チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

『伊豆の踊子』

 言わずと知れた、ってところですね。日本の名作文学です。著者は川端康成

 ところが、いざ読んでみれば、どういうふうに読めばいいのかよくわからない。これは踊子に萌えればよかったのでしょうか。ええ、萌えましたとも。主人公にだんだん懐いていくのがね、可愛すぎるだろうと思った。
 本当にね、どう感想を書けばいいやら。僕は残念ながらロリコンではないのですが、踊子は可愛かった、これは確かです。照れる様子なんかもう、よくぞここまで萌えさせてくれました。川端康成は書くときにどんな気持ちだったのでしょうか。
 踊子の薫は14ですが、そのくらいがちょうどいいのかも知れませんね。でも主人公は共同浴場で薫が子供だとわかったとたん、それまで抱いていた恋愛感情を一挙になくしてしまうんですよね。わかってねえなあコイツと言わずにはおれない。14って食べごろだろカス……おっと。

 文章に関しては、風景描写がとくに綺麗でしたね、非常にふつくしい。風景に限らなくても、主人公が「見ているもの」の書き方が、書き過ぎも、不足もなく、適度にすべり込んでくる。こんなふうに書くことってできるんですね。


 「二十歳の私は自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に堪え切れないで伊豆の旅に出てきているのだった。だから世間尋常の意味で自分がいい人に見えることは、言いようなく有難いのだった。」
 さて、もうちょっと感想書くとしますと、たぶんこの辺がミソなのかなあ、とは思います。

 主人公は学生ですが、宿屋に金を多めに渡したり、行きずりの男に金を投げたりしています。学生がそういうことすんのは、無理のある親切だと思うんですが、上のようなコンプレックスの表れなんでしょうねきっと。他人に親切にするにもされるにも、自分のことが頭に入り込んでしまって、つい不器用なやり方になってしまう。

 踊子は旅芸人の一座のひとりで、どうも旅芸人というのは差別される立場にあったみたいです。主人公は彼らと幾日か旅をすることになるのですが、行く先の人の旅芸人のことを話す口調に軽蔑が含まれていたり、村の前に「物乞い旅芸人村に入るべからず」と書かれた看板があったりします。彼らが面と向かって差別的な扱いを受けている描写はありませんが、実はあんまりよく思われてないよ、と。
 それに加えて、男性優位な風潮もあって、主人公は学生でありますがもう男性として扱われて、一座の女性たちは主人公に対して遠慮があります。

 主人公ははじめ、踊子に恋をしていて、踊子と一緒にいたかったがために彼らに近づこうと思った。男に声をかけられてしめたとばかりに彼らの仲間入りをします。
 一緒になってしまえば家族みたいに付き合うことになります。そんで密かに恋焦がれていた踊子が子供だとわかって、そういう感情はなくなるのですが、兄と妹のように仲良くなり、他の人たちとも親密になります。で、自分が「いい人」と評価されているのを小耳にはさんで、非常にうれしく思うわけです。

 主人公が東京に帰る朝、女性の皆は遅くまで座敷があるので起きられなくて、見送りは栄吉と、ひとりで起きてきた踊子だけです。踊子も遅くまで仕事をしていたあとで、顔に化粧が残ってます。別れしなに一座の男、踊子の兄である栄吉と土産物の交換をします。ここのさわやかな感じが結構好きですね。それから彼らは静かに別れます。
 主人公はそこでなぜか見知らぬ人に、痴呆の老婆を上野まで送ってくれと任され、快く引き受けます。踊子たちとの別れの悲しさに他人の前でも自然に泣いて、他人の親切も自然に受けられて、婆さんを上野まで送ってやるのも当たり前のことに思えた、というのですね。そういう打算的でなく余分な自意識もない、素直なコミュニケーションが他人と取れるようになったと。

 感想として何かそれらしいことを書かねばならないのだとしたら、そういうことなんじゃないでしょうか、と書いておきます。
 でもやっぱり僕は、これは、薫たん萌え小説だと思いますね。