チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

作者、作品世界

 先日僕と某氏でmixiで文学談議みたいなことをし、そこで某氏から大変興味深い意見を頂いたので、一部始終を転載し、解説します。氏の文章に関する解説は、すべて僕の勝手な解釈です。

 まずは僕のボイスと、そのコメント。




ガムベース(以下G):物語を語るのは外部に源をもつ力であって、ふつうは外在する力であるのだけれど、それが内在しているときに物語はあたかも自身により解体され生成されるように見える……うううのだろうか

G:語られる物語にとって外部的な力であれば、それが何でありどこに存在していてもその物語を語りうる、とまではいえないか。

某氏:簡単な言葉で頼む

G:(物理的に文字として綴るというレベルではなくて)ある物語をその物語たらしめる権威はいつも作者に由来するはずで、物語の中に「作者」としての役割をもつなにものかが何らかの形で取り入れられているとき、物語は、読者の想定する「作者」ではない、物語内部に存在するなにかによって構築されてみえる

G:でもその物語を構築する「力」というのは、あらかじめ現実世界の作者によって、アイテムとして物語にくみこまれた物語内部の存在でしかない。が、それの持つ権威は、作者という物語にとって外的な存在によって与えられた、見せかけの権威なわけです。でもってその根源は当然、作者っていう外的存在にあるんですね。

G:物語の根拠はいつも外部に求められるんです。じゃあさっきのことを逆に考えると、外部から物語に何らかの力を加えうるものは、それがどのようなものであれ「作者」の役割を担うことができるんじゃないかって。

G:そこで、さらに作中作みたいな入れ子構造を用意すると、とんでもないことになる。そんなような構造になってる、物語が複数の内在的な力によって自己解体・自己生成しながら自身を語りさらに外部から語られる、っていうゲームをまえにやったんだ。それで衝撃を受けた。

G:タイトルは伏せるけど、とあるアニメでは物語世界の登場人物の声を別の登場人物にとって外的な力として用いてその登場人物=物語(=その物語の作者)を語り直し(=再構築し)、そうすることで物語世界全体をも語り直す、っていう方法をとっていた。

G:「セカイ系」てのももしかしたら同じだと思う、<主人公周辺のごく狭い関係性→(×社会)→セカイ>てのは確かに主人公の世界認識とか自意識過剰さの問題でもあるだろうけど、すっ飛ばした社会の代替品として主人公がセカイへと関わる媒介として日常の秩序から切り離された別の秩序があって、それが外部的な力にあたると

G:宇宙人が地球に攻め込んできたらやばいのも地球における秩序=内部に起源をもつ力からはずれた彼ら独自の秩序=外部に起源をもつ力をもって侵攻してくるから。まとめますと、物語を変形・変質(破壊・創造/解体・生成)させる力=外部に起源をもつ力=内部のルールから外れた力で、それを持つものを作者と呼ぶのだと考えた

G:ちなみに、現実に小説なり戯曲なりを書いた誰かである役割としての「作者」と、物語をつくるもの、つくり得るものとしての「作者」は別のものです

G:違う、だめです。「語り手」と「作者」がごっちゃになってる。まだ完全に理解してない考えがまとまってない。語り手も状況によっては作者になり得る、と、単にそれだけの話かもしれないし、そうじゃないかもしれない……




以下、某氏のメールでの返答(原文まま、改行位置のみ調整)

世界は三つ存在すると私は考える。
①作者の考えた世界
②受け取り手が再構築した世界(複数個存在)
③紙の上の文字

[著者]によって[作品]が文章化ないし映像化して公開された時、脳内の話であれば、その[著者]はもう既にその[作品]に対してただの独りの観測者と同じものになるのではないかとふと考た。
①は②と同列になるという解釈だ。
ただその[著者]の紡いだ[イメージ・秩序]が世界(文章)の元であるというだけで、作品の[受け取り手]の中に造られた[イメージ・秩序]とは全く違うモノでありましょう。
当然作者の鶴の一声があれば、普通ならば[受け取り手]は新しく自分の中に出来た世界に新たな[イメージ・秩序]を組み込むでしょう。
しかしその[著者]の持つ世界(文章)への[イメージ・秩序]①は、例え熱狂的な信者のソレ②であっても全く違う。
[著者]の新たな展開を嫌う[受け取り手]や、
そもそも関係ない新たな[出来事]へと変えたり、加えたりする[受け取り手]さえいる。
余談だが、この[受け取り手]がいわゆるスピンオフ等の作品の[著者]であろう。
よくある話だけど、きっと受け取り手の数だけ[世界]と[イメージ・秩序]②が存在するのだろう。

