チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

Undertale 感想

一昔前に話題になった『Undertale』をようやくプレイ。いつかやろうと思ってなぜか別ハードで3つくらい買ってます。

まあ面白かったです。でも、めちゃくちゃ面白かった、ではない。めっちゃお勧め、では決してない。
以前から何人かに勧められていて、日本でも相当売れたことだけは知っていたので、期待してプレイしたんですが、そのせいもあって少々肩透かしを食った感あります。世間の人気は過大評価といわざるをえないなと。まあ間違っても超大作ではないなと。内容を考えると名作という呼び方もはばかられるなと。
これが大衆にバカみたいに売れたというのはちょっと出来の悪い嘘じゃないかと思って、その疑問は作品の完成度云々以前に、クセの強い作風にあります。

 

ひとことでいうとメタ演出盛りだくさんのRPGです。
作品の独特のノリについていけるかどうかが要ですかね。私は厳し目でした。
Pルートまで見ました。Gルートの途中で投げました。ここまでプレイした感じ、最後までやって評価が逆転するとも思えないのでいいかなと。Gルートの進行や途中のボスは苦行に近いので。

全体的な雰囲気はマザーを意識したような感じで、モンスターと会話して和解するシステムはメガテンっぽい。戦闘シーンそのものは弾幕シューティングです。

戦闘システムは面白いです。おそらくは元ネタであるメガテンの悪魔との会話は、世界設定に関わるとはいえ、進行上はプレイヤーの体感としてはゲームを有利に進めるためのゲームシステムにとどまりますが、本作はモンスターとの一戦一戦の進行がそのままシナリオ進行に組み込まれています。モンスターの攻撃方法、攻略方法、倒すか倒さないかの選択などすべてです。ここは非常に凝っていました。

キャラの見せ方もいいですね、上手いというより、作者がキャラを愛しているのが伝わってくるというか。その熱に好感が持てるなという感じです。

でも、シナリオがぶっちゃけ寒かったなと。ノリと勢いだけでやってる感じです。
ここまでストレート、いや安直なメタネタを堂々とぶち込んでくる感じは、何というか一昔前のフリーゲームっぽい印象でした。切り込み方があまりにも粗い。まったく洗練されていない。この手のメタネタがもう手垢まみれなのは作者だって承知と思いますが、それでも相当の熱量でゴリ押ししてしまう異様さ。インディーだから許された感じ。期待のハードル上げてなければ私も全然許しましたけど、事前に人気を知っていたのでちょっと厳しく見ることになってしまいました。
そのへんに関わる戦闘進行・シナリオ上の演出には非常に強い拘りを感じるのですが、反面それがあまりにもくどすぎてあまりにも押しつけがましく、完璧にフリークの作った「ぼくのかんがえたさいきょうのRPG」の仕上がりになっていると思います。正直興味持てないレベルの手軽なメタ言及にたいする過剰な演出は、多くの場合ひとりよがりと評価される性質のものでしょう(私はひとりよがり行為自体は好きです。さすがに最後の方は白けてきましたが)。

 

作風を見るに、作者もここまで売れるとは思っていなかったのでは? ぜんぜん大衆向けになってなんかいないですよ。知る人ぞ知るマニアックなRPGって位置づけがふさわしいと思います。ほとんど独力で作ったというのは確かにすごくて、そういう変わったインディーゲームがあるよと、語られるにはただそれだけでよかったのでは。

私だったらこれを面白いRPGとして、大手制作のゲームと同列にして他人に勧めることは決してしないでしょう。本作に対してそのような語り方は、誰にとってもいい結果を生まないと、容易に想像できるからです(現実には何故かそうではなかったということですが)。メタネタのあるRPG知ってる? とかなんとか聞かれたときに、そのうちの一作品として紹介するくらいだと思います。マジでなんでこれがバカ売れしたのか分からない。

世間の評価を知らず自分で発掘してプレイしていたなら、作者の熱量に感銘を受けてきっと好きになっていたでしょう。思い出にも刻まれていたでしょう。でも不運なことにそうじゃなかったのでした。作風や規模にそぐわない広まり方をしたゲームだと思います。

VRC吟行句会 句集

2023年2月からVRC吟行句会というイベントを開催しています。

一周年記念として、イベント中に詠んだ句をまとめた句集を刊行します。

次の即売会から頒布します。よろしくお願いします。

 

