チクル妄想工房

ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

ノベルゲームの背景写真について

写真を(または写真を加工したものを)背景に使う、という方法はノベルゲームではお馴染みの方法であって、わたしも「ノベルゲームレビュアーは笑わない」を除いた自作品すべてで採用してきました。(嘘でした。「笑わない」でも一部やってました。7/11)
次作「潜像」(完成の兆しが見えずやる気も無くしている)でも、同方法を採るのですが、以前何度か書いてきたように、写真を背景に使うということには困難が伴うことに気付き、頓挫しております。でも、良いカメラを買ったこともあり、見聞きするあれこれからヒントを少しずつ得ている感触があるので、いずれ再開します。



ノベルゲームの写真は、一般的にはノベルゲームの主役である文章に添えられる、背景画像という脇役程度の扱いでしかないのですが、では「背景画像」というのはそもそも何であるか。例えば、よくある背景画像の使われ方を挙げますと、物語のある場面において主人公が公園にいて、背景画像には公園の写真が表示されている、というケース。このとき、公園の写真は「主人公のいる場所が公園である」ことを示します。もっと言えば、焦点人物が、物語が語られつつある時点において、写真として表示された「公園という場所」にいることを示すはずです。
例えば公園という場所が作中に登場するのであれば、次のような写真を一枚、必要に応じて数枚用意して、ひとつの場面だけでなく複数の場面にわたって何度も使いまわすというのが通例ですね。一般的にいって、読者は画面に背景写真が表示されているとき、同時に表示されている文章とそれとを結びつけて解釈しようとするでしょう。文章と背景写真は何らかの関係があるとみなして読む、見る。だから下の様な公園の写真をいっしょに進行している文章と結び付ける。

文章と絵の組み合わせと対応の例として、小説などの挿絵を考えてみます。挿絵の入った小説では、隣のページであったり前後の非常に近いページであったりに、その挿絵と対応した文章のまとまりがある。小説では、文章のいま読んでいる箇所よりも前の箇所へ戻ってもう一度読むこともできるし、前のページの挿絵を見直すこともできるし、そうすることでそれらの対応関係を何度も確認できる。
でも、ノベルゲームの背景写真というのは、小説の挿絵とはちょっと違っていて、どちらかといえば映画とか紙芝居のような、映像が物語(必ずしも文章とは限らない)の流れる時間に従属して展開され受容されるものです。文章を受け取る時点と映像が受け取られる時点が切り離されて読者がどちらも行きつ戻りつすることができ、そうした運動のなかで関連性を見出していく、というものではない。


さて、焦点人物が公園にいる、ということについて考えてみます。背景写真は焦点人物の視覚そのもの(を想定して選定された映像)か、少なくともそれに類似した眺めを表現する。焦点人物が立つ視点場、そしてそこから360度ぐるりと見まわした眺めのうち、たった一つ切り取られた景観が背景写真として表示される。
そもそも背景写真というのは、ノベルゲームに組み込まれた素材である以前に「写真」であります。写真であるということは撮影者がいることを意味します。撮影者というのは、実際にその写真の撮られた場所に居合わせて、カメラを構えてシャッターを押した当の人物のことです。

何作かノベルゲームをしてみると、ノベルゲームの背景写真には採用されやすい構図があることに気が付くと思います。例えばパースを強調した一点透視の構図はとくに頻繁に見られるものでしょう(上の写真)。個々の視対象への注目を控えめにして、景観全体をひとつの風景画のように収めたような構図が多そうだとも言えるでしょうか。他にも、いわゆる一人称の語りに対しては、生身の人が正面を見た視野に近い高さ、角度、等々をもつ写真が好まれそうです。
実際には、撮影者がある場所に居て写真を撮ろうとする際には、写真の撮り方には無数の可能性があったはずですが、背景画像として表示されるのは一枚きりです。「焦点人物が立つ視点場、そしてそこから360度ぐるりと見まわした眺めのうち、たった一つ切り取られた景観」として、無限の眺めからひとつだけ選択されたものが背景画像として用いられているのです。(あるひとつの場所に対して、立ち位置や写す範囲やらを変えて複数枚の写真を用いることもありますけれど、ノベルゲームではそれほど多い例ではないかしら。この文章に対しては例外と言えるケースになってしまうのですが(わたしも似たような表現方法をやりますが)、最初に書いた一般的な方法に限定して論をすすめます。)
こうした画像選択はひとつの説明技術でありまして、部分(一枚の写真)をもって全体(景観全体)を表現する方法ということです。ひとつの視点からの眺めは無限に存在しうるはずですが、そのうちの一個のシーンをピックアップして提示し、360度のあらゆる眺めを含意するものとして、その場所を包括的に表現しているわけです。さらには、焦点人物の近傍空間を視点が移動できると仮定するならば、そこに存在する無限の視点のうちのたったひとつの視点として代表しているとも言えそうです。要するに、映像として現れる「眺め」と、見ている目がどこにあるかという意味での「視点」に関する、二重の提喩表現とみなすことができるでしょうか。
では背景写真はいったい何を「表現」しているのか。表向きとしては、そこからのあらゆる眺めの特徴をうまく表すことのできるシーンを切り取ること、とも考えられなくもなさそうです。が、さらに重要というか本質的なこととして、物語において公園Aと名付けられた場所の景観として提示された背景写真aは「そこが公園Aである」という事実を説明している、と考えることができるでしょう。

