チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

ノベルゲーム制作再開といってよさそうですね

ツイッターに書いて気付いたんですけど、わたしあれなんですね。
終わらない物語を終わらせるためにどうも語り手を殺したくなるみたいですね。
語り手が死ねば物語を終わらせることができますからね。
なにかの事件に決着がつくとかいうことの他にもっと明確な終わりとして語り手の死というものが、書く際のよりどころとしてあるのが気持ち的に楽だったんですよね。たぶん。
しかし少し考えれば、実際は語り手が死んだからといって、作品がそこで決定的に途絶するとは限らないと思うのですけれど。

自分で思い出すのは、「公園」や「チャイルドポルノ」が語り手を殺したようなものですけれど、もっとも「公園」は最初からあの終わりが予定されていましたし、「チャイルドポルノ」は遺書が残されただけで明確な死ではないですが(あれが「死」であったかどうかすら作中では定かではないですしね。)(「チャイルドポルノ」は覚えている限りですと、ラストをどうするかは何も考えていませんでしたね。ああするのが、あの時点のわたしの限界だったのかもしれませんね。)
それでも何らかの形での「語り手の退場」というのを、物語を終わらせるための「手法」として、安易に用いるきらいがあったように思います。
いや、というよりはそのような思想のもとで物語を構築する傾向があったのではないでしょうか。
いや、もしかしたら物語を終わらせる手法として語り手を退場させる、というのでもなくて、物語の終わりに根拠を与えるために……言い換えれば、物語の終わりに際して読者を納得させるため(物語内容についてはさておき、構造上は少なくとも物語を続けるための力が一つ確実に失われたのですから、書きながらわたしが読者にむけて何かしら整合性を示したつもりになったとしてもおかしくはないだろう)の形式として語り手を退場させるのでしょうか?……そうまでしなければ物語は終わらないものとわたしは思い込んでいたのでしょうか?
(12/19追記 この記事書いてた時は気付かなかったけど、『ノベルゲームレビュアーは笑わない』が一番極端な形ですよね。終わりのない無駄話に、片割れが失踪することで強引に終止符を打つという、むちゃくちゃな締め方……)


さて、次作の制作を再開しまして、『潜像』というのが次作のノベルゲーム(サウンドノベルビジュアルノベル?デジタルノベル?)のタイトルの予定なのですけれど、シナリオもだいたい固まってきた感じなので、このままの調子で行けるところまで行って、完成できれば完成させて、調子が落ちてきたならまた休んで……といった具合に進めていけたらいいかと思います。ティラノスクリプトの本も買いましたから今度はもうちょっといけるでしょう。