んじゃその世界…主人公達を動かす、縛るその権威とはどこにある?
新たな[秩序]を外的に、そして"公式"に加えられる[著者]か?
その文章から新たに世界を自分の中に作り上げた[作者]…[受け取り手]の全員だろうか?
はたまた自分の中に造られた世界を外に出し、既存の"公式"の認識すら変化させる[受け取り手]兼、[作者]兼、[著者]、スピンオフ作者だろうか?
どの者も、文中に出て来る人物、背景、世界へのイメージ①②に干渉できるという点において、全員がその世界の[作者]であり、その"人々の中の世界"の[権威]なんだろう。
ただし、ここに挙げた全員が、イコール"物語"の[権威]とは思えない。
私が思うに、紙の上の"文字"③…それこそが[真の権威]ではないか?
もっと言えば、その"文字"で形作られた登場人物、背景、世界こそが全ての元にあるのではないかと思う
だって、どれだけ擦り減って、曲げられれて、いくら仲介されたとしても、その[文字]がミトコンドリアイヴである事に"変化"がない。
だからこそ、[現実世界]に自ら妄想した[世界]を[文字]として示した…"作者"と、そこから派生した受け取り手、スピンオフ作者とは全く違うのではないだろうか?
言葉のとらえかたもあるけど、一概に[著者]=[世界の作者]=[受け取り手]とは言えないと感じる。
妄想した世界、それを書き下した世界を…他人の受容体にも認識できるモノへと昇華した"モノカキ"そして残された"モジ"③
この二つが"物語"に"命"="力"を与えているモノではないのかなーとも思うよ。
もしかしたら"コトバ"の力…というやつはトンデモナイのかもねw
まとまらないのだけど
世界を覗き込み、都合のいいように脳内で変化させ、ゲームマスターを気取っている我等こそ…実はその物語に支配されてるんじゃないかな…なんて
きっと物語の人物って、生きてるんじゃないねぇ蟬
さて、俺は何の話をしていたんだっけ
(・ω・)?




 以上が僕のボイスとそのコメント、それに対する某氏のメールでの返答です。

 まずは僕の意見を、流れに沿ってもう一度まとめておきます。

>ガムベース(以下Gと表記):物語を語るのは外部に源をもつ力であって、ふつうは外在する力であるのだけれど、それが内在しているときに物語はあたかも自身により解体され生成されるように見える……うううのだろうか

>G:語られる物語にとって外部的な力であれば、それが何でありどこに存在していてもその物語を語りうる、とまではいえないか。

 「外部」というのは、物語世界の外にある、物語を物語として批判的にとらえることのできる視点のある場所のことです。物語は一定の秩序に従って、登場人物たちの自覚しないままに進展していきます。その中で、物語を物語として、つまりそれが「誰かに語られているもの(必ずしもその人物にとっての「フィクション」を意味しない)」であることを自覚する視点が「外部的」な視点です。その視点が物語の中にあるか外にあるか、というのが「内在」「外在」ということです。「外部的視点」の存在を浮き彫りにしたものがメタフィクションです。

>G:(物理的に文字として綴るというレベルではなくて)ある物語をその物語たらしめる権威はいつも作者に由来するはずで、物語の中に「作者」としての役割をもつなにものかが何らかの形で取り入れられているとき、物語は、読者の想定する「作者」ではない、物語内部に存在するなにかによって構築されてみえる

「作者」とは「物語を作る者」、「物語を解体・構築する者」くらいの意味で使っています。物語をその物語たらしめる「権威」というのは、物語を「導く働き」のようなものです。登場人物の言動やストーリーをある方向に誘導する「力」です。これを行使しうるのが「作者」であるということ。読者の想定する「作者」というのは、その物語の「書き手」のことです。

>G:でもその物語を構築する「力」というのは、あらかじめ現実世界の作者によって、アイテムとして物語にくみこまれた物語内部の存在でしかない。が、それの持つ権威は、作者という物語にとって外的な存在によって与えられた、見せかけの権威なわけです。でもってその根源は当然、作者っていう外的存在にあるんですね。