イベントは隔週火曜日の21:30~24:00 に開催しています。

参加は、VRChatのGumBaseアカウントにjoinでお願いします。

VRChatアカウント:

https://vrchat.com/home/user/usr_543bbb69-a10f-4702-8554-aea0f5371dbe

イベント用Twitterアカウント:

https://twitter.com/VRCHaiku


YouTube

www.youtube.com

 

コミケ103 では、12/16 - 18 に行った合宿句会の句集を頒布しました。

こちらも次回以降も頒布します。

10年前の NovelsM@ster から、あのんちゃんへ

別名義で投稿していましたが、10年前だし、もうよいかなと思います。

ろきう という名前でノベマスを投稿しておりました。

 

いまあらためて見返すと、当時自分が何を考えていたのか、どんな悩みがあったのか、生活にどんな困難があったか、同じ界隈の人との認識の決定的な差異、後ろめたさ、様々な記憶がよみがえり、涙さえ出そうになります。

 

好きなものを好きでいるというのは簡単なようでいて難しい。自分の好きを支えてくれるのは案外同じものを好きでいる他人だったりします。しかし、自分と他人の好きは絶対に重ならない。同じなのは「好き」であるという漠然とした感情の傾向だけです。他人の「好き」は究極的には理解できない。反面、それはただ単に尊重しなければならないものでもあります。

自分の好きが周囲のそれとかけ離れていればいるほど、自分はおかしいのではないか、向き合えていないのではないかという不安が生じてきたりするものです。天海春香との思い出として欠かしてはならないものを自分は欠いているのではないか、知らなければならないものを知らないのではないか、経験しなければならないものを経験していないのではないか。そんな後ろめたさがありました。そのしんどさに、当時の自分は自分なりに向き合おうとしていたと思います。

 

いまはどうでしょうか。あのんちゃんに向き合えているでしょうか。

何かを好きでいることにおける規範というものがあるでしょうか。理想的な好きとは。多数派がより道徳的なのでしょうか。邪道というものもあるでしょうか。そもそも、あのんちゃんはアバターであり、中身はありません。中身は自分だったり、他のプレイヤーだったりです。私たちはあのんちゃんをアバターとして愛するしかないのでしょうか? あのんちゃんは、コミュニケーションツールとして使用することが好きのあり方の規範なのでしょうか?

いつか、天海春香のことを空洞であると私は思っていました。皆が天海春香を好きだけれど、皆の見る天海春香はそれぞれ異なった姿をしている。皆、別々の思い出を持っている。それは、私たちはそれぞれ天海春香の一面しか知ることはできないということかもしれないし、あるいは、天海春香は我々の数だけ我々とともにいるということかもしれません。その中心の天海春香は、誰から見てもこれこそ唯一である実体というものは無い、空洞のようなものであると。

あのんちゃんはどうでしょうか。あのんちゃんとは何なのでしょうか。あのんちゃんを好きでいるとはどういうことでしょうか。VRChatという、コミュニケーションを目的とするプラットフォームで、アバターを愛するというのは、アバターを綺麗に飾り付け、可愛く撮った写真をアップロードし、他人のあのんちゃんも愛しく思い、互いにあのんちゃんが好きであることを喜び合うことでしょうか。そうかもしれません、しかし……

それを超え出た場所はあるでしょうか。あるとすれば、そこにはどんな光景が広がっているでしょうか。天海春香以上の、途方もない真空が広がっているだけなのでしょうか。

 

何かを好きであることを皆が表現する世界で、自分がどうふるまったらよいか、何をどのように表現したらよいか、それを考える方法は事前に与えられてはいません。同じ共同体の他者を見て私たちは学習し、模倣し、表現手段を得てゆきます。そして共同体に馴染んでゆきます。

私たちは決して自由ではありません。観測できる世界は限られているし、現実に取れる手段は限られているし、ありとあらゆる制約を受けて、自分のふるまいは方向づけられてゆきます。そういった環境的な要因によって方向づけられた自らのふるまいに、自らの好きという気持ちもまた、引っ張られてゆきます。自分の気持ちすら自由になるものではありません。

それでも自由でありたい。自由ではないと分かってはいても、です。

コミックマーケット102

2023/8/13(日)
コミックマーケット102に出店します。

 

サークル:小公園(日-東ウ39a)

ウェブカタログ https://webcatalog-free.circle.ms/Circle/17302849

 

