チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

私達のゼンリョク

D

サイリョウPという人の作品です。
感想をまとめようと思ったけど上手くまとまりそうにないので、まとまらないまま書きます。
僕としては絶賛したいところだけれど、どうやら賛否両論らしい。
ラストがきつすぎたせいでしょうか?


涼くんの博愛精神は本当に良いものかどうか、と。

僕はアニマスニコマスをかじっただけで、ゲームをやったことがないため、涼くんの博愛精神がいかほどのものか知らないのですが、作者さんの言うとおり涼くんが「神のような博愛精神」を持っているとして、見させていただきました。

コメントでも書かれていましたが、「神のような博愛精神」は、「アイドルのファンへの愛」にも通じるものがありますね。ふつうアイドルはたったひとりのファンに愛情を向けることはできない。決して対等な相互関係が築けない、壁を隔てたような、次元を違えたような距離感。
もしかしたらアイドルなんて存在しないのかもしれません。実体を持たない偶像からの愛というものは、偶像それ自体が包含する意味であって、そこに本当に存在しているのは民からの崇拝心だけであると。
まあ、「たった一人だけのアイドル」というのも有りなのかもしれませんが。ええ、前作も良かったです。

作中では涼くんが無自覚に女性を劣るものとしてみていることが指摘され、博愛精神は、「弱いものである女性」を守ってあげようとする気持ちだと語られます。
たとえ博愛主義者であっても、普通ならば、身近な人間に「民への愛」など向けないでしょう。そういった精神が生まれるというのは、やはり見下す気持ちがあるからなのでしょうね。
絵理の言葉から、涼くんが持っている、一種の女性蔑視の価値観が露わになります。

涼くんが男性であることを明かす前は、涼くんや絵理たちを結ぶものは「女同士の友情」でした。
博愛は友情に偽装されていました。相互的な思いやりが常時存在しうる関係を友情と呼ぶならば、身近な博愛主義者の思いやりは友情にみえる。しかし民への平等な愛は「男女の愛」にはなりえない。民への平等な愛しか施さない「神」との男女関係は、やはりあり得ません。

ただ、涼くんの神性を保障していたのは絵理への恋心だったように思います。逆に言えば絵理への恋心が無ければ涼くんの「神のような博愛精神」はある特定の女性に対して恋心に変じた可能性もあります。
であると同時に、たったひとりの女性を愛することで涼くんは自分自身の神性を否定してもいます。が、涼くんが神であることを辞めるのは絵理の前だけ、ということでもあります。
絵理は神へのいけにえになることで、民から神へ不相応な愛情が向けられることを防ごうとします。結果、涼くんは絵理の提案を受け入れ、絵理は、涼くんが自分以外の人に愛情を向けることが無いのを悟ります。
ラストシーンに関する作者さんの解説には、ちょっと納得できなかったですね。