チクル妄想工房

ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

モブm@s

 

アイドルマスターの世界では、アイドルであること、が、彼女たちが、モブとしてのありかたではなく、名前のある登場人物としての地位を獲得する手段といえるでしょう。

アイドルであることでしか特別であれないとすれば、本作でモブキャラクターの一人として振舞うときの天海春香は、もはやこの世界にとって、特別な存在では無くなるのです。

その証拠に、誰も町で天海春香をアイドル天海春香として接しようとする者はありません。(もちろん、彼女はこの世界でも正真正銘のアイドルだし、変装しているから誰も気づかないわけですけど、登場する場面でこのように描かれていることが大事なのです。)

天海春香がモブキャラクターとして存在し、他のモブキャラクターにたいして特別に扱われることのないこの作品では、特権的な登場人物はいない。いわば、モブキャラクターしかいない世界です。

 

天海春香がアイドルとして活躍する世界があれば、このような、モブとしてしか存在しない世界もまたあり得たのです。

アイドルとして活躍する世界の、切り取り方を変えただけで現前してしまうのだから、当然あり得たのだし、それどころか、事実そこにあったのだ、と言ってもいいのです。

 

そんな世界であっても、そこに天海春香はたしかにいる。その姿を現しているのです。
あの女の子は、天海春香だ、とすぐにわかる。

わたしたちはモブとして描かれる彼女を、なぜか他のモブと完全に区別することができるし、その意味において、アイドルとして在るのではない彼女であっても、この世界にとっては特別ではなくても、「わたしたちにとっては」特別な存在であるのです。

なぜなら、彼女がわたしたちにとって天海春香であるからです。

あれは天海春香だと、この世界においてもなお、わたしたちは呼ぶことができるし、ここに放り込まれたわたしたちにとって、他のモブと比べていっそう特別な仕方で存在しているのです。

 

アニマスは、又はある種のアニメは、という但し書きがつくのかも知れませんが、顔も名前もないモブキャラも、ピントを合わせれば、実はみな違う顔をしているし、違う声を持っているし、名前を持っています。それぞれの生活をもっています。

 

作品内で、アイドルの姿が映るのは、765プロのポスター、雑誌に掲載された天海春香の写真のみ、アイドルの姿を想像させるのは、ライブに沸き立つ観客席、裏方で働くスタッフ、彼らモブたちによってです。

いまこの瞬間のアイドルが映像に現れることはなく、モブの目の向こう側にだけおり、そして、アイドルを見るモブの様子に、アイドルの存在を感じ取るだけです。(彼らに、わたしたちの視線を重ねるという見方も、できるかもしれません。)

 

あるいは、天海春香もモブであるがゆえに、モブとして登場する天海春香もまた、アイドル天海春香を見うるのかも知れない、といえば書き過ぎでしょうか。

彼女が見うる天海春香は、彼女が当人であるゆえに、当然ほかのモブの見うるものとは異なるでしょう。同様に、他のモブもまた、それぞれが別個の人物として区別されているがゆえに、それぞれ異なるものを見ている。世界のあらゆるものに対してそうである。のようにも読めるでしょう。

 

天海春香はわたしたちにとって特別であるけれど、彼女もまた大勢のうちの一人でありうるのだから、それを特別と見なすことは、他の大勢もまた特別でありえた(またはすでに特別である)ことを認めるということ。

天海春香天海春香という名前と、見間違いようのない容姿をもっているのだから、他の大勢もまたそのようにありえた(またはすでにそのようにある)のだ、といえます。

 

 

久々に、ニコマスの、ちょっと古いものを、見ました。