チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

ぱすてるメモリーズ 1話

ぱすてるメモリーズの1話を見ました。
ものすごく面白かったわけではありませんが、書き残すべきことがあるかなと感じましたので、1話だけかもしれませんが、記事にしておこうと思います。

視聴後に調べたところ、本作はソシャゲが原作とのこと。原作を知らないで見ましたが、この記事を書く前にインストールしてちょっとだけやってみました。こちらに関しては、そこまで書くべきことも無かったかと思います。アニメの視聴を原作と関連させてもいいのかもしれませんが、1話に限って言えば無視してアニメのみについて書いてしまったほうがいいかなと思いましたので、そのように書きましょう。

ごちうさのパクリだのパロディだのと言われているようで、わたしもその作品は未視聴だったので1話だけ見てみました。まぁ、1話だけじゃわかりませんでした……)


どんなアニメか、彼女たちは何者か

結論から言いますが、彼女たちは「美少女キャラの亡霊」といえる存在ではないかと、そんなふうに見ておりました。オタク文化の衰退した秋葉原という土地に憑く地縛霊とでもいったところです。

オタク文化は衰退してしまっているので、彼女たちは生きた存在ではありません。なぜなら、彼女たちは「美少女キャラ」なのですから、生きていれば、あのように顕現するはずがなく、死んでいるからこそ現れている。
亡霊であるすなわち存在するはずのない存在なのに、生きているかのように振舞っている。とうぜん、そこには理由があるはずですね。
というわけです。詳しく書いてゆきましょう。


美少女がたくさん働いている「うさぎ小屋本舗」

まず、オタク文化の衰退した秋葉原という舞台設定なのに、トップキャラがピンク髪という時点で猛烈な違和感しかありません。
なんでお前はそんな不自然な髪の色をしているのか。
言うまでもないことです。彼女が美少女コンテンツのヒロインだからです。

「うさぎ小屋本舗」は元グッズ店で、いまは併設された喫茶店をメインに経営しているということでした。
しかし、グッズを目当てに来る客が多いとか少ないとか、そういう次元ではありません。うら若い美少女たちが大勢で、フリフリのコスチュームで働いている喫茶店。これは明らかにメイド喫茶など何らかのコンセプト喫茶店の様相です。オタク文化は衰退したはずなのにです。
加えて、大勢の美少女がワイワイやるという、ある種の美少女コンテンツの系統としての見た目を保つ設定としても機能していることがわかります。

キャラ被りしないようにそれとなくバラけさせた見た目や性格などの個性、設定。美少女コンテンツなら常套の手法でしょうが、ここはオタク文化の衰退した秋葉原。そんな女の子たちのひしめく「うさぎ小屋本舗」は異次元空間でしかない。
どの子からもそこはかとなく感じられる「どこかで見た感」、個性の微妙に足りていないような感じ。それを目立たせてしまう、1話の脚本構成と大人数に押されたとでも言いたそうなキャラ描写の不足。
彼女たちが果たして「リアルな存在」と言えるかどうか。こうした特徴は、彼女たちが「美少女キャラの亡霊」であるゆえではないか。

すなわち「うさぎ小屋本舗」とその従業員たちは、失われたはずのオタク文化や美少女コンテンツの残滓だと言えるのです。(秋葉原オタク文化という文脈だとしても、メイド喫茶と二次元美少女コンテンツを単純に一緒くたにするのは悪い筋かもしれませんが……。)
いまの秋葉原に彼女たちの安寧に生きられる場所はありません。小さなグッズ店兼喫茶店という安全地帯(幽霊屋敷ともいえる)があって、フリフリコス美少女従業員としての地位を得て、ようやく生き延びているという状況なのです。


生きるために

秋葉原は、オタク文化が衰退し、残された数少ない店舗もひとつまたひとつと閉店しつつあるという状況です。放っておけばいずれすべての店舗が消滅し、美少女コンテンツ趣味の人もいなくなり、恐らく「うさぎ小屋本舗」の客足も完全に途絶えて、彼女たちはもはやこの世に留まることはできなくなるでしょう。

この辺に関しては、本作、ウィルス退治なるものが大事な設定としてあるようですが、1話ではほとんど触れられていなかったので、1話のメインストーリーである本探しに焦点を絞って書いてゆきましょう。

