チクル妄想工房

ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

変わることについて

 変わっていく自分、ということについて考えるのは、いま『くらやみの速さはどれくらい』という本を読んでいるからなのだけれど、昔々のとある記事(いまはもうない)にコメントくれた某氏は知っているかもしれないが、そのまえに、ちょうど一年くらい前に、僕がまだ就職活動をしていたころ、同じことを考えていた。仕事を始めたらきっと忙しい生活にのまれて僕はものを書く意欲をだんだんなくしていくだろうと心配していた。こんないかれた僕が社会に出てうまくやっていけるのかどうかということよりも、僕自身は他から見たらごくつまらないであろうこと、僕が僕であるために必要不可欠な執筆行為をやめてしまうこと、そして働き始めた僕自身が執筆をやめた僕を容認してしまう、きっと容認してしまうだろうことが不安だった。結局就職は諦めてしまったけれど、一応のところたくさんの皆さんのおかげで別の形で助かったのだけれど、僕の恐れていたことは同じように訪れた。以前と同じ生活を続けることはできなくなった。環境が変われば、僕の人生においてその中心にいなければならない僕自身も環境に適応するために変わらなければならない。僕は生活の中心に読書や執筆をおくことはできないし、そのような環境で僕の意識は自ずともっと優先すべきものごとに向けられることになり、僕はきっと以前と同じ、たとえば一か月前や二か月前と同じ気持ちで本を読み、小説やノベルゲームを書くことはできないと思うし、一か月二か月ですらそうなのだから、年月が何年ともなればこの記事を書く前の僕や、書いているこのときの僕や、書いた直後の僕は跡形も残らないだろう。そうして好きだったものを好きでなくなり、嫌いだったものが好きになり、目指していたところは廃墟になり、廃墟を前にして僕は「やはりここは廃墟だった」とため息をつくのだろう。『くらやみの速さはどれくらい』はもう少しで読み終わる。変わってしまった僕は変わる前と同じ視点からものごとを眺めることはできないし、眺めたものを以前と同じ価値観で評価することはできないし、受け取った情報から抱く感情も違ったものになるだろうし、そこから起こす行動もきっと変わってくるだろう。小学校のころサッカー選手や野球選手になりたかった誰かが、大学四年生になって公務員を目指すという変化を、世間を知り成長したことによることで、それこそ年相応の価値観であって、そう変わったのは良いことなのだというとき、それが本当に良いことなのだとしてもそうでないとしても、間違いなくいえる決して揺らがない事実が一つだけあって、小学生のころその人は公務員よりもサッカー選手や野球選手になりたかっただろうし、サッカー選手や野球選手になるためにいくらかの努力をしただろうということで、その意志にも理由があったということで、そういった意思や理由は嘘ではなかったということだ。

 ここまで『くらやみの速さはどれくらい』の感想として書いたつもりはないけれど、でもそう読むこともできると思うけれど、この作品について改めて他の観点から感想を述べるとすれば、一人称小説ってこういうことができるから面白いんだなと思った。『電波電波カプリッチョ!』でも考えさせられたことだけれど、読み手と異なった世界観を持った明らかな他者を語り手に据えることは一人称視点の作品でないとできないし、一人称小説って本質的にそういうもんなんだと思う。学ぶときは職人の動きではなく職人の見ているものを見ろ、という言葉をどこかで聞いたのだけれど、他者の世界観を想像することは他者を体験することであり、それをもっとも直接的に体験させることのできるのはこういう作品なのではないだろうか。一人称小説の最大のアドバンテージは語り手が一個の人格であることだと思う。ノリとか口調とか、そういうのよりも、そこに独自の世界観があることに注目したい。
 この小説は自閉症者ルウの視点で語られる。ルウの見ている世界は「健常者=ノーマル」とは違う、ルウの世界の解釈の仕方は自閉症者のそれであり「ノーマル」のそれではない。この小説を主人公ルウではない読み手が読むとき、世界の再解釈、新たな価値観の創造が行われる。