チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

23話を観る前に

 以前、愛はデウス・エクス・マキナって書きましたけど、厳密には間違いだったかも。すべてを解決する装置としてではなく、あらゆる物事の動機になり得るものとしてある。愛のためならと言えば何でもできてしまう。それゆえ愛は絶対的正義であり、ゆえに暴力である、そういう意味です。
 アニマスでも似た機構があります。「仲間との絆」がそれです。21話まで続いてきた千早の話を考えてみると、千早に必要だったのが痛みを分かち合う理解者だったとしても、千早を救うのは必ずしも「仲間との絆」でなくてもよくて、それこそPの「愛」でもよかったのではないかと思うんです(念のため繰り返しますが、アニマスではありえないことは解ってます)。11話から13話のライブの話にしても、現実的に考えてライブを成功させるためにチームワークが必要だという説明は可能かもしれませんが、だとしてもチームワークはあくまでもライブ成功のための手段であり、それ自体が目的化されることは違うと思うのです。どうやらアニマスでは「仲間との絆」が押し出されているらしいことがわかります。

 アニマスの物語は全体が途切れ途切れのようで時系列は順番になっていて、大きな物語としては765アイドルたちの成長、個々の回は各アイドルひとりずつスポットを当てた独立した話になっています。大きなライブに向けた練習の回などを使って、力点を置いて何話も連続した話の中で主役になるのが美希と千早と春香。全体で何を映そうとしているかというと、先日書きましたが、女の子が「アイドル」として悩み成長し活躍する姿です。アイドルたちはコンプレックスやトラウマを抱えていて(全員ではないですが)、Pや他のアイドルたちに励まされてそれを解消していきます。そのことでアイドルとして女の子として成長していくんです。春香さんはまだ途中なのでわかりませんが。
 僕が考えるのは、なぜそこに「絆」が出てくるのか、という問題。どうやら「仲間との絆、友情」は、制作者がアニマスという作品を通して描こうとしたものであるようです。だからでしょう、この作品には初めから「仲間との絆はすばらしいもの」という大前提があるように見えます。「絆」は価値を問われるものでなく、いかに素晴らしいものであるかを繰り返し顕示されるものなんです。「絆」の価値が揺さぶられることはおそらくない。いや一度あったとすれば、引きこもった千早が春香を追いかえした場面でしょうか。ただあの話も、最終的には「仲間との絆」が登場してすべてを浄化していきます。アニマスにおいて「絆」は神聖なものであるのです。
 価値が問われることがない、というのは、二重のレベルにおいてです。ひとつは登場人物の信念としてのレベル(人を殺してはいけない、物を盗んではいけない等の倫理)、もうひとつは物語世界の秩序としてのレベル(物理法則のようなもの)です。前者は、アイドルたちの思想や言動が「絆」という理念に支配されていることを意味しています。アイドルたちは「仲間との絆」こそがあらゆる活動の糧になると考えており、そのためまたは自分の快のためそれを無制限に欲します。後者は、例えば光が一秒間に地球を7周半するとか、水の融点は0℃とか、そういうレベルで「絆って素晴らしい」のです。作中で是非が問われることはなく(常に是であり)、物語の壁を飛び越えて読者に直接働きかけてきさえします。前者は物語内登場人物を縛るものでしたが、後者はそれが物語世界全体を縛り、ひいては物語外の観測者までもを縛るものである、そう考えてもらえればいいでしょう。
 こう書いてみると、前者はやはり一度千早の件で否定されているように思えますね。「歌えなくなった自分にはもはや仲間との絆さえ何の意味も持たない」と千早が諦めたことによって、そして千早に拒絶された春香さんが「私じゃ駄目なんです」と自分が仲間の気持ち(プレゼント)を背負っている(=絆の象徴である)にもかかわらず諦めてしまったことによって。「絆」の神性が一度であれ否定された限りにおいて、どうやら、この話は例外と言っていいかも知れません。ですが、問題はこのあとにあります。一度否定された「絆」はPの活躍により力を取り戻し、物語は予定調和的に千早の快癒へと収束していく。僕はそこに「THE IDOLM@STER」全体に蔓延するイデオロギーを感じます。上で挙げた第二のレベルのことです。誰がどのような力を加えようとも、絶対に変わることのない摂理として「絆」は確固としてそこに(どこにでも)ある。どうして千早と春香さんによって一度否定された「絆」が、そのあと何事もなかったかのように復帰を果たしたのか。それは、登場人物が、アイマスという作品の世界観の支配下にあるから。登場人物の思想や言動の発展性は作者によって決定されていない限りにおいて無限であるといえますが、その決定はアニマスでいうところの「仲間との絆」のような一定の価値観に則って行われるものです。千早の話のように、一度進路がずれたように見えた価値観も、大きな力に引き寄せられるようにやがて方向修正されます。この方向修正の力こそが作品に内在するイデオロギーであり、作品内のあらゆる事象はこれに逆らったまま進行することはできないのです。
 アイマスにおける「仲間との絆」のようなイデオロギーは読者を縛るものだと書きましたが、これも二つに分けて考えます。ひとつは、読者が観測している作品を「そういう方向性のものである」と認識し、作品の見方にバイアスをかけてしまうこと。この効果は意図的に生み出すこともでき、この効果を逆手にとった作品は「○○に対する価値観を一変させた」などと評価されたりします。もうひとつのほうは、かなり危険なものだと僕は考えています。というのは、アニマスを例に挙げますが、アニマスが「仲間との絆」に無批判に価値を与えていることに対して読者が(少なくとも僕はそうでした)何の違和感も覚えない、ということです。作品に内在するイデオロギーに気づかなかったわけですね。作品内の力が読者を縛っている、というより、読者のほうが作品に触れる前にすでに力に縛られていた、といったほうがいいでしょう。なぜイデオロギーの存在に気づかなかったのかというと、それが現実の読者の日常生活、社会常識、それらにより構築された読者の思想、といったものと適合していたからです。つまり、現在、まさにこの瞬間も、現実の読者の価値観は本人の知らないうちにそうした支配を受けているのです。アニマスに話を戻せば、「仲間との絆って素晴らしい」という価値観がすでに疑い得ないものとして我々の思想に根付いているから、作品内でプッシュされていることに疑問を感じない、もしかしたらプッシュされていることすらわからない。読者を縛るものが「仲間との絆って素晴らしい」ということならば全然マズくなさそうだと思うかもしれません。その通り、何かに縛られていることの危険性は何に縛られているかによります。ですが、僕がこの記事の話題で本当に危険だと思ったことは「縛られていることに縛られている本人が気づいていない」ということだと思うのです。
 千早を救いうると僕が書いた、Pとの「愛」でもいいです。「絆」「愛」など、その価値が自明であると思われているさまざまなものも、本来ならば一定の価値基準に則って評価されたもののはずです。ですが我々は普段それらの価値判断を省略して生活している。省略されているそれらの価値判断は、いま(あるとき)生きている世の中ではいちいち行う必要がないものなのです。そうなっているのです。「善/悪」の二項対立からなる「勧善懲悪」という物語形式があります。この考え方を無批判的に採用するのは、安易ですし、「善/悪」の二項対立を壊すような作品はいまでは当たり前になっています。「勧善懲悪」崩しの功績は、決まりきった物語形式からの脱却とか、新しい価値観の発見とかももちろんなのですが、僕はそれよりも、いままで物語が「勧善懲悪」というイデオロギーに支配されてきたこと(現実に生きる読者たち自身の思想がそうしたイデオロギーに支配されていたことに他ならない)を白日の下にさらしたことではないかと思うのです。