チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

死ぬのって怖い

 死ぬことに対して、その不安だけで頭がいっぱいになるくらい怖くなることがあります。他のことが考えられなくなるくらい。死への恐怖は中学生くらいで卒業できると思っていましたが、数年越しにぶり返したようです。とはいっても昔とは少し違うことを考えるようになりましたし、こうして下らないことを書き残すことも環境的に可能になりました。
 昔は僕も、よく言われてる(?)ように「死んだらどうなるかわからないから怖い」のだと思ってたんですね。間違ってはないと思いますよ。死んだらどうなるか確かにわかりません。まあ肉体が動かなくなって意識が消滅して、くらいは知ってます。だから来世とかあの世とかそういう考えが必要だったとか何とか聞いた。死への救済、というよりは死へ向かわざるをえない生への救済ですね。ということは、何が怖いのか、わからないわけじゃなくてわかってるんですね。でも、やっぱりわからない気がする。何がわからないかというと、消滅した意識はどうなるのか? 意識がない状態が永遠に続くというのはどういうことなのか? です。こうして「意識のない状態」について考えることができるというのも、僕に意識があるからで、死んだらこうしてものを考えることもできなくなるんです。眠っているときに眠っている自分を意識することができますか? 明晰夢はなしです。夢がどういうものか勉強不足で詳しくは知りませんが、一種の意識でしょうあれは。寝ているとき、我々には意識がない。意識がないから眠っていることを知らない。いつ眠ったか知らないし、自分がいつ目覚めるかも正確にはわからないし、「よし、今から私は目覚める!」と思って目覚めるわけでもない。それが睡眠。死ぬということはそんな状態が永遠に続くということ。永遠の眠り、とは比喩表現じゃないかも知れません、案外、本質を示しているのかも。死者本人からしてみればまさに「永遠の眠り」なのだと。
 これでおしまいにすることもできますが、もう一歩進みます。僕はいま生きてます。文章書いてますから間違いなく生きてる。僕はどうやって生きていることを知るのか? ものを考えて、体を動かしているからですね。死の否定です。逆に、死は生の否定です。どちらが先にあったか知りませんし、答えがあるのかどうかもわかりません。死は生があるから死なのだし、生は死があるから生なのです。生死だけじゃなくて何でもそうですね、一方がもう一方の否定になるような二項対立は、片方の概念が欠ければその区別自体がなくなる。だから生と死はそれらが明確に区別されるべき概念として扱われる限り、隣り合って求めあっている。我々はほんの小さいころ、自分が死ぬなんて考えたことはなかったでしょう。でもいつか死を目の当たりにします。死を知ることは生を知ることです。生の先には死があることを知ることが死を知ることです。そして自分と他者が同じものである事を知ります。そこで、自分自身にも生死の可能性があることを知ってしまう。生から死へ向かう自動的な時間性を発見してしまう、死を客観的なものとしてではなく主観的なものとして取り込もうとして死を意識する。そうすると決して経験的に理解できない死というものを、恐れなければいけなくなる。
 生というのは時間的な概念です。時間というつねに流動する何かの中で生という概念はうまれます。生きている限り過去があるし、今があるし、未来も可能性としてある。死というのは時間が止まることです。死ねば、その瞬間が意識の終極となる。死んだ瞬間の「今」が今として経験され、直後過ぎ去ってしまい、最後の「今」も過去となる。そうして死者の「今」は消えます。死者は主体的な「今」をもてない。だから死というのは「今の喪失」だといえます。死とは「今の喪失」である、というのが今の僕の結論。さらに、死んだら、自己の経験可能性としての未来が消滅します。周囲の時間は決して止まらないけれど、死のうとする者の時間は死の瞬間に終わりを迎えるのです。ただし、すでに過ぎ去ってしまって、変えようのない事実となった過去は残る。「今」のなくなった死者には過去だけが残ります。それすらも認識できなくなった本人にとって、過去があることが意味を成すとは思えないのですけれど。死者には時間の止まった意識の暗闇しかない。
 今こうやって生きてるのは幸せなことです。生活が恵まれてるとかそういうレベルじゃなくて、呼吸してて心臓が動いてて、ものを考える「今」を持てることに強烈な安堵感を覚えます。死んでいないことに安心します。でも眠ることは怖くない。死と同じ意識のない状態である睡眠に何の恐怖もなく向かっていく、それどころか自分から求めることができるのは、数時間したら寝覚めるであろうことを疑っていないから。我々が自分が眠っていたと知るのはいつも目覚めたときで、ならば死んだと知るのは次に目を覚ましたときで、それは永遠に来ない。死は、生きている人間のものです。主体客体どちらとして死を眺めるとしてもそうです。
 以上、ろくに読み返してません。