公園Aの景観として用いられる背景写真aは、一度そのようにして使われると、それ以降同物語にあっていかなる場面での使用においても公園Aの写真としての意味を持ちます。たしかに写っている風景はそれが写真であるのだから実在してしまっているわけですし、写ってしまっているのですから文章が読まれる際にはその風景はまさに写っているようにして存在すると前提されて読まれるんですが、写っている内容の詳細が何であるか以上に(ちょっと下で詳しく述べてます)、写真aは最初に使われた公園Aの風景であり、以降「現在は公園Aになんらかのかたちで関係する場面である」ことを表現するための装置として画面に表示されるというのが、最大の機能ではないかと思うのです。

「公園Aになんらかのかたちで関係する場面」で表示されると説明した背景写真aを再度張り付けてみる。これは見ての通り写真であるわけですが、この写真aが公園Aと結び付けられて公園Aの風景という意味を担うものとなったならば、以降写真aが背景画像として使われるときに、もはや、ここに写っているまさにこのような風景が、このような在り様として実在する、ということの必然性は、それ以前に見た公園Aの背景との同一性を保持している、すなわち同じ写真を繰り返し見ていることを読者自身が確認すること以上にはないのではないでしょうか? 要するに、ノベルゲーム作品について、現在における一般的な使われ方の背景写真の価値というものは、作中で繰り返し用いられることで生まれてくるものなのではないか、ということです。



