チクル妄想工房

ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

ノベルゲームはメロドラマになってしまうのか

 前に書いたノベルゲームのBGMの話の続きってことになりそうです。

 BGMの機能についての僕の考え方は一般的なそれと変わらないのだろうと思っています。読み手の特定の感情を喚起するというBGMの性質について、僕は全面的に支持しています(違った意見があるならぜひ聞きたいです)。
 しかし、例えば物語の悲しい場面で悲しい音楽を、楽しい場面で楽しい音楽を流すといった「方法」については、それがBGMのすべてであると言うわけには行かない。

 悲しい場面で読者が悲しい気持ちになる、これは当然起こることですし、だからこそ、その場面は「悲しい場面」であるのです。でも、そこで悲しい雰囲気の音楽を流すという、表現の「方法」は、当たり前のようで、そんなに単純なことではないんじゃないかなと思います。
 悲しい場面をいかにも悲しく書くとき、書き手には、その場面を読んで悲しい気持ちになってほしいという、期待というよりも要望があります。悲しい雰囲気のBGMを使うとなると、目的はその場面の悲しい雰囲気を強化するためということになるわけです。これはごく普通に行なわれていることだし、それが主流だろうし、表現手法として優れているのだろうし、ぜんぜん間違ってなどないと思うのですが、悪い言い方をすれば、押し付けがましくて、白々しい、茶番でもあります。
 もちろん茶番劇の域を大きく超えて成功しているものも少なくない、いちいち個別の作品名は挙げませんが。ノベルゲームの特性上メロドラマ的な作風が有利というのも認めますけれど、それとは別の方向もあるんじゃないだろうか、と僕は考えます。

 小説に音楽はありません。音楽はないけれど、じゃあ文章に音楽を付けるとしたらどういう意図で?ということだと思うんです、ノベルゲームのBGMは。物語の様式美、王道、みたいなものに対しては多くの人たちが議論を交わしていても、音楽の使い方に関してはあまり語られることがなくて、一定の様式(悲しい場面で悲しい音楽を)に盲従していて方法論に無頓着である印象を受けます(本当はそうではないのであれば、申し訳ない)。

 ノベルゲームにおいては、文章は文章、BGMはBGM、絵は絵、他の要素は他の要素で、それぞれ別個に、何かを表現し、ときに読者の気分を左右する働きをしている状態であります。僕は、常にそれらがすべてぴったり同じ地点を目指している必要はないと思うのです。文章では誰かが誰かを殺している一方で、BGMがとても軽快なものであってもよく、人殺しの少年は文章で人を殺しながら、イラストの中で楽しそうに苺のショートケーキを分解していても、明確な意図があるならばOKだと思うのです。それらは個別の表現であるべきであり、個別の表現として重なり合ってひとつになるべきじゃないでしょうか。

 BGMの持つイメージとは「こういう気分で読んでもらいたい」という作者の期待であり要望であります。BGMは文章よりも手っ取り早く感情を揺さぶることができますし、物語の後ろでずっとかかりっぱなしでいることで、持続的に働きかけることが可能です。だからBGMを流すことで文章を読むときの読者の感情を、文章の内容による誘導よりも先に、BGMのイメージに対応した別の感情へと誘導することができる。絵も同じだと思う。シーンのイメージはそれらに引っ張られ、引っ張られた状態で文章を読むことになる。
 そして、そのイメージは楽しいとか悲しいとかそんな単純なものではないはずだし、文章で描いていることも、絵で描いていることも、同じように一言二言の単語で表しきれるものではないはず。そういう複雑なイメージが押し合いへし合いしてひとつのシーンを構成している。

 シーンのイメージを強化するというのは、ひとつの結果であって本質ではなく、目的として主流ではあっても絶対であるはずがない。