チクル妄想工房

ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

ノベルゲーム制作はオーソドックスなものから始めたらいいのですか?

もうひとつ。
どうも、まだ書きたいことはあるみたいなのですが、別の機会にします。

フリーサウンドノベル関係の雑記 箸休めvol.60

「久住女中本舗」の道玄斎さんは、初めての人は「斬新なものを作りたい」と理想を高くしすぎないで、とりあえずオーソドックスなタイプのノベルゲームを作ってみたらどうか?とおっしゃっています。

だから さっさと 上野に 行きなさい−NOTE

一方で、道玄斎さんのエントリを挙げて批判している「お〜ぷん☆はあ〜? トで イこう!」のakinoさんのエントリ。こちらのサイトも以前より拝見させてもらってます。また、『ノベルゲームレビュアーは笑わない』をレビューして頂きました。
akinoさんは「上っ面の独創よりも作り手の生命の感じられるものを」というご意見。

akinoさんは道玄斎さんのエントリを批判されていますが、僕はお二人の考え方が相容れないものだとは思えません。「オーソドックス」で微細な差異を楽しむことができるもので、かつ「生命を込めた」ものもあり得るはずです。
akinoさんはそも道玄斎さんのエントリの内容を誤解してるのではないかと思うのです。道玄斎さんは「初心者がとりあえず一本作ってみるにはどうしたらいいか」を書いているのです。右も左もわからない初心者が「斬新なものを作りたい」と無暗に意気込んで、理想だけ先行してしまっても、実現させる方法がわからず、結局完成まで漕ぎ付くことができないのではないか、と心配されているのです。
そういった視点に立てば「(道玄斎さんのいうところの)オーソドックスなものを作る」というのは悪い方法とはいえないのではないか。

ただ、道玄斎さんの「オーソドックス」という言葉の意味は、文字通り「典型的な形式に則って」ではなく、「奇を衒ったものでは『ない』」という恐らく「否定的」な意味合いではないか、と思います。そう解釈した場合に限って、賛成する、というのが僕の意見です。

そうではなく、もし本当に、字義通り「オーソドックス」な形式で制作したほうがいい、というのであれば、僕は賛成できません。「ノベルゲームにおける『オーソドックス』とは何か?」という問題を、まず解決しなければいけないし、突き詰めて考えようとした場合これは困難なことでしょう。またこれを解決したうえで、次は、非オーソドックスな他の形式と比較して、オーソドックスな形式の方が作りやすい理由は何か?という問題に答える必要があると思うのです。
(ただ「ノベルゲームにおけるオーソドックス」とは何か考察することはとても有用なことだと思いますし、その結果を初心者に適切に示すことができれば、オーソドックスさが持つ意義について、僕も賛同できることがあるかもしれません。)
僕も作品の感想にオーソドックスという言葉を使った記憶があるので、批判するのに引け目があるのですけれども。今後は気を付けますということでお願いします。


話題は変わりまして、そもそもの話をしますが、「初心者がとりあえず一本作ってみるにはどうしたらいいか」という道玄斎さんのご意見について、道玄斎さんの説明されたことの理屈は筋が通っていると認めたうえで、僕は反対意見を持っています。
前回のエントリと根本的に矛盾しないように、あらかじめ書き添えておきますが、「オーソドックスな形式でまずはやってみたらどうですか」という「制作指南」への批判をしている、というレベルの記述として読んでください。

世の中には「表現したいものが溢れているから作らずにいられない」というよりは「ノベルゲームが作りたいから作りたい」という人も、確かにいるでしょう。フリーの制作者でもそういったプロ意識?を持って精力的に活動されている方は恐らくいましょう。しかし、初めてノベルゲームを作りたいと思った動機は、面白いゲームに出会ったからとか、特別な体験をしたから、とかではないですか。目的と手段が〜とはよく言われますけれども、表現したいものが心の中にあるのに、「オーソドックス」という形式面での枷を制作者に与えることになってしまったら、よくないのではないか、と考えるのです。
「書きたいものがあります」という言葉に対して「そんなことより、まずは簡単に書けるものを書いてみよう」というのは、どうだろう、ということです。(なので、「とりあえず何か作りたいです」に対して、「では、まずは簡単に書けるものを書いてみよう」は合っているということになります。)

初心者に資料検索の手掛かりを与えるという前回のエントリと、見方によっては矛盾するかもしれませんが、僕は、制作の自由は「オーソドックスな形式」からも自由であってほしいと考えます。
前回のエントリとつじつまを合わせるなら、「良い資料を与え、読み方を指示する」という「勉強の仕方を指導する」ことは有用ですが、そういった指導をする立場から作品の形式を指定することは不要です。自由があったうえで、制作者が自らの意思で(理由はどうあれ)やはりオーソドックスな形式を選んだ、というふうにあって欲しいと考えます。