チクル妄想工房

ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

ぱすてるメモリーズ 5話

最初は、なんて空っぽな回だろうと思いました。5話の内容は言うなればちまりの成長譚なのですが、そういった表層はぱすてるメモリーズにおいては意味を持たないだろうと考えていたからです。本作品の各話のストーリーそのものの分析には元々興味はありませんでしたし、視聴直後は今回ばかりは感想が書けないかなと諦めていました。
けれども、あれこれ考えているうちに、今回もいくつか気になる点が見えてきました。

結論から言うと、ちまりの心情描写に終始していたという点が、5話のポイントかなと思います。


本題に入る前に、4話の補足をしようと思います。

 

4話の補足

作品の価値について

4話では、「みにばす!」の本はおもちゃと一緒に無造作に箱に放り込まれていました。本の扱い方としては普通あり得ないことです。そのうえ、作品設定を聞いただけで内容を知らなかった従業員からは変態ラノベ扱いされています(実際に読んでみることで最終的に評価は引っくり返りますが)。
一方で、店内で客に提供するための本はきちんと棚に陳列されています。店長の指示なのか、従業員も客も興味を示す人が少ないであろう、ハードカバーの普通の本や、中身は写真か絵画と思われる額も飾られています。
1話では、「うさぎさんカフェへようこそ」は何冊も手に入る巻もあれば、一冊も見つからない巻もありました。同じ巻が何冊見つかろうが、合計でどれだけ大量に集まろうが、全巻揃えるという目的を果たすまで本探しは継続されます。
彼女たちが救ってきた「うさぎさんカフェへようこそ」も「薔薇色の乙女」も、それを好きでいる人がいて、その人が作品を再び求めたからこそ、従業員の目に入り、ウィルスから救われたのだと言えます。

こうした描写からは、コンテンツあるいはそれを提供するためのモノの価値というのが、恣意的に決められていることが読み取れるのではないかと考えます。

「うさぎさんカフェ」は全巻揃えることが重要なのであって、同じ巻が複数あってもあまり意味はないのです。棚に陳列するときに同じ巻を3冊も4冊も並べるでしょうか。通常はすべての巻を1冊ずつ並べるはずです。これは、数の多少により価値の大小が定まるということです。漫画を揃えることに限らず、収集物の価値がその希少性により左右されるというのは一般的なことです。
作品を救うというストーリーにしても、どんな作品であれ、従業員たちの目に留まらなければ忘れられていく道をたどるだけです。目に留まったとしても、従業員がその価値を知らないならば、「みにばす!」のようにガラクタと一緒にしまわれたり変な作品として捨て置かれてしまうかもしれません。

本作の設定として、秋葉原からオタク文化が消えたという出来事は、「全ての作品」が失われつつあることを意味します。しかし彼女たちは「全ての作品」を救うことはできないし、救おうともしていません。明らかに個人的な事情から作品の価値を定め、救うべき作品を選んでいます。

 

12人という人数について

12人というのは大人数ですが、これだけ揃えるのには理由があるでしょう。
まずは、以前も書きましたが、美少女のレパートリーとして必要であったこと。そして、各話の動機として活かされているように、どんな作品でも誰かが知っている、好きである、興味を持つ、というオタクの集合的知性としての機能があります。つまり、どんな作品でも救える可能性があるということです。
他にも、3話の感想でもちょっとだけ触れた話題ですが、作品の好みも接し方も、鑑賞体験から受け取る価値も、個人によって様々であることの表現でもあります。同様に、オタクたち自身の個性も人それぞれです。一口にオタクといっても一人一人は別の人間ですから、仮にその性質に何かしらの共通項があるのだとしても、当然いろんなひとがいるってことです。

 

では、本題に入りましょう。


本題

ちまりの心情描写しかしていない

5話はこれまでの話とくらべて決定的に異なる点があります。全編通してひとりの登場人物の心情描写しかしていないという点です。ちまりの心情とその変化以外に、何ひとつと言っていいほど内容を持たないのです。非常に徹底しています。