1話のストーリーは、交流ノートに書かれた「『うさぎさんカフェへようこそ』が読みたい」という女の子の願いをかなえるために、従業員たちが東奔西走するというお話。秋葉原にはまだ数件書店が残っているので、彼女たちは手分けしてそれらを当たります。
そういう単純なお話です。

彼女たちは、自身が何らかのオタクであるということもあって、オタク文化自体に対してもそうですが、それを楽しんできたオタクたち個人の思い出というのをとても大切に考えています。だからひとりの客でしかない(名前を覚えるほどの常連ではおそらくない)女の子の願いであっても真剣にかなえようと奮起します。
アキバ系オタク文化の衰退した後でも、女の子のように慎ましくたしなんでいる人もいるのです。オタク文化の衰退というのは、そんな彼らの思い出の根源が失われてしまうということでもあります。だからオタク文化を守りたいという気持ちや行動は、それを楽しむ人々のための善であるのです。そんな価値観が、明確に表明されています。

ところが、本探しに関しては、彼女たちにはもうひとつの行動原理があります。
なにかというと、彼女たち自身の生存です。本探しは、消滅寸前のオタク文化を守ることによって自分たちもまた生き延びたいという、彼女たちの生存戦略だというのが、1話のストーリーのもう一面です。

風前の灯火であるオタク文化を孤独にささやかにたのしむ人々の思い出を、消えゆくままにせずどうにかして守りたいという善意。彼女たちの行動にはそれが確かにあるのかもしれません。しかし、この善意というのは(事実それが相手にとって善だとしても)表向きの有様であって、そこに自分たち亡霊の生存の正当性を負わせている、というわけです。

ただ、秋葉原オタク文化が完全に復興したときには、亡霊としての彼女たちはおそらく存在できなくなってしまうでしょう。オタク文化が消えゆく最中にだけ亡霊として現れることのできる「美少女」、それが彼女たちなのだと思います。

さて、なぜ本探しが彼女たちの生存に繋がると言えるのか。それは彼女たちが「モノ」に憑く霊でもあるからです。

 

モノに憑く霊

彼女たちは秋葉原という土地に憑く霊だと最初に書きましたが、のみならず、彼女たちにはもうひとつ依り代があります。
既に書いてしまいましたが、1話の表現に従っていえば、コンテンツとして流通している「モノ」です。

茶店は元々はグッズ店でした。物置には無数のコレクション(かつての商品?)があります。店長は漫画を参考にして彼女たちの着ている制服をデザインして着せています。そして1話で探すのは紙の漫画です。
物置の品々を見て目を輝かせていた様子からも、彼女たちがモノの思い出を大切にしてるということが見て取れます。

つまり、彼女たちが直接に守ろうとしているのは「モノ」なのです。
1話からわかるオタク文化というのは、要はコンテンツが物理的な物として流通して、それを基盤にしてオタクたちが観賞したり収集したり、思い出を作ったりという思想なのです。

物理的な「モノ」を所持したい、収集したい、それを目の前にして蘇る思い出がある。こういうことは事実だろうし、わたし自身気持ちはよくわかります。
けれども現在のコンテンツの消費というのは、動画配信だの電子書籍だので済ませようとすれば済むし、SNSで作品の感想を共有するほうがメインの楽しみになったりさえする(ちょっと関係ない話だけど)。コンテンツ享受の段階に、モノは必ずしも介在しなくなっています。

それでも「モノ」なのだと。
少なくとも1話はそのように書かれています。
コンテンツとは「モノ」である。そして思い出は「モノ」から生まれる。なにより「うさぎ小屋本舗」で売っているグッズの存在意義は、そういった「モノ」であることそのものでしょう。

この作品で(少なくとも1話で)書かれているのは、そんな「モノ」に対する思想です。

この世界でいう秋葉原は、単にオタク文化の中心地だったというだけではありません。
実店舗が消えたということは、モノを売る店、その場で買える店が消えたということです。そして生き残っている小さな店もぽつぽつと閉店している。それによって失われるのは、手に取って存在を確認できる「モノ」であるということです。この現状は彼女たちの本探しが困難を極めていたことからもはっきりと読み取ることができます。

 


2話以降がどういう話になるのかわかりません。ここで書いたこととは全然関係ない話になるのかも知れません。きっと、ウィルス退治の意味によって作品の本当の思想が見えてくる、といったところでしょう。1話だけで完璧にあれこれ言えるような構成ではないです。
それでも、とにかく第1話の中に、なかなかいい話があったかなという事です。