チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

真皮

 すべて教わった通りにやった。妹はいつもそう言う。馬鹿にしているとしか思えないほど毎日毎日、同じ口調で言う。妹の失敗は些細なことだ。僕にとっては些細なことであるべきだった。
 妹が失敗ばかりするのは僕のせいなのだと、ずっと考えていた。僕の教え方か、教えた内容が悪いのだと。初めて僕を見上げる視線をそこに見つけ、目を逸らさず視線を受け止める覚悟をしたときから。
 ゆえに僕は妹に僕の信じる方法を教えてきた。僕が信じるのは父の方法か、母の方法に極めて近いが、受け売りをそのまま伝えるわけにはいかない。僕なりに工夫を加えて僕自身のものにした方法だと、自分では思っていたし、そう他人に認めてもらう自信もあった。妹に伝えたのは僕の方法だ。教え方も、父と母のやり方を改良したつもりだったから、父や母が教えるよりもわかりやすいはずだった。そうでなければ意味がなかった。
 だから僕が悪いのだ。でも実際はそうではない。妹の台詞を馬鹿正直に受け取る必要などなかった。そう気づいたのはほんの二、三年前のことだ。僕はなんてつまらない責任感を背負っていたのだろう。
 責任感、いや、それは少し違う。
 すべて教わった通りにやったと妹に言わしめたのは僕である。僕の足元にいる妹はまだ幼い。妹に馬鹿なことを言わせることができるのは僕しかいない。このことを理解できたのは今日だ。二、三年前のある日から昨日まで、僕は妹にすべての非があると思い込んでいた。何も知らないはずの妹が生まれながらに悪をなす精神を有しているという荒唐無稽な考えに取りつかれていたのだ。だが真実はやはり僕が悪いのである。ただ、教え方にも教える内容にも間違いはなかったし、あったとしても本質たる問題に比べれば些末なことである。とにかく妹は悪くなかったことということは事実だ。
 僕を悪人にしたのは父のせいだった。悪人にしたのではない。悪人としての思考様式を植え付けたのだ。そう、僕は父の奴隷なのだ。僕は父の奴隷でなければならなかった。父が母と結婚したことによって、生まれた瞬間に定められた運命だったのだ。僕には生まれつき自由など欠片もなかった。
 例えばそう、僕は父を恨んでいる。ある日母は言った。父を恨みなさいと。僕は小さいころ母を誰よりも愛した。だから母の言葉は誰の言葉より真実だった。僕は父の言葉を盲信していたが、自分の気持ちに気づいたとき、母の言葉にも耳を傾けるべきだと知った。そして僕は母に言われた通り、父を恨むようになった。いまでもその気持ちは変わらず持ち続けている。自分自身を疑えるようになってからも僕の考えは変わらなかった。母の言葉は信じるべきかという問いに、信じるべきだという判断を下し続けている。母は僕が父の背中を見つめているのに気づくたび同じ意味の言葉を聞かせた。耳元でささやくように。幼少期の記憶は母のささやき声しかない。母のささやき声ばかりが聞こえていた。母に従うことを小さいながら僕は世界の摂理のように感じたはずだ。その声こそが世界の摂理だった。母の言葉に逆らうという選択肢を見つけるのはずっと後のことだ。今なお小さな手がかりをつかむに止まる。
 憎い相手は踏みつけてやれと父は言った。父の言葉に従い僕は高い場所に登る。父は登って行く僕を見送る。僕は何度も振り返り父の顔を確認する。父は表情をまったく動かさない。僕がそれなりに高い場所に辿り着くと信じているのだろう。だが僕が憎んでいるのは父なのだ。父よりも高い場所に立ち、僕を見上げる顔面から片足で踏みつぶしてやる。僕の足はこんなに小さいけれど、いつか父を踏みつぶせる大きさになりたかった。それは父が望んだことであり、母もまた望んだことなのだ。
 妹は嫌になるほど母に似ている。父にはまるで似ていない。父に似ているのは僕なのだろう。妹の顔がときどき母に見えることがあるくらいだ。僕が父であり、妹が母であるのかどうかわからないのは、僕が鏡を見たことがなかったからだ。どうして母を愛する僕が、妹をこんな人間にしてしまったのかわからない。わからないのではなくわかってはいけないのだとささやく声が聞こえる。母の声だ。母は都合のいい言葉を耳元で僕に授けてくれる。昔から変わっていない。記憶を辿り見つけた母の表情はいつもどこか欠けており、このすき間を埋める部品を一度も見つけたことがない。
 本当のところ、父は、僕がどこか高い場所に登ることができるなどと考えてはいない。僕の手も足も非常に未熟で、登る行動に適していないことは、誰から見ても明らかだ。その原因となった、生まれたばかりのときの、切り落とされたときの痛みを体が覚えている。決して人並みにはなれない。血濡れの馬鹿でかいナイフが僕の足元にいる父の手に握られている。無表情で佇立するはずの父はいつの間にか微笑みながら、僕のことを見降ろしている。いや、父はナイフを目の前にかざし、恍惚の表情でそれを見つめながら僕を足蹴にしている。向ける場所を失ったナイフの柄には切り刻んだ僕の名前が刻印されている。父はいまだナイフの中に僕の名前を隠している。
 倒れた僕の背中に突き刺さる。この痛みは日常化してしまい意識することができない。痛みは父に逆らった僕に与えられた罰なのだ。僕は痛みを受け入れ続けた。最初に受けた罰がこの、みじめな切り傷だ。傷はもう血を流さない。血を流してしまえば塞がった傷口の状態と矛盾してしまう。だから、体に痛みがあると理解していても痛みを実感することはできない。あなたは痛みを感じないのか。そう僕に聞いたのは確かに母だった。優しい言葉をかけてくれるのは母しかいなかったからだ。母の声のはずだったのに、僕は答えることができなかった。
 妹がすべて僕から教わった通りにやったことは、僕自身が保証できる。妹は遂行する間なんの意思も持たないのだから何ひとつ悪くない。妹の行為の罪を僕は喜んで背負うだろう。どうして母を愛する僕が、妹をこんな人間にしてしまったのだろう。僕は母自身だったと告白する、母のささやき声が聞こえる。妹は今のようにあるべきだったのだと僕が言えなくてどうするのだ。