物語の動機として、ちまりの内面的な問題がありました。ちまりは自分がウィルスとの戦いで仲間の足を引っ張っているのではないかと自信を無くしています。その自信の無さは日常のコミュニケーションにも影響し、将棋の相手をしてほしいというイリーナの依頼を拒否してしまいます。そこから冒険が本格的にスタートします。
簡単に言えば、ちまりの内面の問題を解消するのが5話のストーリーです。
ちまりが自分など役に立たないだろうと考えてイリーナの誘いを断ると同時にウィルスが現れ、作品世界での冒険を経て、成長し、現実世界に帰還します。そして、再びイリーナと将棋を指すシーンに繋がります。5話の設計は比較的はっきりしています。
従業員たちを「美少女の亡霊」と見なすならば、彼女たちの「成長」を描くことはわたしの想定からは外れるのですが、5話の内容を考えると筋は通っています。

ちまりの問題は、単に自信が無いだけで、人格に欠陥があるわけではないし、彼女の果たすべき役割を全うできていないということもありません。彼女の行動が周囲を巻き込む重大な問題を引き起こしたわけでもありません。
5話ではちまりの自分自身への評価、チームの中での役割の再確認、そういった内的な問題のみが取り上げられ、最終的には解決します。その過程は、客観的には特別な事件を伴わず、ウィルス退治という日常の習慣のなかで、彼女は自らの課題を進展させる切っ掛けをさりげなくつかむことになります。


5話における鑑賞者と作品との関係

一人の登場人物の内面にフォーカスして物語を構成するというのは4話までとは明確に異なる態度です。4話までは鑑賞者の作品との接し方、作品がもたらす鑑賞者同士のコミュニケーションといった話題に注目していました。その中で、個々の作品に対して特別な思い入れを持った人物が必ずいましたが、特定個人の内面を掘り下げることはなく、内面的な変化を緻密に描くということも無かったと思います。
ところが、5話は状況が異なります。ちまりと「しょうおうのおおしごと」との間に深い関係はありません。ちまりが「しょうおうのおおしごと」の世界に出向くことになったのは、たまたま目の前に知っている作品が現れたことが理由です。ちまりに限らず、「しょうおうのおおしごと」に格別の思い出を持つ人物は誰一人登場していません。5話の物語の動機は「しょうおうのおおしごと」という作品の側にはなく、ちまりの内面的問題にあります。

言ってしまえば、扱われる作品は「しょうおうのおおしごと」でなくてもよかったのです。「しょうおうのおおしごと」という特定の作品と、そのファンとの関係は、5話のストーリーの根幹には含まれていないのです。

そうであっても、5話もこれまでの回と同じように、鑑賞者と作品との関係はきちんと描かれていたと言えます。5話で表現されているのは、作品世界での冒険を通じて、ちまりが成長する様子でした。つまり、作品を鑑賞するという体験により、鑑賞者が何かを学んだり、人格的に成長したりするという関係が、5話では語られているということです。


ヒロインはまいちゃん

今回の作品世界では、戦闘の主力を担っていたのは従業員ではなく、ゲストキャラの少女でした。詰将棋という特殊なルールで挑んでくるウィルスに、ちまりも他の二人も打つ手がなく、唯一戦えるのが、作品世界の登場人物である「しょうおうのおおしごと」のヒロイン「まい」でした。マザーウィルスを倒し、作品世界を救うのも、まいの力によってです。従業員の仕事は将棋(チェス、トランプなどもいましたが)で勝負を挑んでくるウィルス以外の雑魚を排除し、主力戦闘員のまいをサポートすることでした。


ちまりの成長とは

ちまりの問題と絡めて考えてみましょう。普段の戦闘では、渚央と南海が前衛、ちまりは後衛のサポート役でした。2人はちまりのサポートを頼りにしているのですが、ちまりはそうは思っていなく、自分は役立たずで足手まといだと考えています。
今回の作品世界では、相手の主力と戦えるのがまいしかいないため、3人ともサポートに回ることになります。ちまりにとっては普段通りの役割のはずですが、彼女は無力な自分に焦りを感じているため、積極的に前に出て戦う役目を買って出ようとしますが、ことごとく失敗に終わります。一方、渚央と南海は自分の役割を理解し、まいのサポート役として適切に仕事をこなそうとしています。