 紛らわしい書き方ですが、要するに「作中作」の「作者」は登場人物であることもある、くらいに思ってもらえれば。例えば、場合によっては「作中作」の登場人物の行動によって「物語全体」の行方が左右されることもある、など、「作者」が書いたという事実を超えて、物語内部に仕組まれた「力」によって物語が動きだすように見えることもある。しかしそれは「見せかけの権威」であって、結局すべての「権威」は、「物語全体」にとって外部的な存在である「作者」=「著者」のもとから生じたものである。

>G:物語の根拠はいつも外部に求められるんです。じゃあさっきのことを逆に考えると、外部から物語に何らかの力を加えうるものは、それがどのようなものであれ「作者」の役割を担うことができるんじゃないかって。

 ひとつ前のコメントで一度否定したことを肯定している、矛盾した文章です。が、ここがポイントだったりします……。
 ある「物語」にとって「外部的な存在」は、その「物語」を解体・構築する「力」を行使しうる可能性があるゆえに、その「物語」にとっての「作者」になりうる。

>G:宇宙人が地球に攻め込んできたらやばいのも地球における秩序=内部に起源をもつ力からはずれた彼ら独自の秩序=外部に起源をもつ力をもって侵攻してくるから。まとめますと、物語を変形・変質(破壊・創造/解体・生成)させる力=外部に起源をもつ力=内部のルールから外れた力で、それを持つものを作者と呼ぶのだと考えた

「物語世界」の秩序とは異なった秩序に従って行動・思考する=物語内の秩序から逸脱して行動・思考できる、ということが「物語」を「物語」として見ることができるための条件であり、そういった視点を持った主体こそ「外部的な存在」である。「外部的な存在」は「物語」を解体・構築する「力」を持っており、ゆえに「作者」なのである。




 では次に、氏の文章を読解、解説しつつ、それに対する僕の見解を述べていきます。

>[著者]によって[作品]が文章化ないし映像化して公開された時、脳内の話であれば、その[著者]はもう既にその[作品]に対してただの独りの観測者と同じものになるのではないかとふと考た。
>①は②と同列になるという解釈だ。
>ただその[著者]の紡いだ[イメージ・秩序]が世界(文章)の元であるというだけで、作品の[受け取り手]の中に造られた[イメージ・秩序]とは全く違うモノでありましょう。
>当然作者の鶴の一声があれば、普通ならば[受け取り手]は新しく自分の中に出来た世界に新たな[イメージ・秩序]を組み込むでしょう。
>しかしその[著者]の持つ世界(文章)への[イメージ・秩序]①は、例え熱狂的な信者のソレ②であっても全く違う。
>[著者]の新たな展開を嫌う[受け取り手]や、
>そもそも関係ない新たな[出来事]へと変えたり、加えたりする[受け取り手]さえいる。
>余談だが、この[受け取り手]がいわゆるスピンオフ等の作品の[著者]であろう。
>よくある話だけど、きっと受け取り手の数だけ[世界]と[イメージ・秩序]②が存在するのだろう。

 最初の段落のひとつめの「作品」という言葉は、「作品世界」または「物語」くらいの解釈でいいでしょうか?
 某氏の考え方はたぶん、「著者の思い描く作品世界」と「著者の想像を超えて延々と広がる作品世界」とを区別すること。これが氏の、すべての意見の根拠としてある。氏は「著者」や「受け取り手」がそれぞれ思い描く「作品世界のイメージ」は、それが誰のものであるかを問わず、すべて「無限に広がる作品世界全体」の中に取り込まれる、と考えているのだと思う。
 だから、次のような意見が出てくる。「著者の想像する作品世界も、無限に広がる作品世界の『一部分』あるいは『ひとつの可能性としての形態』であるという点に限っていえば、著者以外の受け取り手の想像する作品世界となんら区別される必然性はない」。
 こう理解していいでしょうか。

>私が思うに、紙の上の"文字"③…それこそが[真の権威]ではないか?
>もっと言えば、その"文字"で形作られた登場人物、背景、世界こそが全ての元にあるのではないかと思う
>だって、どれだけ擦り減って、曲げられれて、いくら仲介されたとしても、その[文字]がミトコンドリアイヴである事に"変化"がない。
>だからこそ、[現実世界]に自ら妄想した[世界]を[文字]として示した…"作者"と、そこから派生した受け取り手、スピンオフ作者とは全く違うのではないだろうか?

