チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

「ゲーム」としてのノベルゲーム

  • 「ゲーム」としてのノベルゲーム

この記事は、「ノベルゲームのゲーム性とは何か?」という問題について論じたものではなく、「ノベルゲームがゲームであるとすれば一体どんなゲームなのか?」という観点で書いている。

「ゲームとは何か?」という問題に有意義な解答を出すことは僕にはできないが、ゲームの成立要件として重要なことを一点思い付いたので書くことにする。あまりにも当たり前のことだが、「プレイヤーが存在すること」である。「ゲーム」としてのノベルゲームを考える上で、この点は非常に重要だと僕は感じている。このことを、ただ単に「ノベルゲームをプレイするプレイヤー(=読者)が存在する」と表現するのは厳密ではない。ノベルゲームにおいて「プレイヤーが存在する」ということの意味は、「ノベルゲームが『ゲーム』であるならば、作品の受け手は、その『ゲーム』に『プレイヤー』という形で参加している」ということである。
そして、ゲームがゲームであるためには、自分がゲームに参加しているというプレイヤーの自覚が必要である。ゲームは一定のルールに従ってするものであるから、①プレイヤーは参加しているゲームのルールに従っていて②自分でもそのことをちゃんと知っている、ということがいえると思う。「ゲーム」としてのノベルゲームを考えるにあたって、この二点に着目してみたい。

  • 「プレイヤー」という立場

ノベルゲームにおいてゲーム性を生むのは選択肢である、と見なされているのではないかと思う。確かに、あるノベルゲームにゲーム性を感じるとき、それが選択肢によって生み出されていることは大いにありうると思う。しかし、「ゲーム性がある作品の多くには選択肢がある」ということがたとえできたとしても、逆に「選択肢があるノベルゲームの多くにはゲーム性がある」ということがいえるとは限らない。この記事では論じないが、そもそもゲーム性とは何かという問題もある。ともあれ、物語分岐という仕掛けそのものがノベルゲームの中で普遍的にゲーム性を担うのではないと僕は思っている。

まず、「ゲーム」に参加するのは主人公ではなく「プレイヤー」である「ゲーム」への参加は「物語世界」よりも一階層上の、現実世界における「書き手-作品-受け手」の関わりの中で起こるという言い方もできる。この点はとても重要だと主張したい。
どういうことかというと、ある人物が活動Aをゲームとして体験するとき、その人物はゲームとしての活動Aに参加するプレイヤーである。という当たり前の事実を、次のような言い方をしてみる。活動Aをゲームとして体験している人物こそ、ゲームとしての活動Aに参加するプレイヤーである。この文の「活動A」の部分に「ノベルゲーム」を当てはめればよい。

ノベルゲームの選択肢は、登場人物の誰かひとり、主にそのときの視点人物の意思や行動に、複数のパタンを提示するというものが多いだろう。だから、物語世界の内側から見れば、それを選ぶのはそのときの視点人物である。しかし、その選択行為が、もしも「ゲーム」における一操作であるならば、「ゲーム」に参加しているのは登場人物ではなく生身のプレイヤーなのだから、選択しているのも生身のプレイヤーなのだ。物語の中にいる登場人物にとっては、ただ自由意思に従って思考・行動したにすぎず、自身がゲームに参加するプレイヤーとして思考や行動を選択しているという意識もなければ、ましてや自分のいる世界そのものが「ノベルゲーム」であるなどとは思いもしない。

(念のため注記しておくが、この記事で題材として想定しているのは、コマンド選択式のADVではなく、文章を読み進めていくタイプの、サウンドノベルとかビジュアルノベルと呼ばれる類の作品群である。ADV系だとあまり当てはまらない話だと思う。)

ほとんどのノベルゲームは小説や映画や漫画やその他の形式のように、虚構の物語世界を持つ。それが文章によって展開していくから、感触としては小説に近い。そして、ノベルゲームでは一人称視点が好まれる。その理由については僕はまるで詳しくないから論じられないが、この記事の論旨と関わる理由として一点だけ挙げておく。複数の物語展開を提示するという選択肢の特性が一人称視点で有利である、という点である。

