チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

文脈と物語

 文脈というものを取り去ってしまっても物語は成立するのではないか、とそんな気がします。

 文脈という言葉は日常的に使われますけれども、その意味は僕も完璧に理解しているわけではなくて、厳密に説明するのがすごく難しいんですけれど、おおざっぱにいえば話題から話題への繋がりのことです。文脈という言葉が使われるときは、今現在の話題がどんな文脈に連なっているかを問うていることが多いです。

 文脈の形成は直前の情報を拾い上げて鎖のように繋いでいく作業になりますので、少なからず情報の蓄積が伴うのであって、文脈を破壊するということは、すなわち直前の情報を破棄するということです。いま語っている事柄の内容を、その事柄を語り終えた次の瞬間に忘れてしまう。語っても情報が何も蓄積されず、いつも白紙に線を引く作業をしている。引いたそばから線は消えて紙はいつまでたっても白紙のまま。当然ながらストーリーは進みません。酒場で旅の仲間を探して洞窟にもぐり宝を探して彷徨う、ということなど到底できるはずがありません。酒場に入った瞬間に目的を忘れ、途方に暮れて辺りを見回すと、自分がどこにいるかわからなくなっている。
 それでも物語は成立すると僕は思うんです。物語という言い方があっているのかどうかわかりませんが、ピンとこないなら小説を想定してもらえればいいです。
 小説でもある話題を、次の話題が引き継ぐという形式になっていると思います。「朝起きて、」と書いたそのあとに「洗面所で顔を洗った。」と書けば論理的に繋がっていることになるかなと思いますが、もし「朝起きて、」が情報として蓄積されなければ、次に来る言葉が「妹が朝食を残した。」となるかもしれない。ここまでばらばらに分解するとさすがに話の筋もなにもなくなって、何も進まないだろうと思うのですが、もうちょっと大きな単位で考えてみます。物語は語り手の実況形式で書くことにし、加えて、ひとつの文のなかでは論理が破たんしない、といったような制約があれば、物語は繋がっていくんじゃないかなあと思います。語り手は、現在自分がどんな状況にあるのか、すぐに忘れてしまうという状態です。それでも、語り手は身体を持って通常のスピードの時間の中に生き、外界からは他の人と同じように刺激を受け、それを認識して瞬間的に反応することもできる。そういうふうに、語り手はあくまでも普通の人間であるとして語ります。強い光が当たれば眩しいし、車に当たれば痛い。物質世界の現象に対して語り手は反応します。
 語り手の反応は、それに対する外界の反応を生みます。語り手も物質世界の一員である限りこれは自ずと起こること。語り手の反応が外界に働きかけて変化を与え、その変化が語り手に再び呼びかけます。世界は一定ではなく、動き続けているわけで、その動きの中に語り手の身体は参加しているんです。
 この特徴があるから、新規の情報の蓄積が皆無でも、語りは堂々巡りにはならず、物語が完全に停滞してしまうことはありません。動いてさえいればいつかどこかに辿り着きます。辿り着きさえすればいいのです。だから物語は文脈がなくても、ひとつひとつの文の意味さえ崩れていなければ、ちゃんと成立すると考えます。

 やるとしたら、文章が次々に消えていってしまうノベルゲームが最適なんじゃないだろうか、と僕は思うのです。こういうのもいつかやれたらいいと思いますね。