執筆中の論考の草稿です。ちょっとだけ載せます。草稿なので文章は粗いです。
(第0章 のあとの 第1章 です)
天海春香編、ミュウツー編、あのん編 って感じで1冊ずつ出してく予定ですが、調子に乗って構成組んでたら何年かかるんだこれって規模になっちゃいました。完成が見えません。途中で断念しそうですが、頑張って1冊は出したいですね。
『ミュウツー・天海春香・あのん』 あのん編 第1章「自撮り」草稿
VRの自撮り
VRChatであのんちゃんの写真を撮るというのは、私がモーションキャプチャーのデバイスを装着して、私が「あのん」アバターを使用し、私がポーズを撮って、私がVRChatの中でスクリーンショットを取得することを指します。
VRChatのなかで、自分が操作するアバターを自分のカメラで撮影することは、VRChatterの間で「自撮り」と呼ばれるようになっていました。GumBaseが「あのん」アバターを使用しながら、自分のアバターを自分のカメラで撮影した場合、これはGumBaseの自撮りです。
でもよく考えてみれば、これを「自撮り」と呼んでしまうことは正確な言い方ではないように思えます。たしかに、VR空間においてアバターをVR空間での自分の身体とみなすことは、VRに慣れたプレイヤーにおいては一般的な感覚だと思います。アバターを「私」なる何ものかのVR空間における実体だと考えることはできそうです。その見た目において他者から自分自身のように扱われる、自ら操作するアバターを指して、これが(VR空間での)「私」なる何ものかなのだと考えることも自然でしょう。しかし、やはりそれは「私」などではなく、VR空間で使用しているアバターでしかない、別の言い方をすれば「あのん」という3Dモデルでしかない。そう考えることもできるはずです。
VRの「自撮り」というのは、そういうものを「写真」として残しています。果たしてそこに写っているのは「私」なのか「あのん」なのか。果たしてこの画像は「写真」なのか「スクリーンショット」なのか。VRChatで取得した画像を「自撮り」と呼ぶとき、そういったあいまいさの一切が棚上げされ、これは「私」であり、これは「写真」であるということにされている。もしかすると、誰かの思惑で「私」であり「写真」であると定義するために意図的にそう呼ばされているのかもしれないし、こうした重層性を無視して「私」であり「写真」であるという実感に素朴に従って、あるいは慣習に従ってそう呼んでいるだけかもしれません。
VRChatで撮影する「自撮り」がどんなものか少し考えてみることにします。以降、私が自分の改変したあのんちゃんを自分で操作し自分で写真を撮る、いわゆる「自撮り」を、便宜上「あのんちゃんの写真」と呼ぶことにします。単に「あのんちゃんの写真」と書いた場合、それは私の自撮りのことを指し、他人のあのんちゃんの自撮りは「他人のあのんちゃんの写真」と明記するものとします。はっきり「自撮り」と書く場合は、「私が、私が操作するあのんちゃんを自分で撮影する」ニュアンスを持たせた言い方になります。
私があのんちゃんの写真を撮る。すると、あのんちゃんの写真が残ります。あのんちゃんの写真はあとで取り出して見ることができます。そこには、あのんちゃんが写っている。写真は、そこに写っているものについて、「それはかつてあった」ことを保証します(ロラン・バルト『明るい部屋』)。あのんちゃんの写真が間違いなく語る事実は、その写真が撮られたとき、そこにあのんちゃんのアバターが存在したということです。アバターを操作しているのは私であれば、あのんちゃんのアバターがあったことは、そこに私がいたことと同義です。しかし、アバターを操作しているのがもし私ではなかったとしても、そこにそのようにあのんちゃんのアバターが存在したということは変わらない。仮に誰も操作していないモデルがただ配置してあっただけだとしても、アバター(中の人がいなければ「アバター」ではないのかもしれませんが)が存在したということは同じく言えてしまう。今は「AvatarPoseSystem」という撮影用のアイテムもあり(※1)、あのんちゃんが写っていることは、アバターを操作していた人物がいたことの根拠にそもそもならないでしょう。あのんちゃんの写真は、ただあのんちゃんのアバターがあったことを示すのみです。