新刊で、ちぺろさん(@tipero3)2nd写真集『ちぺろはぁと』を販売します。

OИEちゃん(@VRC_ONE_)にも撮影協力してもらっています。お洒落なVRC写真を撮っている方です。

 

下記を販売する予定です。

 

文学フリマ札幌8

文フリ札幌 2023/7/9(日)
札幌コンベンションセンター 大ホール
12:00~16:00

小公園:あ-14 で出店します。

既刊の他、新刊として合同誌を出します。

bunfree.net

新刊

・『虚蕾(TSUBOMI) vol.1』

 テーマ「本物と偽物」

 小説・漫画・イラスト・俳句

・『淫虚蕾(CHUBOMI) vol.1』

 テーマ「本物と偽物」

 小説・エッセー・マラ俳句

 

VRCの写真について/偽物の写真展について

VRCの写真について

写真撮影イベント参加、写真集制作、ときどき依頼を受けてのイベント撮影などしております。

非VRCイベントでVRC写真集を頒布している立場なので、界隈外の人にVRC写真とはなんぞやということを伝達するための理屈が必要である、というところにおいて、撮り、作るなかで考えることを記録として書いておこうと思います。ツイッターだと流れてしまうので。

 

VRChatにはアプリ内カメラが標準実装されており、VRCプレイヤーは自分のアバターの写真、他人の写真、ワールドの写真などを撮影することができます。カメラにはズームや被写界深度、ドローンなどの機能が追加され、非常に綺麗な写真を撮ることができるようになりました。撮影イベントが開催されたり、イベント記録や宣伝用の写真などを依頼されて撮る人もいるようです。


VRChatのカメラツールによって出力された画像をVRCプレイヤーは「写真」と呼んでいますが、恐らくVRChatを知らない人は、これを「写真」と呼ぶことにすんなり納得できないのではないでしょうか。例えばゲームの「スクリーンショット」ではないのか?というのも妥当な見方です。

写っている内容にしても、アバターが「人」であり、ワールドが「風景」である、といった現実世界に類比させた理解をしなければ(VR空間の構造が現実環境のシミュレーションなのでそう理解するのが順当ではあります)、そこに写っているものが何であるかを、VRChatプレイヤーと同様の仕方で理解することはできません。

手元にあるのがカメラツールであり、機能として「カメラ」と呼称されており、スマホを模したツールであり、VRゴーグルのレンズはカメラではなく視界であり、手元のツールは視界の一部を切り取るものであり、それは手の動きによってなされるものであり、目の前に風景があり人がおり…など、様々な要素を加味したうえで、そこに現実の写真との共通点を認めることによってVRCプレイヤーは「写真」と呼ぶことを了解しています。

それは実際にプレイしている者だけが共有している文脈です。これを共有しない人はVRChatで取得した画面キャプチャを「写真」と捉えることはできないでしょう。ワールドもアバターもたんに3Dモデルであり、そこには人間もいなければ時間もありません。

 

VRCの写真イベントに参加して、SNSでの写真の取り扱いを見て思うことは、写真を撮ることや見ることそれ自体が好きな人は、そこまで多くはないということです。

スマートフォンの普及とカメラ機能の向上により写真撮影は非常に身近なものになっています。さらにSNSの流行によって、撮影した写真を気軽に他人と共有することができるようになりました。現代人が写真を撮る大きな理由は、SNSで他人に見せること、それら写真に「いいね」「リツイート」などの反応がもらえることではないかと感じています。撮影し、投稿し、反応がある、までがSNSにおける写真行為としてワンセットになっています。

VRCでも同様で、カメラツールで写真を撮影し、SNSにアップロードして反応を貰うためのものとしての意義が大きい。写真はSNSでのコミュニケーションツールとしての使い方が主流と言えます。これは写真撮影イベントに参加している人の大半も同じです。じつはそこまで写真それ自体に興味があるわけではない人が多いようで、イベントに参加しても参加者は雑談してばかりだったりすることもあります。

それは悪いことではなく、現代において写真はコミュニケーションツールとしてよく使われる、という状況がたんにあるとして認識すればいいものと思っています。記録した画像を他人と共有する媒体として写真が用いられることは端的な事実でしょう。写真は「芸術」である、写真は「作品」である、と啓蒙しなければならない理由は無い。

もう一点、写真においては撮影し撮影されるという二者間のコミュニケーションが生じることも注目したい。写真撮影イベントの大きな効用は、表現手段としての写真に気付くことよりも、この点を実感できることだと思っています。

