チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

VRCの写真について/偽物の写真展について

VRCの写真について

写真撮影イベント参加、写真集制作、ときどき依頼を受けてのイベント撮影などしております。

非VRCイベントでVRC写真集を頒布している立場なので、界隈外の人にVRC写真とはなんぞやということを伝達するための理屈が必要である、というところにおいて、撮り、作るなかで考えることを記録として書いておこうと思います。ツイッターだと流れてしまうので。

 

VRChatにはアプリ内カメラが標準実装されており、VRCプレイヤーは自分のアバターの写真、他人の写真、ワールドの写真などを撮影することができます。カメラにはズームや被写界深度、ドローンなどの機能が追加され、非常に綺麗な写真を撮ることができるようになりました。撮影イベントが開催されたり、イベント記録や宣伝用の写真などを依頼されて撮る人もいるようです。


VRChatのカメラツールによって出力された画像をVRCプレイヤーは「写真」と呼んでいますが、恐らくVRChatを知らない人は、これを「写真」と呼ぶことにすんなり納得できないのではないでしょうか。例えばゲームの「スクリーンショット」ではないのか?というのも妥当な見方です。

写っている内容にしても、アバターが「人」であり、ワールドが「風景」である、といった現実世界に類比させた理解をしなければ(VR空間の構造が現実環境のシミュレーションなのでそう理解するのが順当ではあります)、そこに写っているものが何であるかを、VRChatプレイヤーと同様の仕方で理解することはできません。

手元にあるのがカメラツールであり、機能として「カメラ」と呼称されており、スマホを模したツールであり、VRゴーグルのレンズはカメラではなく視界であり、手元のツールは視界の一部を切り取るものであり、それは手の動きによってなされるものであり、目の前に風景があり人がおり…など、様々な要素を加味したうえで、そこに現実の写真との共通点を認めることによってVRCプレイヤーは「写真」と呼ぶことを了解しています。

それは実際にプレイしている者だけが共有している文脈です。これを共有しない人はVRChatで取得した画面キャプチャを「写真」と捉えることはできないでしょう。ワールドもアバターもたんに3Dモデルであり、そこには人間もいなければ時間もありません。

 

VRCの写真イベントに参加して、SNSでの写真の取り扱いを見て思うことは、写真を撮ることや見ることそれ自体が好きな人は、そこまで多くはないということです。

スマートフォンの普及とカメラ機能の向上により写真撮影は非常に身近なものになっています。さらにSNSの流行によって、撮影した写真を気軽に他人と共有することができるようになりました。現代人が写真を撮る大きな理由は、SNSで他人に見せること、それら写真に「いいね」「リツイート」などの反応がもらえることではないかと感じています。撮影し、投稿し、反応がある、までがSNSにおける写真行為としてワンセットになっています。

VRCでも同様で、カメラツールで写真を撮影し、SNSにアップロードして反応を貰うためのものとしての意義が大きい。写真はSNSでのコミュニケーションツールとしての使い方が主流と言えます。これは写真撮影イベントに参加している人の大半も同じです。じつはそこまで写真それ自体に興味があるわけではない人が多いようで、イベントに参加しても参加者は雑談してばかりだったりすることもあります。

それは悪いことではなく、現代において写真はコミュニケーションツールとしてよく使われる、という状況がたんにあるとして認識すればいいものと思っています。記録した画像を他人と共有する媒体として写真が用いられることは端的な事実でしょう。写真は「芸術」である、写真は「作品」である、と啓蒙しなければならない理由は無い。

もう一点、写真においては撮影し撮影されるという二者間のコミュニケーションが生じることも注目したい。写真撮影イベントの大きな効用は、表現手段としての写真に気付くことよりも、この点を実感できることだと思っています。

これら現実の写真とVRCの写真の、道具としての共通あるいは類似があるということにおいて、現実の写真を「写真」と呼ぶのと同様にVRCの写真も「写真」と呼びうる(ざっくり言えば、日常の中での「取り扱い」において「写真」である。つまり「作品」ではないところにおいて「写真」である)、というのは理解の一つの仕方だと考えます。