ちまりの失敗には、彼女の能力的な適性を表現する意図もあったのでしょうが、別の意味もあるはずです。ちまりは自信こそ失っていますが、仲間の評価からすれば、サポート役としては実際に有能です。ゆえに成長描写において、先頭に立って戦う役目で成功体験をするべきではないのです。

普段の彼女に重大な欠落の無いことが重要です。ちまりは物語的に決定的な変化を求められてはいませんし、彼女自身もそれ自体を目的とはしていません。普段からパーティ内で十分役に立っているサポートメンバーとしての能力を、他者からの言葉によって確認し、今の自分に自信を持つことがちまりには必要なのでした。
ですから、5話では普段と同じ役割を与えられ、普段と変わらない仕事を遂行することが求められたのです。


作品鑑賞の体験は個人的なもの

5話で作戦の中心人物となるのはゲストキャラであるはずのまいでした。登場シーンでは、従業員の3人が詰将棋亀に襲われているところに颯爽と現れ、亀の群れをなぎ倒してゆきます。敵側の主戦力である亀やマザーウィルスに対抗する力を、まいだけが唯一持っていました。従業員たちはまいをサポートすることが役目です。5話で従業員のうちから主役として抜擢されたちまりもその一人です。彼女たちは手助けはするけれど、ヒロインはあくまでも登場人物であるまいです。
5話のこの配役には重要な意味があります。作品鑑賞という体験と、サポート役に徹する=(作品世界で)主役として活躍しない、ということが重ねられています。

ウィルスとの戦闘に独自ルールが設定されているのには、従業員を戦闘から排除するという機能があります。世界独自のルールで戦えるのはその世界の登場人物のみです。将棋は現実世界にも存在するゲームですが、一般人である彼女たちがまいと同等の戦力となることはできません。だから機能としては世界独自のルールのようなものです。
それは「あっち」と「こっち」を分けるルールです。5話では、戦闘力を発揮できない従業員たちは、サポートとして一応参加しているとはいえ、自分が守れないルールによって行われるゲームに臨むときの立場は傍観者です。今回の彼女たちは、そしてちまりは作品の鑑賞者なのです。ウィルスたちとの戦闘において彼女たちが大きな成果を上げることはありません。鑑賞者は作品世界に介入することはできないのです。4話までとは異なり、5話はそういった設計になっています。

ちまりは普段からサポートの役回りであり、今回のストーリーでは普段通りの仕事の中での自己肯定が目指されていました。積極的な戦闘は失敗によってことごとく否定され、まいのサポートに徹することを強いられます。まいの活躍を見届けることこそがちまりの本当の使命なのでした。自分のできることを精一杯やればいい、という自分の目指すべき姿勢を、自分のできることを精一杯やる以上のことができない状況で、まいの登場する物語の一部始終を見守ることによって、ちまりは知ることになります。

4話までの回では、作品自体や作品鑑賞という行為をコミュニケーションの手段や、思い出の共有手段として扱っていました。ところが、5話では、個人的な鑑賞体験と、そこから得られる成長という側面をクローズアップしています。作品鑑賞を、他者と共有する体験としてではなく、個人的な体験として描く視点を持っています。
ちまりのパートナーの2人は将棋に興味がなく、ちまりもまた将棋が特別好きという訳ではないようです。ちまりと2人は作品に関連した共通の興味ある話題を持っていません。また2人がちまりに対して口にするのは、現実でのちまりとの関係についてや彼女への肯定の言葉だけ。それはちまりの心を導くのみです。作品世界でのちまりの行動を強く束縛するような指示や意見はしません。渚央と南海はちまりの作品体験に口出ししないし、彼女たちの言動がちまりの鑑賞態度を決定的に方向づけたりもしません。
冒険の基本的なプランが決まれば、あとはちまりはちまりの意思で行動します。そうしてあらゆるものを見聞きし、まいの言動やパートナーの2人の言葉も、全てを作品鑑賞の体験として彼女自身に引き受け、現実世界に持ち帰ります。