけれど、問題ないんだ涼子、すぐに止むだろうから。

おわり