チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

ぱすてるメモリーズ 2話

結論を書きます。クソアニメです。じゃなくて、
一番のポイントは、1話にて現実世界で起きた問題の解決に、ウィルス問題が直接的に関与していないということ。

「うさぎさんカフェへようこそ」がまた読みたいという女の子の願いをかなえるために、単行本を全巻揃えることが1話の目的だったはずです。
同時に、作品の思い出が消えてしまうという問題も描かれていたかと思います。ウィルスに作品世界が侵されることによって作品世界が破壊され思い出も消えてしまうという設定です。
詳しくは後述しますが、これは現実に起きている出来事ではありません。

さて、「うさぎさんカフェへようこそ」を全巻揃えるという1話で提示された目的は、2話で達成されました。
いかにして達成されたか、ということが重要です。
マザーウィルスを退治して世界を元通りにしたことによってでしょうか。

違います。

1話でカフェの従業員が秋葉原中を走り回ったことと、SNSで投稿が拡散されて提供者が現れたことによって、達成されたのです。

ここが2話のポイントです。では詳しく書いてゆきましょう。

 

その前に、今回は先に疑問点を書いておきます。

 

疑問点

  • 作為的なクソ脚本とガタガタ人物作画

作品世界に入ってからの話は極めてくだらないものでした。子供向け変身ヒーロー・ヒロインものみたいな展開だけど、ものすごく大雑把だしキャラのやりとりも最悪レベルの寒さです。
また背景の丁寧さに比して人物の絵があまりにも雑だったのも非常に印象的でした。人物の絵にも動きにも見所が一切ない。
絵の方はどうだか知りませんが、脚本は明らかにそのようにわざとクソとして作られているでしょう。といってもどういう意図でそうしたのかはよくわからないです。単に悪ふざけという本作のスタイルに沿ったやり方なのかも知れません。

言うまでもなく、すべてを真実大真面目にやってこうなってしまったと見れば、こんなものは酷すぎますから即切りです。脚本も絵もきっと作為的なものだと考えて見るしかないです。

※(1/18追記)ツイッターで検索して、不安定な作画のせいでごちうさのパチモン感がすごい、みたいなツイートを見かけてなるほどなと思いました。パロディやるだけじゃなくパチモン感を出すためにあえて人物作画を雑にしたというのは納得のいく理屈ですね。そもそも彼女たちが古今東西の「美少女キャラ」のパチモンみたいな存在ですし。

 

  • メンバー選出意図が不明

メンバーが12人いて、キャラが被らないよう配慮されているとなれば、自然な発想として作品世界に向かうメンバーはその都度「選出」されると考えます。あの大人数は要するに美少女のレパートリーであるわけですから。
しかし2話で彼女たち3人が選ばれた積極的な理由があるのかどうかはやや疑問です。
原作の初期メンバーだから? 同様の理由で1話で最初に登場させたので続投した? おそらくそんなところではないかと思いますが、いずれも必然性はなさそうに思えます。

もちろん、この点については次回以降の選出方法によりはっきりしてくる事でしょうから、初回で判断するのは早すぎるとも言えます。

 

  • これらの疑問点は、一見たんなる詰めの甘さとも取れる

2話は(1話もだけど)全体的に極めて雑です。
それゆえ、ぱすてるメモリーズの「違和感」を、意図的な仕掛けだったり作品の思想の現れだったり、読み解く価値のあるものとみなしていいのか、それとも単なる「失敗」と見てしまうべきなのか、非常に心配になってきております。はっきりと意図的だとわかるクソはいいのですが、そうではない微妙な乱暴さに対しての評価に迷うのです。

はたして、このアニメの雑さが、どこまで計算ずくなのか、計算ずくでなくても作り手の信念に基づいて現れたものであって一貫性が保証される、そういう類のものであるか。それは視聴者として見極めるべき点です。作品に対する信用と、以降の視聴態度にかかわる問題です。

とりあえず、今回は判断は保留にしてまともに書いてゆきます。

 

ということで、前置きを終わります。

 

以下本文

ウィルスは作品世界を壊すか

設定上は、ウィルスに感染することで作品世界が壊れ、現実の人々からも思い出が失われるという事になっています。
しかし、もしウィルスを倒すのが作品を救うための解決策なら、1話でなんのために必死で本を集めたのでしょうか。もちろん集めてほしいという願いがあったから、作品の思い出を守りたい彼女たちは集めることに決めたのかも知れません。ですがそんな問題ではないのです。なぜそれを1話で描く必要があったのかという事です。
最初に書いたように、現実世界に対するウィルスの直接的な影響は描かれていません。漫画本が黒くなったような表現があるだけです。

ウィルスによって作品が失われるというのは、わかりやすく言えば「嘘」です。
漫画本がなくなったのは、「うさぎさんカフェ」が絶版になって、秋葉原中の書店を探し回っても全巻揃えられない状況だったからです。
そんな中でも、「うさぎさんカフェ」がまた読みたいという思いを持った人がいたことこそ注目すべき事のはずです。
最後にはSNSで情報が拡散して、フォロワーの誰かに1巻を提供してもらったことで全巻揃えることができました。ここでも、過去の作品を懐かしがる人が大勢いたこと、彼らの協力で目的が達成されたことが重要です。

以上が事実として描かれたものです。
1話の最後に誰かが言っていたように、「大切な思い出は消えない」のです。

一連の出来事にウィルスは何ら関与していません。
わたしが思うに、ここが2話の一番のポイントです。超現実的なことは何も起きていないのです。


「あっち」と「こっち」

2話でようやくきちんと描かれましたが、彼女たちには現実世界と作品世界を行き来する能力があります。そして、その扉となっているのが「うさぎ小屋本舗」です。

作品世界と現実世界、「あっち」と「こっち」を行き来できるのは、彼女たちとねじれウサギであり、彼らには共通した特徴があります。「あっち」の性質と「こっち」の性質を併せ持っているということです。