撮影行為において撮影者と被写体のコミュニケーションがあり、日々の記録として目の前の光景を撮影し、SNSで共有し、他人からリアクションを貰う、他人の写真にリアクションする、というオンラインのコミュニケーションがある。そうした道具としての機能、現代における生活の中の位置づけとして、現実の写真とVRCの写真は共通している、類似している。ゆえにVRCで取得したスクリーンショットも、コミュニケーションツールの一種であることにおいて現代的な「写真」と呼びうるでしょう。もしかしたら、いまのように盛んにSNSに投稿されていなかったら、VRCの写真は「写真」とみなされていなかったかもしれません(それでも誰かがこれは「作品」だと宣言することで「作品」としての「写真」にはなりえたかもしれません。が、この論点は私には手に余るものなので棚上げです)。

 

「偽物の写真展」について

あまねこさんの展示、「偽物の写真展」をVRCの友人と見てきました。

photoshopによってネット上の写真が加工されたものである可能性を含むことになったように、あらゆる写真は現実の写真ではなくメタバース上の写真である可能性を含むという思考実験的な要素、そして、それらは等価値に作品(とは何かは論じませんが)として展示できるという事実の提示があったと思います。

展示された写真には、現実っぽいメタバースの写真もあれば、現実っぽくないメタバースの写真もあります。そして、じつは一枚だけ現実の写真が混じっているらしく、さらにメタバースっぽい現実の写真もありうることが示されています。

これは、写真の現実っぽさはどこから来るのか、メタバースっぽさはどこから来るのかを鑑賞者に考えさせます。同時に「メタバースっぽさ」とは「現実っぽくなさ」と言い換えていいのか違うものなのか、ということも(この点は考えが及ばないので保留。以下かっこ付で記します)。

 

現実っぽい/非現実っぽい(=現実っぽくない?)と感じるとき、その感じは目の前の写真のどこから来るのでしょう。ふだん写真に写っているものが現実の風景であることを疑ったりはしませんが、改めて考えてみればデジタル写真には撮影後に加工された可能性が十分にありますし、また「偽物の写真展」というタイトルが示すように、この写真展では風景全てが作り物である可能性を考慮すれば、写真を鑑賞する際に現実/非現実の判断をそこに写っている内容から迫られていると言えるでしょう。

例えば、どう見ても作りものらしい風景であれば現実ではないとわかりますが、photoshopでいくらでも加工できる時代において、一風変わった風景を作り出すことは難しくないでしょう。明るさや色味を調整したり、被写体を一部消したりといった加工となれば当たり前に行われています。とすると、現実/非現実(あるいはその部分的評価)の判断以前にある、現実らしさ/非現実らしさ(=現実らしくなさ?)は、我々のうちにいかにして生じうるのでしょうか?

 

近づいて見たときにポリゴンのカクカクした感じが出ていると、現実ではなくメタバースの写真だとわかります。また、現状のメタバースは生活を持たないので、主観カメラの行けない場所やあまりに遠い場所は、負荷軽減のために、ある種の遠近法のように(行動遠近法とでも呼びたくなります)描画が簡略化されたり描画されなかったりします。

現実では(センサーの性能や絞り値によりますが)それを描画することができます。逆に描画しないこともできますし、写らないこともあります。(文字通りの意味でも比喩としても)どこにピントを合わせるか、描画するかの根拠には、現実とメタバースとでは違いがあって、ここに現実(の写真)らしさとかメタバース(の写真)らしさを見ることもできそうです。

 

また、ちょっと飛躍しているかもしれませんが、写っている風景が現実的だとか非現実的だという判断には、メディアを通じて見る現実世界の「絶景」との類似が浮かびます。現実の地球上にも、まるで想像上の世界かと思うような風景があります。風景写真としてメタバース写真を見た時の、現実かどうかを問う以前の感動はこれに近いのではないでしょうか? メタバースの風景がメタバースの中にあるがゆえに「ある」と認めてよいならば、飛行機に乗れば行けるようにHMDを被れば行けるものとして、行けるかもしれないがあまりにも遠い風景としてこれらは同じなのかも知れません。