チクル妄想工房

ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

子供がさまよう街の風景

D
アイドルマスター あてもなくさまよって
黒怒虎P


すごく気に入ってしまいました。
はっきりしたストーリーとか、テーマとか、あるのかもしれないし、ないのかもしれない。
例えば映っている子供は春香さんだから、春香さんの公式から与えられた物語を背景に考えればそれなりの解釈ができるのかもしれませんが、僕はそうするつもりはないです。


この動画の風景って、身近な印象があるんですよね。身近というかありふれているというか。こういう風景の街ってけっこう多いんじゃないかなと。マンションの群れ、一戸建ての分譲住宅地と街区公園、ごちゃごちゃした街並を貫く幹線道路、など。
この作品の春香さんが住んでいる場所は、そういう場所なんだとわかる。

僕は、この作品は、すべてひとつながりの時間軸を描いているのではなくて、何かのきっかけで街をさまようことになった春香さんの時間と、日常の春香さんのさまざまな時間の、二種類を映しているのではないかと思います。
この作品には、ボールを持った春香さんと、持っていない春香さんが出てくる。傘を持った春香さんもいます。踊っている春香さんもいる。ここに出てくる風景は春香さんが毎日歩いてきた風景で、春香さんは自分の住む街のいろいろな場所を歩いてきたわけですから、たくさんの風景を見てきたんですね。これらはすべてが客観的に受容される風景写真ではなくて、ひとつひとつが春香さんの大事な体験で、そのひとつとして、ある日ちょっと遠くへ行くことになった特別な出来事もあって、そのときに春香さんは、普段歩くのとはちょっと違った風景を、普段と同じ街に見たんですね。


街というのは幹線道路とでかいビルだけではなくて、街を少し外れると、すぐに住宅地が広がっている、そういう土地もあるんですよね。そして住宅といっても、春香さんが下りてきたような高層マンションが集まっている場所もあるし、分譲一戸建ての集まった住宅地、やや古い家並みの集まった住宅地もある。簡単にいえば、とにかく、いろいろあるわけですね。
春香さんはこの街に住んで、毎日、そういった場所を歩いていた。春香さんにとって、ここに映し出されているのはとても馴染みのある風景なんでしょう。

僕の地元の街中もそうだし、どこもそうかもしれませんが、住宅地と幹線道路の距離が近い。住宅、路地、公園などの集まった区域があって、そういった場所は道幅も狭くて、路地も多くていかにも住宅地という感じ。でも、ほんの少しだけ足を延ばすと、すぐそばに大きな道路の通っているのがわかって、そこには数えきれないほどの車が走っている。住宅地から一気に空間のスケールが広がって、まるで別世界になる。
徒歩で歩く住宅地の狭い道と、たくさん自動車の通る幹線道路って、それぞれ道のスケールが全然違うんですよね。前者は歩行者のもので、後者は自動車のもので、適した移動手段、あるいは速度での移動によって、その場所に調和したスムーズな流れが形成される。この動画で、春香さんが通る様々な道には、それぞれ、その意味での違いがみられます。大通りに佇む春香さんや、ボール遊びをする春香さんを見ると、道のスケールと人の身体が調和する、調和しないという感じがわかるんじゃないでしょうか。


とくに子供の春香さんにとって幹線道路の奇妙に開けた空とビル群というのは、住宅街の遊び場と比べるとほとんど異界といってもよくて、そこに立った時の疎外感が、彼女の体になじんだ小さなスケールの空間に立つ絵との対比に現れている。ひとつのシーンを取り出してみるならば、ビル街にたたずむ春香さんが、手に持ったボールを離し、ボールがゆっくり落ちていき、背後を雲がすごい速さで流れているシーンが印象的ですね。逆に、住宅地を歩く春香さんや、街の「隙間」で遊ぶ春香さんには、その場所と身体との親和性を感じ取ることができます。
子供がひとりで街を歩くというのはそういう体験なんだ、ということなのでしょう。身体に合った場所と、合わない場所が、混在している、あるいは隣接している。古い家の立ち並ぶ住宅地から少し歩けば三車線四車線の道路が走っている。普段歩く街も、少し離れた場所にいくと、突如目の回るような巨大な空間に出てしまうことがあって、それは何度も見た風景かもしれないけれど、子供がボールを持って遊ぶにはあまりにも大きい。あてもなくさまよって、スケールに極端な差のある空間のスムーズ過ぎる移動から、自分の身体と世界が疎遠になったような感覚をおぼえる。

春香さんの身体のスケールに合っている場所というのは、住宅地の中の車通りの少なそうな道路とか、マンションの足元の狭い道とか、立体交差する下側の道路とか、高架橋の下とか、陸橋の歩道の階段とか、ビルのいまは使われてなさそうな小さな駐車場跡地みたいなとことか、ビルの屋上とか、そういった普段特別意識をとめない場所、言ってみれば街の「隙間」のような場所です。
子供のころを思い出してみると、よく遊び場にしていたのはそういった場所ではなかったでしょうか。公園だけが子供の遊び場であるわけではありません。僕は街育ちではありませんが、子供のころは、墓地から裏の田んぼに下りる二十段くらいのコンクリの階段とか、公園(街区公園)の裏のちょっとした林とか、コンクリで護岸された幅十メートル足らずの川の橋の下とか、自転車置き場の屋根の上とか、そういうところでよく遊びました。
大人が、子供を含めた自分たちの生活する世界と位置付けた範囲から切り離された、逸脱した、隙間のような場所です。
大きな道路が何度か映りますが、大きな道路というのは遊び場として適切ではなくて、この作品でいえば、さまよって誤って迷い込んでしまった空間で、子供にとってそれは車の流れによって形成された、こちら側とあちら側の境界でしかない(僕にとってはそうだったのですが、もしかすると街の子供にとっては違うのかもしれません)。