見方を変えて、写真aを繰り返し用いるという観点ではなく、写真aはいかにして架空の公園Aとなりうるのかを考察してみます。そのために、場所のフィクション性というものを簡単に確認しておきます。
写真aは実在のどこかの風景を写した写真に違いありませんが、(作品がルポルタージュ等でないものとして)フィクションの世界に登場する場所であるならば、基本的にその場所もフィクションとしてとらえるというのがわたしの見方です。もし公園Aが実在する公園αをモデルにした場合であっても、公園Aそれ自体はフィクションの世界に位置付けられている限りにおいて架空の場所である、と、あまり深く踏み込まずにざっくり考えます。
公園Aが架空の場所であるとすれば、写真aを公園Aの背景写真として使用することは、実在する場所を写した写真を架空の場所として提示していることになります。とすると、その写真が架空であるはずの公園Aであるとして用いられる根拠というのはどこにあるのか(上で書いた「ここに写っているまさにこのような景色が、このような在り様として実在する、ということの作中世界における必然性」という問いに、べつの方向性の考察をしようということです)。もうちょっと詳しく書くと、文章では公園Aに関する場面を書いているが、公園Aという場所は実在せず、「ところで」どこかの公園αという場所があって、実際に表示されているのは公園αの写真である。
写真aに写っている風景が実在する公園αの有するものであることは自明ですが、一方で写真aに写っている風景が公園Aの有するものであるという言い分は、いかなる理由で成立するのか。公園Aには(架空だとしても)固有の環境があります。そして実在の公園αにも固有の環境があります。それらは同一であるのかそうでないのか。似ているのか似ていないのか。
公園αと写真aの関係であれば次のように言うことができます。写真aは現実に公園αを撮影して生まれたのだから公園αの写真なのである。写真aは公園αを撮影したものであるのだから、同時に公園αとは異なる場所を撮影したものでもあることはない。そして、そのことは写真aが公園Aの写真である理由とは何の関係もない。というか「写真aは公園Aの写真である」という言い方はどこかおかしい、公園Aを撮影することなどできないのですから。それに「写真aは公園αを撮影したものであるのだから、同時に公園αとは異なる場所を撮影したものでもあることはない。」のですから、公園Aを撮影したものであるわけがない(そもそも公園Aは架空の場所ですし)。
公園αが公園Aを幾らかモデルにしているといったふうに、ノベルゲーム制作者には公園Aと公園αの在り様を近付けようとする意思がある、と仮定したらどうか。公園Aと公園αは何らかの点で似ているとする。そこで公園Aを公園Aたらしめるすべての要素を抽出したとして(そんな操作が可能とすればですが)、そのうちの100%を公園αも持つのだとしたら、写真aは公園Aを撮影したものと言えるか……というと言えないわけですが、もし公園Aを撮影したとしたら写真aが撮れる可能性はあるでしょう。99%が同一であるとしたら公園Aはほぼ公園αなわけです、恐らく二つの公園を見る人は1%の違いを認識できず、あるいはできたとしても気に留めることなく、それらを同じ公園だと認識するでしょう。さらに98%、97%……と同一部分の割合を減らしていくと、どこかで公園Aと公園αは同じではなくなるのか? きっとどこかの時点で同じではないと認識されるようになるのでしょう。かといって、同じではなくなった公園αの写真が公園Aの写真として使えないかというと、必ずしもそういうわけではない。
ノベルゲームのなかで「公園A」という場所はどのようにして読者の前に最初に姿を現すのかというと、文章によって現れるのですね。文章によって何らかの仕方で公園Aであることを直接指示するか、示唆するのでなしに公園Aという場所は存在しない。もしかしたら物語世界に存在するのかもしれないが読者はそれを認識しません。読者が公園Aという場所が物語中に存在することを知ったうえで、または知ると同時に、写真aが表示され、そこで公園Aと公園αは関連付けられる。
読者は公園αを写真aを通じて知ることになり、公園Aを文章によって知ることになりますが、文章と画像による二つの公園の差異が大きくなっていくとき、それらの情報に矛盾が発見された時点で二つの公園は別物とみなされるでしょう。反対に、矛盾のない限りは公園Aと公園αの違いというものは現れてこない。
写真が提示されれば、少なくとも画像として目に見えているだけは情報として読者に受け取られますので、文章中で公園Aの固有の環境についてどこまで言及しているかが、二つの公園を比較する際のポイントになりそうです。公園Aについて、その場所の環境がろくに語られていなくても、そこはやはり公園Aです。公園Aには固有の環境があると書きましたが、公園Aが公園Aであることは、固有の環境がどのようなものかが明らかになることによって成立するのではなくて、公園Aは物語世界において最初から単に公園Aであるだけです。そう考えると、そもそもの話、公園Aが公園Aを公園Aたらしめる「公園A性」を完璧に備えた、完全無欠の公園Aであることが物語上必要なことなのだろうか。公園Aは物語世界にとってそれなりに公園Aでありさえすればいい、それが公園Aであるということなんじゃないか(現実世界でも同じことが言えるのかも)。「公園Aを公園Aたらしめるすべての要素を抽出」なんてことは、現実的には意味をなさない空想の話にすぎないんじゃないのか。
以上から考えると、公園Aという場所が様々な固有性を持っているのだとしても、公園αを撮影した写真aに写っている風景は、公園Aを物語上想像しうる他の場所と区別して公園Aと同定できるだけの最低限の要素さえ共通するなら(「公園」であるとか、日中もほとんど人がいないであるとか、住宅地の真ん中にあるとか)、公園Aが公園Aであることに大して関わりのないような細かな要素については満足していなくても構わないんでしょう。加えて、公園αを撮影した写真aに写り込んだ、物語上何の価値も持たないたくさんの情報、公園Aが求められる「それなりの公園A性」からあふれた過剰な情報があってもかまわないのでしょう。公園αを写した写真aが公園Aの写真として採用される根拠というのは、そんなところではないでしょうか。
ちなみに、ここで書いた見方はノベルゲームの鑑賞者は皆持っているはずで(とわたしは思っている)、ノベルゲームの観賞のされ方として、映っている背景写真を、まさしく見えているそのままの在り様として物語世界でも現れているとみなして受容する、という習慣がたぶん無いのです(この記事では書きませんが、音についても同じことが言えます)。公園Aとして必要なだけの情報を取捨選択をしているというか、何かしら足りない分や余ってしまった分も補ってというか無視して見て、読んでいる。背景画像の「フリー素材」が配布され多くの人に利用されているということが、ここで書いたことの証左であるでしょう。