彼女たちは「美少女キャラの亡霊」/「生身の女の子」という二重性を持ちますし、この物語の主役として「ウィルスを退治する戦士」/「喫茶店で働く女の子」という二つの立場を持っています(正確にはこれは二重性を持つがために与えられた役割で、ここで挙げるのは順序が逆ですが)。
ねじれウサギは「動いて喋る謎の生物」であるけれど/かつては「うさぎ小屋本舗のマスコット」でした。
これらは前者が「あっち」、後者が「こっち」の性質と見なすことができます。
こうした二重性を持つために、彼女たちは「あっち」と「こっち」を行き来できるのです。

そして、うさぎ小屋本舗はそんな二重性を持つ者たちのたまり場、住処になっています。
また「美少女キャラの亡霊」である彼女たちと秋葉原の人々が、ともに安定して存在し接することのできるほぼ唯一の場所でもあります。
うさぎ小屋本舗は「あっち」と「こっち」との狭間で、両方の世界の法則が共存できる場所なのです。

なぜかと言えば、うさぎ小屋本舗自体が非常に特殊な場所であるからです。
まず、明らかに「メイド喫茶」/だけど「普通の喫茶店」をかたっています。さらに、視聴者のいる「現実」と/ぱすメモ世界の「現実」があることを前提し、「オタク文化の盛んだったころの秋葉原」と/「オタク文化の廃れた秋葉原」を対応させるならば、それぞれに繋がる要素として「アニメグッズ店」/でありながら「喫茶店」も併設している、という特徴もあります。
ゆえにうさぎ小屋本舗は、作品世界と現実世界の境界となり得ているという訳です。


彼女たちの見ているもの

ところで、秋葉のオタク文化が衰退したという状況は、現実の出来事として描かれています。実際に秋葉原からは実店舗が消え、数多くあったオタク系の雑誌も廃刊、漫画本はなかなか集まりませんでした。
これを1話2話で語っていたのが誰かといえば、うさぎ小屋本舗で働いている彼女たちです。

彼女たちは「あっち」と「こっち」の両方を行き来でき、両方の世界の風景を見ることのできる存在です。いまの秋葉原で、オタク文化の衰退が現実世界と作品世界の両方に起因することを知っており、さらに個々の作品を守るための手立てすら持つ、唯一の存在です。

作品世界と現実世界、「あっち」と「こっち」は明確に分けられています。ウィルスが作品を人々の記憶から消す力を持つとしても、直接侵略しているのは現実世界ではなく作品世界の方です。作品世界から現実世界には直接干渉できないし、逆に現実世界から作品世界へも干渉できません。このことは、彼女たちが両世界を行き来できる能力を持つがゆえに戦っている、という構造からして自明でしょう(少なくとも今のところは)。

オタク文化の衰退の原因は、設定上はウィルスによるものです。ウィルスは「あっち」の存在ですから、戦うことのできるのは彼女たちだけです。もし本当にウィルスが作品を破壊して思い出を消しているならば、その理屈を理解しうるのは彼女たちだけという事になります。
秋葉原の人々は現実世界しか認識できませんから、彼女たちの知る理屈は通用しません。彼らにとってオタク文化の衰退の原因はウィルスではないのです。
2話の主旨はここにあります。

1話は完全に現実世界の出来事で「現実的」な出来事です。(あの作品世界での)現実の出来事を、(視聴者のいるこの世界という意味での)「現実」と同じ仕方で理解できる秩序のもと起きたものとして書いている、という意味で「現実的」です。
繰り返しますが「超現実的なことは何も起きていない」のです。だからウィルスは世界を壊していないと言えるのです。

翻って、2話はまさにその超現実の世界です。超現実の作品世界で、ウィルスが作品世界を破壊し、結果現実世界では思い出が消えようとしています。彼女たちにしか認識できない事象を描いた、彼女たちにしか理解できない法則によって成り立つストーリーです。


彼女たちの見ているものだけがある

1話2話とも物語の視点は彼女たちにあります。1話は現実世界、2話は作品世界の話でしたが、ふたつの世界は彼女たちにとって容易に繋がる世界であり、双方をともに自然な体験として語ることのできる身体を彼女たちは持っています。
けれどもふたつの世界には明確な区別をしなければなりません。現実世界のみに身を置く人間には、作品世界に属する物事を知ることはできないのです。ウィルスなど存在しないし、ウィルス退治が作品を救う方法であるとは、誰も考えはしません。

ぱすてるメモリーズは、「あっち」側を認識できる彼女たちの視点から描かれた物語です。
言い換えると「こっち」側だけに属する者の視点による描写がない世界です。

世界は2種類あり、彼女たちの視点からはその両方を認識することができます。「あっち」を知る者は、「こっち」だけを知る者の言葉を語ることはできません。「あっち」と「こっち」をともに知ることで真実が見えることを理解しているので、「あっち」をふまえて語る事しかできないのです。

作中では、秋葉原にいる「生きた人間」の声や生のすがたというのは、ほとんど出てきません。
1話では残された数少ない店舗で、2話ではうさぎ小屋本舗の客として。またSNSや交流ノートの書き込みとして、わずかながら確認することはできます。現実世界に生きる彼らの見ている風景は、そこからうかがい知れるのみです。

であるとすれば、果たしてぱすてるメモリーズの世界の風景は、いったいどの程度「現実的」な風景といえるのでしょう。どこからどこまでが現実の風景なのでしょうか。