これら現実の写真とVRCの写真の、道具としての共通あるいは類似があるということにおいて、現実の写真を「写真」と呼ぶのと同様にVRCの写真も「写真」と呼びうる(ざっくり言えば、日常の中での「取り扱い」において「写真」である。つまり「作品」ではないところにおいて「写真」である)、というのは理解の一つの仕方だと考えます。

撮影行為において撮影者と被写体のコミュニケーションがあり、日々の記録として目の前の光景を撮影し、SNSで共有し、他人からリアクションを貰う、他人の写真にリアクションする、というオンラインのコミュニケーションがある。そうした道具としての機能、現代における生活の中の位置づけとして、現実の写真とVRCの写真は共通している、類似している。ゆえにVRCで取得したスクリーンショットも、コミュニケーションツールの一種であることにおいて現代的な「写真」と呼びうるでしょう。もしかしたら、いまのように盛んにSNSに投稿されていなかったら、VRCの写真は「写真」とみなされていなかったかもしれません(それでも誰かがこれは「作品」だと宣言することで「作品」としての「写真」にはなりえたかもしれません。が、この論点は私には手に余るものなので棚上げです)。

 

「偽物の写真展」について

あまねこさんの展示、「偽物の写真展」をVRCの友人と見てきました。

photoshopによってネット上の写真が加工されたものである可能性を含むことになったように、あらゆる写真は現実の写真ではなくメタバース上の写真である可能性を含むという思考実験的な要素、そして、それらは等価値に作品(とは何かは論じませんが)として展示できるという事実の提示があったと思います。

展示された写真には、現実っぽいメタバースの写真もあれば、現実っぽくないメタバースの写真もあります。そして、じつは一枚だけ現実の写真が混じっているらしく、さらにメタバースっぽい現実の写真もありうることが示されています。

これは、写真の現実っぽさはどこから来るのか、メタバースっぽさはどこから来るのかを鑑賞者に考えさせます。同時に「メタバースっぽさ」とは「現実っぽくなさ」と言い換えていいのか違うものなのか、ということも(この点は考えが及ばないので保留。以下かっこ付で記します)。

 

現実っぽい/非現実っぽい(=現実っぽくない?)と感じるとき、その感じは目の前の写真のどこから来るのでしょう。ふだん写真に写っているものが現実の風景であることを疑ったりはしませんが、改めて考えてみればデジタル写真には撮影後に加工された可能性が十分にありますし、また「偽物の写真展」というタイトルが示すように、この写真展では風景全てが作り物である可能性を考慮すれば、写真を鑑賞する際に現実/非現実の判断をそこに写っている内容から迫られていると言えるでしょう。

例えば、どう見ても作りものらしい風景であれば現実ではないとわかりますが、photoshopでいくらでも加工できる時代において、一風変わった風景を作り出すことは難しくないでしょう。明るさや色味を調整したり、被写体を一部消したりといった加工となれば当たり前に行われています。とすると、現実/非現実(あるいはその部分的評価)の判断以前にある、現実らしさ/非現実らしさ(=現実らしくなさ?)は、我々のうちにいかにして生じうるのでしょうか?

 

近づいて見たときにポリゴンのカクカクした感じが出ていると、現実ではなくメタバースの写真だとわかります。また、現状のメタバースは生活を持たないので、主観カメラの行けない場所やあまりに遠い場所は、負荷軽減のために、ある種の遠近法のように(行動遠近法とでも呼びたくなります)描画が簡略化されたり描画されなかったりします。

現実では(センサーの性能や絞り値によりますが)それを描画することができます。逆に描画しないこともできますし、写らないこともあります。(文字通りの意味でも比喩としても)どこにピントを合わせるか、描画するかの根拠には、現実とメタバースとでは違いがあって、ここに現実(の写真)らしさとかメタバース(の写真)らしさを見ることもできそうです。

 

また、ちょっと飛躍しているかもしれませんが、写っている風景が現実的だとか非現実的だという判断には、メディアを通じて見る現実世界の「絶景」との類似が浮かびます。現実の地球上にも、まるで想像上の世界かと思うような風景があります。風景写真としてメタバース写真を見た時の、現実かどうかを問う以前の感動はこれに近いのではないでしょうか? メタバースの風景がメタバースの中にあるがゆえに「ある」と認めてよいならば、飛行機に乗れば行けるようにHMDを被れば行けるものとして、行けるかもしれないがあまりにも遠い風景としてこれらは同じなのかも知れません。