「最初の作者」の「書いたモノ」、「文字」として書かれた一次創作物、それこそが真の権威である。「文字」が起源である、という意見の根拠は、それが「作品世界の『原典』である」という点にある。
 世界の「受け取り手」は、「一次創作を超えて広がる作品世界」を「モノとしての一次創作」=「文字」から読み取る。その世界観を元にして「作品世界」を、彼ら独自の形において想像する。さらには「『違ったあり方』としての作品世界の投影物」としての二次創作物を作る。「著者」によって書かれた「文字」は「作品世界の記録」であり、あまたの「作者」が思い描く作品世界の源泉、すべての「作者」によって共有される引用元となる。

>言葉のとらえかたもあるけど、一概に[著者]=[世界の作者]=[受け取り手]とは言えないと感じる。
>妄想した世界、それを書き下した世界を…他人の受容体にも認識できるモノへと昇華した"モノカキ"そして残された"モジ"③
>この二つが"物語"に"命"="力"を与えているモノではないのかなーとも思うよ。

 と、氏はまとめられています。




 物語が生成される、あるいはされつつあることに関する氏の考えは、僕の理解によってまとめますと、僕の言葉に置き換えさせてもらいますが……
 まず「最初の作者」(=のちの「著者」)の脳内に「作品世界のイメージ」があって、それが「著者」(=「最初の作者」)によって「モノとしての作品」=「文字」に起こされる。つまり作者の脳内の「作品世界のイメージ」をもとに、「文字」(読み取られるもの)として「一次創作物」=「作品世界の記録」を作るということです。
 その「作品世界の記録」から「受け取り手」が「作品世界」を読み取り、自らのものとして取り込んでイメージを形作る。彼ら自身の作品世界のイメージに従って、二次創作者となる者は「二次創作物」を「一次創作物とは違った作品世界のありかた」として綴る。
 氏は、「(受け取り手を含めた)作者」によって作られるのは、「作品そのもの」ではなく「作品世界」である、と書いています。「一次創作物の著者」の役割は、のちのすべての「作者」にとっての引用元となる「原典」を作ること。

 氏の言葉や考え方を借りると、いまいちはっきりしなかった僕の意見が、ある程度明確な言葉としてまとまりを成してきます。
「物語を語り直す」ということが何を指すのかといいますと、「無限に広がる物語世界」の同一性を保持するために必要な要素の束を不足なく有したまま、「別の可能性としての世界」を、その要素の束に含まれない補助的な要素を添加・除去しながら再構築することです。「自己解体・構築」のためには、物語世界を綴ってくれる「作者」を、物語内部に取り入れることになります。それも、「語られつつある状態の物語」に放り込むようにして、語られる「流れ」の中で、「内在する外部的な力」によって自動的に「解体・構築」させるのです。
 氏は「作品世界」の根源を「原典としての一次創作物」に求めながらも、「読者の思い描く世界」に限るならば「読者」すら世界を創造する「作者」となると言いました。僕の言葉でいえば「力」を有するのだということです。氏は、明確に言葉にしてはいませんが、「物語世界」は「読者の間において解体・構築を絶えず繰り返している」と考えていると思われます。「物語」をそれのみで完結させようとしている僕の考えよりも一歩先にあります。僕は「自分自身によって生成され、自己解体・構築を繰り返している状態」を、書くうえでのひとつのアイデアとして、物語内部において「疑似的に再現」しようと考えていたにすぎません。だから考えが作品世界から外へ広がらなかったのです。

 最後に氏の考えに対する、僕の意見を述べましょう。氏は「物語世界の原典」は「一次創作物」であると書いていますが、現在においては、二次創作物からの設定の逆輸入、という現象が起きています。らしいです。また、それに近い現象、二次創作物の設定を参照・引用した二次創作、というのもあります、こちらは顕著ですね。キャラに勝手に性格付けをしたものが波及して定着するなど。可憐の腹黒なんて妄想です。
 二次創作物が引用元となるという現象。パロディだったものが、一次創作物と同等の力を持ってしまう。初音ミクのネギも非公式ですがすっかり定着しました。通常ならば作品世界の拡大は「最初の作者」による一次創作物の発表によって起こりますが、二次創作によっても同じことが起こる。「受け取り手」の個人的な世界が他の「受け取り手」にも受け入れられる。作品世界は「原典」すらも乗り越えて拡大していく。二次創作とはそういうものになっているのではないでしょうか。「最初の作者」の作品世界のイメージと「それ以降の作者」=「受け取り手」の作品世界のイメージの価値だけでなく、「一次創作物」=「原典」と「二次創作物」の価値もあまりかわらないものになってきているのかもしれない。