チクル妄想工房

ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

僕には『やがて僕の訪れる公園』を書いたという実績というか達成(人の評価はともあれ僕はあれをとても気にいっているから実績で達成です)があるから、それだけの能力(能力というと、人より優れているとか劣っているという話に思われがちだけど、あくまで書くことが可能である(あった)という話と取ってもらえたらよいです)が実際に2012年にはあったわけだから、いまそれと同等のものを目指すというのはそんなに変な意思ではないはず。この間書いた『チャイルドポルノ・パンデミック』も好きだけど『公園』と並びうるかというと、何らかの点で決定的に並びえないように感じる。
完成させることがもっとも大切で、完成しなければゴミだとか言うけれど、『PoCP』もちゃんと完成したのはいいとして、さくっと書くつもりでもそれなりに考えて書いたわけだし、本当の意味でさくっと書いたものはかなりを忘れ去っている。とりあえずこんな僕にしても、もう何作目かであるから、完成を目指すというだけの段階ではないだろうと自分では思ってるし、なにより『公園』を書けたのだから、自分は今、その感覚を目指すというのでいいんじゃないだろうか。というのは、『公園』が「優れている」からその完成度を目標にするという話とはかなり違う。

僕はいくらか前から一人称が面白いと思っていて、一人称が面白いというのは『くらやみの速さはどれくらい』と『電波電波カプリッチョ!』を読んで感じたことで、そのことで『さよならを教えて』も思い出して、それから世界認識のありかたの独特さというのが面白いのだと思っていたのだけど、一人称でなければそういうことをするのが許されないわけでもないんだということを思えた。そろそろ読み終わるんだけども、保坂和志の『小説、世界の奏でる音楽』が面白い本だった。一人称と三人称の区別は大したことじゃないと書かれていたのがおっと思って、というか、この本は全体的に詳しく理解できない本だったけど、考え方の参考になるようなことことはたくさん書かれていたような気がする。僕がしばらく、一人称が面白いと思っていたのも、本当は一人称が面白いという意味ではなくて、それを含む他の何かだったのだろうという気がしている。


もしかしたら他の記事でも書くかもしれないが、セイナルボンジンさんの作品がすごく面白い。『KiTAN』という作品がとくに好きで、やはりあとで書くかもしれないけど、ノベルゲームの効果音というのを考えるのに、この作品はじっくり読めば思考を刺激される。
詳しくはあとで別の記事で書く可能性があるから簡単に書くけど、音というのは現実には何かの音源があってそこから生じているわけで、そこには音が生じる瞬間というのが時間的側面としてある(そして持続があって、音はやがて消える)。これは道玄斎さんが言っていたことだが、映画を考えてみると、映画では音が人物の動作に付随してある。特別な演出意図から音を付加しないというのでなければ、動くと音がする(ように音が付加されている)ことが多い、と思う。そして音というのは、その発生は基本的に繰り返されない、何かが動き音がする、というのはセットであって、それは物語世界にあったひとつの出来事であるけど、映画はそうだがノベルゲームも同じく、物語がその場面のその瞬間に差し掛かったその時点においてしか存在しない。『KiTAN』はそういう表現をノベルゲームでやって、それによって、切り取られた一瞬一瞬から、その一瞬において際立つ音と、対比される周囲の静けさを感じる、それがすごく迫力のあるものになってる。
端的にいって、ノベルゲームにはそういう想像力が欠如していたと僕は想像している。『KiTAN』は、というかセイナルボンジンさんの作品は一般的に考えられているノベルゲームとはちょっと違うし、一般的なノベルゲームがメディアのもつ表現上の制約から「音には音源がある」ということを意識しづらかったというのはあると思うけど、その制約はノベルゲームの世界から「音には音源がある」という(われわれのこの現実の、ではあるけど)摂理をおそらくは忘れさせていたんじゃないか。それが良いか悪いかは別として。