チクル妄想工房

ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

むだい

分類する、て行為は、あるカテゴリに属する構成要素同士の差異をもとにしてそのカテゴリをふたつ以上に分解するってことですが、そうしますと分類によって形成された各カテゴリの構成要素の間にまったく差異がなくなった、という保証は、そのカテゴリがそもそも元々同じ範疇として分類されていた他のカテゴリとの何らかの差異によって出来上がったという経緯によって、原理上出来ないわけですから、区分けされまとめられたそれら構成要素たちがまったく同一の性質をもっている、なんてことは言えないわけで、さらに分類される可能性を分類された瞬間から孕んでいる、ということになります。なので、分類が無限に続いてしまうことを防ぐために、あらかじめ意味のある差異と意味のない差異を区別していますね。分類によって区分けされたものは個々の構成要素に他ならないのですが、それらを使用するときに、必要なモノを取り出すために指し示すのは、分類名、ということになっている。このことの意味は、ひとつは、元々分類行為には何らかの目的があって、それを達成するのに適した特定の観点によって分類されたということ、もうひとつは、指示された段階の分類以下のさらに詳細な分類のもとになる諸性質は、ある区分段階の分類名で指示された時点で無意味になるということですね。

例えば、「ロリコン」というカテゴリを指示したとします。ロリコンにもいろんなロリコンがいて、ロリコンをひとくくりにすることは、まあ場合によっては可能なのですが、ひとくくりにされた、とある「ロリコン」の構成要素たちは、そのあいだに「意味のない差異」と「さらに細分化しうるための差異」を持っていて、それらはとある「ロリコン」というくくりでくくられたその瞬間に見えなくなってしまうのですが、重要なのは、見えなくなっても決してなくなったわけではない、ということなのですね。

外部ではなく、内部、つまりとある分類法により分類された「ロリコン」という範疇の、その構成要素同士が、もし仲間同士の一体感を意識した場合に、つまり「私たちは、同じ信条を持っているのだ」と意識した場合に、かならず(と、あえて言ってしまいます)共有できない部分、無視できないし摺合せもできない信条の違いが、どうしても存在してしまうでしょう。
そここそが、分類において本質的ではないと判断された、またはさらに細分化するための細かな差異であります。行き違いが生じたときイコールさらなる分類が行なわれるとき、であるかもしれないし、さらなる分類の必要はない「誤差」であり「個性」であると片づけられるかもしれない。しかし、もし些細な違いを無視したのであれば、同じ理屈によって上位の差異もまた無意味になるかもしれないし、そもそも何かを分類するという行為自体に意味などない、というところまでさかのぼって否定されることになるかも知れない。すべては単なる「個人差」でしかないと。究極の分類は、個人なのだと。それを分類というのか私は知りませんが。

では、外部から「ロリコン」を批判したい、と思ったときに、「ロリコン」というものをどうやってとらえたらいいのか、「ロリコン」の的確さは誰が保証してくれるのか。それとも外部ではなく内部でかんじとる、自分たちの間の一体感を作り上げている共通の性質が、保証してくれるのでしょうか。でも、その一体感は、外部からなされた分類の説明書きによって、自分たちは同種だと思い込まされて現れた幻ではないのでしょうか?

私は、何が言いたかったのでしょうか?