チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

自由に読めーっていう考え方を、1コ下の記事では2コ下の記事をふまえて僕なりに考え直してみたわけだが、もちろんこんなところがゴールになるはずはなし。元々テクスト論とやらをガンガンに支持してるわけじゃないしね。「読まれ方」の一面としては認めざるをえないと思ってるけれど、それだけです。と念のため書いておきます。
最近は自分がどういうスタンスで、この手の思想、小説その他のメディア、物語、他もろもろの事に臨んでいったらいいのかわかんなくなってきてたりする。
最終的なところでは「作品を書く」行為が目的として想定されてるんだろうけど、それは僕の考える作品の「良さ」に基づくことになるわけだ。こういう作品は「良く」てこういう作品は「良くない」という基準が僕の中にあって、まあそれは作品そのものの出来についてであったり、挑戦的だとか革新的だとかどちらかというと作る姿勢によるものだったりして、それらは別個に評価されるもので、全体的にみたらすごくあいまいなものなんだけど。
でも創作だけじゃなくて何に関してにせよ、「良い」「悪い(良くない)」なんて主観で決めるしかないのよ。てのは個人レベルの問題だけじゃなくて、マイノリティが10年後にはマジョリティになってたりその逆だったり、ある地域で一般的な価値観が他の地域ではまったく理解不能だったり。だから、僕の自身の納得できる「良さ」ってのを結局のところ目指さなきゃならなくて。それがスタンスってやつに繋がるんだろう。
しかしその「良さ」を考えるためにはやっぱり僕以外の人の考え方を参考にしないといけなくて、創作にしてみれば、各個人の意見とか、それよりもっと大きな世の中の趨勢とか(ここ見識薄い)、歴史的観点から見た現代の位置づけとか(ここほぼ知見ゼロ)、そういうのを見ないと自己満足で終わってしまって価値を得られない(自分の表現欲を満たすっていう一時的な慰めのためだけに創作したいわけじゃないし。まあ、こういう記事は自慰でしかないけど)。それは「良さ」とはいえないんじゃないかな、と思う。だからといって単に「うける」作品っていうと、それは僕にとっては、他者の創作物を見たうえで言わせてもらうと、作品からうかがえる「創作の姿勢」によっては「必ずしも良いとは限らない」わけで。もちろん多くは世間的に「良い」とされているのだろうけど。
というふうにどこまでいっても循環してしまう。突き詰めて考えなきゃいけなくて、それなのに、とにかく実際に行動しなきゃいけない。そういうのって自分で自分のあり方を際限なく否定し続けることみたいな気もしますね。でも、そういう面倒くさいのから逃れるためにニヒリズムに陥っちゃったりすんのはダメなのよね。