チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

『モロイ』

 読んだ本の感想なり批評なりを書いたことがなかったので、どんなもんでもいいから読書記録を残しておいたほうがいいのかなと思いまして、これからは気がついたら気が向いたらここに何か書くつもりです。書評と呼ぶには僕の記事はあまりにもお粗末であろうため、便利な「感想」という分類を適用しましょう。はい、これは感想です。

 読んだのはサミュエル・ベケットの『モロイ』です。しょっぱながこれとか辛いですね。
 一言でいえば、わけがわからなかった。一言で言わなくても、何度も言えるよ、わけがわからないよ。心底わけがわからない小説でした。

 この小説は2部構成になっていて、第一部はモロイという老人がひとりで母親を探して歩く話、第二部はモランという男が息子と二人で第一部の主人公モロイを探して歩く話。これを主人公のモロイ、モランが書き綴っている、という設定になっています、らしい。
 どうしてモロイは母親を探しているのか、モランはモロイを探しているのか、理由は明かされません。彼らが自分がそうする理由を理解しているととれる記述もない、が、彼らは自分の行動の目的を疑わない。ただ「そうすべきと決まっているもの」として目指し続ける。それを目指す最中で、いろいろなことが起きてはいるんです、でもモロイもモランも最終的な目標だけを見て他の出来事はみんな些事とみなしている。そしてなぜか些事に異様なこだわりを示す。

 第一部のモロイは母親がどこにいるのかわかっていないようで、わかっているようで、どっちなのかわかりません。とにかく母親を探すことだけがモロイの頭にある。でもモロイは些細なことに躓いては愚痴を書いて、そこから彼の思ったことを片っ端から書いて、身の周りの出来事の何が母親を探すという目的において重要なのか考えていません。何かを書くということはきっと誰かがそれを読むということで、第一部は書かれたものであるにもかかわらず、誰かが読むために書き残されたものとしての体裁など微塵もありはしないんですね。「母親を探す」という大きな目的があるならば、普通はそこに至る過程を、それに関わる事柄を中心に書くはずが、モロイはどうでもいいことばかり書いています。石をしゃぶる順番なんかどうでもいい、母親を探すのにそんなこと関係ないだろ! みたいなね、例えば。
 文体も(翻訳ですが)、文末に「、と思う。」とやたら付け加えたり、倒置法を多用したり、いま書いたことを直後には自分で否定したり、文を読んで意味を受け取ったと思ったら崩されることばかりで、読むのを邪魔されているみたいです。どうでもいい記述が何ページも続いたと思ったら唐突に母親探しに戻って、かと思ったらまたどうでもいいことを長々と書いて、の繰り返しで、話がどこまで進んだのか忘れてしまう、というか本当に進んでいるのかどうか疑わしくなってくる。進んでいないのかも知れない。
 モロイは脚を悪くしているらしく、そのうちに、硬直してほとんど動かないとか片方の足が縮んでしまったとか相当悪化してきて、重傷なのに、彼は動かないとか痛いとか愚痴を吐き続けながら、道具を使ったり這ったりしてそれでも進み続ける。どんな理由が彼をそこまでさせるのかまったく書かれていなくて、気持ちが悪いです。結局モロイは母親の元には辿り着けず、深い森を抜けたところにあった溝にはまり込んで第一部は終わるのですが、何だったんだ、と釈然としない気分だけが残りました。

 第二部もおおよそ似たようなものですが、こちらは主人公のモランにジャックという息子がいて第二部のほとんどで行動を共にしているために、息子と彼との関係が、捨て置かれた現実感にわずかな救いをもたらしています、と思う。他にもゲイバーや上司、女中など、モラン以外にも名前を持った人が幾人か登場します。第一部との大きな違いですね、第一部ではまともに登場したと言える登場人物はモロイひとりでした、あとはモロイの記述のなかだけに出てくる母親だけでした。
 モランの元にゲイバーという男がやってきて、モランの上司からのモロイを探せという指示を伝えます。でも目的はわからない。でもモランは指示を疑うことなく遂行しようとします。モランは息子を連れて家を出ます、これまた家を出る準備にかなりの紙面を割いている。モランはよい父親になろうとして、良い父親であると信じて息子に酷い仕打ちをしています。家を出てからも書かれるのは息子を馬鹿だとか罵る場面ばかり、時々労わったかと思えば突然殴ったり、それでもモランは自分の行動に疑いを持ちません。そんなよくわからない遣り取りをしながら歩き続けて、息子は買ってもらった自転車でひとりで行ってしまって、モランは道中に一人で残され、モロイと同じく脚を悪くした彼は息子を待つのですが、帰ってきません。その場にやってきた男を追い払ったりなぜか殺したりしているのですが、やはりモロイの記述と同じく重要なこととそうでないことの基準がまったく不明で、彼が何の目的を持って書いているのかつかめない。モロイに会えないままモランは、こうもりを杖代わりに家に帰って、そこでわけのわからないことをいろいろ書いて終わるのですが、まったくわけがわかりませんでした。

 というわけで、わけのわからない小説でした。大きな目標があって、それに向かって起承転結とか何とかかんとか、構造組んで順序立てて物事を書いていくのが物語だと思っていたのですが、『モロイ』は大きな目標はあってもモロイやモランがそれを目指す理由が読む側はまったくわからないままで、書き残すべきことと省くべきことの区別がされているのかいないのかわからない書き方で、どうでもよさそうなことばかり書かれている。誰が書いているのかは明白ですが、何のために書いているのかがまったくわからない、というのは要するに、何でそんなことを書くのかわからないことばかり書かれているから、何のために書かれているのかどんどん解らなくなっていくんです。好き勝手に書き散らされていて、小説として書かれたようには見えないが、日記でもないし、手紙でもない。読み手が理解できるような動機なしに、書き手であるモロイやモランにしかわからない理由によって書かれた文章なのでしょうか。彼らはどうしてこれを書いたのでしょうか。