最後に、撮影者というものについて考えてみます。写真の撮影者というのは生きている人間であり、実体としての体を持っております。撮影者は写真を撮るときにカメラを構えるわけですが、カメラを構えたときの目の高さ、仰俯角、姿勢、その他あらゆるふるまいは、写真の写り方を決定するだいじな要素です。それらは少なからず撮影された写真に現れてしまうものです。ただ、ある程度ズームするだけで生身の人の視野というものからはかけ離れてしまうし、意図して撮影者の身体性を消去する技法もあるだろうし、逆に強調することもできるだろうし、当てはまらないケースも多いかもしれませんが。

例を挙げます。この写真を撮影したのはわたしではなく他の方なのですが(スクリーンショットを張って引用する形での紹介とします)、わたしの関わった「ねこサガ」という作品は、いくつかの場面では、主人公の猫の視点を視覚的に表現するために、カメラの高さをねこの目線の高さに合わせて、あたかも猫が眺める風景を写しているかのように撮っています。

これは自分の撮ったものから適当に選んだものですけど、撮影者が歩道橋の上から道を見下ろしていることが一目瞭然ですね。
ノベルゲームの文章は、理由はさておきいわゆる一人称視点の語りが多いのですが、一人称ならば、語り手≒撮影者、すなわち背景画像が語り手の視点から見た眺めに近いものとして受け取られやすい、と思う。上の方で、「そもそも背景写真というのは、ノベルゲームに組み込まれた素材である以前に「写真」であります。」とわざわざ書いた理由は、背景写真を、ノベルゲームというメディアを構成する表現要素のひとつであるのみでなく「ただ単に写真でもある」という見方を、読者は通常しないものと感ずるのです(自分がずっとそうだったという事でもあります)。そうして、背景写真に現れてしまう撮影者の身体性を(意識に上る上らないを問わず)読み取った読者は、それを撮影者の姿勢や運動とみなすのではなく、物語の語り手のそれへと重ねようとする。「ねこサガ」の例がまさしくそうです。写真を撮った撮影者がいるはずなのに、読者はそのことを関心の外側に置き、やや変わったアングルであればなおさら、それが語り手の視点を表現しているとして読む。逆にいえば、制作側としてはそのような読者の姿勢を逆手に取った表現が可能であるということで、「ねこサガ」はそれを利用したわけです。

ひとつ当たり前のようだけどふしぎな例を挙げます。近所のどこかそのへんを、走っている車の後部座席から撮ったやつなんですけど、シャッタスピードを若干落として撮ったから見ての通りブレています。これ1/2000秒とかで撮ったらこうは写らないわけです。たとえばノベルゲームの「車に乗っているシーン」でこの写真を使うというケースを想定すると、車に乗ってるっぽい、と読者に思わせるのは、この写真がブレていることで、ブレを生んでいるのは、シャッタースピードがやや遅めだった、という撮影の条件によるわけです。1/2000秒で撮ったらもっとくっきり写ってしまって、どこから何を撮ったのかよくわからない写真になっていたと思いますし、車に乗ってるっぽい雰囲気はだいぶ弱まったはずです。
つまりスピードのある乗り物に乗っていると、そこから見える景色はブレる、それも(視点となるわたしから見て)近くのものほど速く動いて遠くのものほど遅く動くから、近くのものほどブレが大きく遠くのものほどブレが小さい、という普段の日常経験からそう感じるのです。では現実にわたしたちは動いているときにブレた風景を見ているのかというと、それを意識できることもあれば意識できないこともあるのですが、少なくともこの写真のような残像のかたまりが固定されたものとして認識してはいないでしょう。それでも観察者との相対速度が大きいほど対象はブレる、ということを常識として兎に角わたしたちは持っているし、静止画像においてはその読み方に従って運動を読み取る。そもそも相対速度によるブレというのは、写真のような「短い長さを持った映像」としてとらえられた対象の輪郭が空間上の特定の場所に定まらないで引き延ばされたような様子をいうわけで、写真として生まれた映像というのは間違いなくカメラの機構に依る現象なのです。これがノベルゲームの背景写真として取り入れられたとき、「撮影者」(そしてカメラ)は消え失せて、かわりに、進行中の物語を語りつつある何者か(「撮影者」とは本来何の関連もない)の見ている「眺め」として受け取られる。すなわち(具体的な状況は文脈によるとして)高速で移動している語り手の見ている眺めであると。
ふだんものを見るときに利用しているわけでもない「シャッタースピード」というものが、この写真を「車に乗っている景色」として説得力あるものにしているという事実が面白いと思ったというか、ノベルゲームをやっていてこの写真の様なブレブレの背景画像が使われているのを見て思いついた話でした。

もうちょっと話題がありますので、気分の余裕があるときに続きを書くかもしれません。