チクル妄想工房

ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

『ウルチモ・トルッコ 犯人はあなただ!』

『ウルチモ・トルッコ 犯人はあなただ!』
深水黎一郎

ブログでほとんど書籍の感想などは書きませんでしたが、僕にはなかなか面白かったので、久しぶりにちょっと書いてみようと思いました。また別の理由もありまして、多分そっちが主です。
ネタバレ有り。


別の理由というのは、先の記事の「読者」と「プレイヤー」の違いを考えるうえで、この本は参考になるんじゃないかと思ったのですね。
感想文よりも、そのことについて書きたかったのです。


読んでみると、確かに「読者が犯人」なんです。まぁ、文句ないです。でも「この本を読んでいる『読者』が犯人」ではない。「犯人はあなただ!」というのは嘘です。要するに、第四の壁を破ることは叶っていないのです。

先の記事で書いたゲームの話をすれば、ゲームに参加するのは生身の「プレイヤー」であるということでした。目の前の営みがゲームであると認識し、まさに自分自身がそれに参加することでしか、その人は「プレイヤー」と呼ばれないのです。
しかし、この本のように、作中に読者を、ノベルゲームならばプレイヤーを登場させることはできます。実際、この本でしていることは、この小説は新聞の連載小説であり、新聞の連載小説であるこれを読んでいる読者がいる、という設定にしているというものです。
でも、当作中に登場する読者というのは、作品の内側の存在でしかない。
「ゲーム」としてノベルゲームをプレイするのは作品の外側の、生身の、現実世界の受け手です。それと同じように、この作品を小説として現実に手にとって読んでいるのは、作品の外側の、生身の、現実世界の受け手なのです。しかし、作中で犯人であると指摘されているのは、新聞の連載小説という「設定」のこの小説を読んでいる「作中に設定された読者」という役、語弊はあるかもしれませんが、いってしまえば登場人物なのです。明らかにこれは現実に本を手にとって読んでいる我々とイコールではない。

主人公の友人、有馬が言うように、「何故不可能なのか、その理由は俺が言わなくてもわかるよな? 簡単に言ってしまえば、読者というのは作品外の存在だということだよ。」という問題をクリアしていない。もっとも、作者自身もこの作品が「作品外」の読者にまで至れていない点を理解していて、あえてこのような記述をしたのかもしれませんが。


ノベルゲームだったら、あまり捻らない素直なやり方で、作品外の、現実世界の、生身のプレイヤーに至ることが、可能かもしれない。そんな気がします。繰り返しになりますが、なぜなら「ゲーム」であるためには「プレイヤー」が必要なのですから、もし歴とした「ゲーム」であるならば、必然的に作品外の存在としての「プレイヤー」を取りこんでいるはずなのです。