ノベルゲームのゲーム性の持たせ方には様々なアイデアがあるだろうが、主流であるのはやはり選択肢による物語分岐だろう。一人称視点の物語における選択肢の機能は、前述したように、視点人物の意思や行動を操作するものとなる。これは一見すると、プレイヤーが主人公と一体となって、その物語の中で、自分自身の辿る道筋を開拓しているように思える。主人公を操作するタイプのコンピュータRPGを想像してもらえばわかりやすいだろうか。
だが、ノベルゲームは、実はこのような仕組みにはなっていないと僕は考えている。ゲームと銘打たれていて、同じように主人公の言動を操作するからといって、選択肢制ノベルゲームをRPG等と同一視することはふさわしくない(そもそもノベル「ゲーム」という呼び名に現在いかほどの意味があるのか?)。ノベルゲームは、プレイヤーが、主人公に自らを重ね合わせて、物語の中を進んでいくわけではないのである。僕がそう考える理由は二つある。

①ロールプレイのためには、ロールプレイが可能なだけの自由度がないといけない。二択三択の選択肢がごくたまに出てくる程度では不十分である。プレイヤーが物語世界の一員となるには、プレイヤーの意思がゲームの展開にそれなりの程度で反映されないといけない。
②小説を読む場合、読者が主人公に自己を丸ごと重ねわせるのは、読み方の主流ではない。読者が自分と似た境遇の登場人物に感情移入することはあるだろうが、自己投影まですることはそう滅多にないだろう。ゆえに、ノベルゲームが小説と同じく文章によって物語を進めるという体裁をとっていて、受け手の仕事が読書行為であるならば、一人称ノベルゲームにおけるプレイヤーの参加の仕方は、主人公に自己をぴったり重ね合わせる仕方ではないと考えられる。

以上の二点から、その作品が受け手に読書行為を求めるタイプである限り、ノベルゲームにおける「プレイヤー」としての受け手の立場は、物語内の主人公の位置に重なるものではないのだといえる。「ゲーム」としてのノベルゲームを考える際、ロールプレイと読書行為の相容れなさというのは、重要な点であろう。

  • ノベルゲーム観賞が「読書」ではなく「プレイ」であるためには

ノベルゲーム作品の受け手は、ノベルゲームを読み物とみたときは「読者」、ゲームとみたときは「プレイヤー」と呼びたくなる。しかし、「読者」と「プレイヤー」は明確に区別されるべきである。読書行為の最中、「読者」の姿は隠れている。しかし「ゲーム」への参加の最中、「プレイヤー」の姿は常に表舞台に現れている。自分自身がその舞台に参加していると認識するかどうかという点は大きな違いである。これは、読書と比較した場合の、「ゲーム」と認め得るノベルゲームが持つ特徴であるともいえる。
このように異なる性質を持った「読者」と「プレイヤー」を、いかにすり合わせていくかが、ノベルゲームが単なる「読み物」ではなく「ゲーム」となるための課題ではないだろうか
(ただし僕は、ノベルゲームはこの文章で論じている意味での「ゲーム」でなくてもいいと考えているが。)

そのための方法を、実現可能かどうか知らないが、とりあえず二つ思い付いたので挙げてみる(方法は他にもいくらでもあるはず)。

①プレイヤーの行動を主人公の行動と重ね合わせる、TRPG流のロールプレイングを意識し、一人称視点の文章で、選択肢を多用し、さらに人物造形を工夫して感情移入を促す。要するに、主人公の人生の一部分をプレイヤーに追体験させるタイプである。(しかし、主人公の体験を自分の体験のように感じられる作品を、僕は思い付くことができない。読んだ数が足りないからだろう。)
「これがゲームであり、ゆえに参加するプレイヤーが存在し、そのプレイヤーとは目の前にいるあなたである」という事実を明らかにしてしまう。わかりやすい例では、ミステリ小説の「読者への挑戦状」がこの類だろうか。物語作品として書かれたものにとって、その虚構性を示唆してしまうことになるのだが、ノベルゲームが「ゲーム」として確立するためには、ある意味かなり素直な方法ではないかと思う。

  • 選択肢制ノベルゲームは「読者」と「プレイヤー」を区別できるか?

選択肢の問題点は、それを選ぶのが生身の「プレイヤー」であるにもかかわらず、それを操作した「プレイヤー」の存在を無視し、「読者」だけを連れて物語が進行するという点にある。
受け手の置かれる立場は、選択肢の現れる直前まではずっと「読者」であり、選択肢に差し掛かったときのみ物語分岐ゲームの「プレイヤー」であるが、それ以降はまた「読者」に戻るのである。「プレイヤー」であることを意識させられる場面というのは非常に限定されていて、ノベルゲームを観賞する際の主要な行為が文章を読むことであるからして、受け手は基本的に「読者」である。「プレイヤー」と「読者」のふたつの立場に常に跨っているのではなく、単に切り替わるだけである。
だから、ノベルゲームを読み物として考えたときに、選択肢の挿入が作品の虚構性を突然意識させるように機能するのであれば、選択肢は「読書の最中に作品世界への没入を妨げる邪魔者」であり、好ましい仕掛けとはいえない、ということになるだろう。

というのが、「読者」と「プレイヤー」という二つの役目を背負う生身の受け手に対して、物語内に配置される選択肢が孕んでいる問題である。しかし、選択肢の機能を否定的ではない仕方で説明することも一応できると思う(演出装置としての機能はここでは考察しない)。
ノベルゲームを「読み物」とみなし、ノベルゲーム体験の基盤は読書行為であると考えれば、選択肢は上で書いたように雑音であり障害物である。だが、ノベルゲームがまず「ゲーム」であるとしたら、話は変わる。

もし、ノベルゲームが「ゲーム」であるなら、「プレイヤー」は「そこここに配置された選択肢におけるプレイヤーの選択が、以降の物語展開を左右するというルールのゲーム」に参加している、ということができる。つまり、読み始めてから読み終わるまでの時間すべてが、ひとまとまりのゲームである。そして、カチカチクリックして文章を読み進め、時々出てくる選択肢から好きなもの選ぶという行為が、(ノベル)「ゲーム」のルールに定められている「プレイヤー」としての我々がなすべき行動である、と考えるわけである。
さらに、受け手の基本の立ち位置が「プレイヤー」であるとすれば、同じく受け手が体験しているはずの、物語を読む「読者」という役割の方は、ゲームのルールの一環として「プレイヤー」が演じることを義務付けられた、仮の役割だと見ることもできるのではないだろうか。「ゲーム」としてのノベルゲームにおいて、「ゲーム」への参加は読書行為よりも先んじてある、ということである。

  • 選択肢制ノベルゲームが「ゲーム」であると仮定すれば、それは一体どんな「ゲーム」といえるか?

さて、ここで、ノベルゲームをゲームとみなしたときに期待される特徴として最初に書いた、

①プレイヤーは参加しているゲームのルールに従っている
②自分でもそのことをちゃんと知っている

という二点を考え合わせると、選択肢における物語分岐(即時的ルート分岐であれ好感度分岐であれ)をノベルゲームのゲーム要素と考えたとき、そこにある「ゲーム」の性質は、次のように表現することができるだろう。
ノベルゲームの「ゲーム」とは、「そこここに配置された選択肢におけるプレイヤーの選択が、以降の物語展開を左右するというルール」の「ゲーム」であり、プレイヤーはそういったルールのゲームに自分が参加していることを知っている。
これではまるで何も言っていないのと同じであるが、とりあえずこういうことである。

「プレイヤー」は、「ゲームに参加する者」としてそう呼ばれる(この文章で僕がそう呼んでいるだけかもしれないけど)。だから、ノベルゲームが「ゲーム」として体験されるとき、それに臨む生身の受け手は「プレイヤー」という役割を持っているといえるはずだ。そうしてノベル「ゲーム」に臨んでいるのである。だとすれば、「我々が参加している『ゲーム』とは、どのようなルールの『ゲーム』なのか?」という議論になるのが、自然なことではないか。このことは、次のように言い換えた方がいいかもしれない。

「それが『ゲーム』としてのノベルゲームであるならば、それはいかなるルールを持っているのか?」

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7/7追記
akinoさんがブログで取り上げて下さいました。記事に対する僕の意見やらはいまは置いておいて、ひとまずはありがとうございます。

ぶらっく ばーど スィぎん ノベルゲームが 「ゲーム」である 単純な理由−Free Novel Games

「犬やら「フィギュアのパンチラ」やらの写真を Blog に載せだして、若干、心配していた」
まったくもって大きなお世話である。