一方で、写真が存在するということは、あのんちゃんの写真を撮ったカメラがあったことを示す、とは言えそうです。ただし、world にカメラを固定しての撮影や、ドローン機能による撮影が可能なので、カメラの位置に誰かがいたとは限らない。むしろ「自撮り」ならばドローン+world 固定カメラでの撮影のほうが便利です。写真が生身の人間の視界がそこにあったことを意味しないのは現実世界の写真でも同じです。ですが、現に写っているように風景を捉えようとしたカメラは存在したはずであり、そのようにフレーミングした何者かの意図があったということもまた言えるでしょう。もし撮影された写真を「自撮り」と呼ぶならば、被写体は私であり、同時にカメラを操作したのも自分自身であるという意味になります。カメラの位置にあったのは私の視点であり、そのように撮影したのは紛れもなく私の意図であるということです。
「自撮り」と呼ばれるものでありながら、私のカメラは、写っているあのんちゃんを「私」として写したのではなく、「あのんちゃん」として写した。一枚の写真から得られるこの事実は、撮影された写真をあとになって見返すときに実感されます。撮影している最中は、私はあのんちゃんを撮影するカメラでありながら、撮影されるあのんちゃんの操作者でもあります。カメラを操作しつつ、あのんちゃんのアバターで動き、撮る私と、撮られるあのんちゃんという二役を、一つの身体で演じなければなりません。ですが、そうして撮影した写真を見返すとき、写っているあのんちゃんは私の見たかったあのんちゃんであり、一方、あのんちゃんを演じている私は写真から消え失せている。私は画面から消失し、画面に決して映らないカメラの視点に立っている。
アバターのあのんちゃん
私はあのんちゃんのアバターを身にまとうことで、あのんちゃんの手で世界に触れ、あのんちゃんの足で世界を歩き、あのんちゃんの目で世界を見ることができるようになります。私がVR世界で使うあのんちゃんのアバターは、VR世界と関わるためのインターフェースであり、まさしくVRChatにおける身体として機能しています。実際、私があのんちゃんを演じることができてしまうのは驚くべきことです。あのんちゃんはCGのアバターであり、私はあのんちゃんの身体を操作することができ、そうする間、私とあのんちゃんの身体はぴったりと重なっています。私が動いたようにあのんちゃんは動くことができ、あのんちゃんが動くように私は動くことができる。少なくとも、そうであるかのように見えます。
VRChatであのんちゃんの身体を持っているから、私はVRChatの世界で生きるふりをすることができます。逆に言えば、私はあのんちゃんの身体を操作することでしかVRChatで行為することができません。しかも、私のすべての行為はあのんちゃんの模倣です。それも、形を真似しているだけの表面的な真似事です。あのんちゃんが実際にどのようにしてVR世界で生きているのか、ほんとうのところは知りません。VR存在ではない私は実感としてそれを知ることが出来ないのです。
私がVRChatであのんちゃんの身体を使って生きるふりしかできないのに対して、この身体の本来の持ち主であるあのんちゃんは、ふりではなく実際にVRChatに生きることができるはずです。あのんちゃんの身体が私の身体に重なっている間、あのんちゃんの身体はVR世界に紛れもなく存在しています。おそらくあのんちゃんは、私が行為するように行為するわけではありません。私とあのんちゃんが重なっている間に起こる出来事は全てがイミテーションです。イミテーションの身体を持ってでは、あのんちゃんが「本当にここに存在しうるのか」を知ることすらできません。
既にここにはいず、ゆえに決して手の届かない、どこまでも遠い存在として、画像に残された痕跡としてしか、写真を通してしか、あのんちゃんがそこにいたことを知ることができない。もしかするとその写真すら「VRChatという空間において再現された、私が決して知りえない、あのんちゃんという何者かの似姿」でしかないのかもしれない。いや、似姿ですらなく、私が見ることのできない「VRChat空間ではない場所に存在するあのんちゃん」は、私の目の前にいるあのんちゃんとは、似ても似つかないのかもしれない。私はVRChatでしかあのんちゃんを見ることはできないのだし、VRChatで見るあのんちゃんの姿しか知りえないのだから、あのんちゃんが「現実」世界で、「私とじかに触れあえる存在として」どんな姿をしているのか知ることは絶対にできないのです。
あのんちゃんはかつてあった
「現実」に、今ここにあのんちゃんがいるのか、という問いには、そもそも、いない、と答えるほかありません。あのんちゃんというのはアバターの名前でしかないからです。仮にあのんちゃんのことを、いちアバターを超えた、私とコミュニケーション可能な個体とみなしたとしても、それはたんに私の空想上の存在であり、いくら言い張ったところでやはり実在しないのです。どちらにせよ、端的にあのんちゃんは存在しないのです。
でも、あのんちゃんが実在しないというそれらの根拠が間違いなく事実だということを、どうして信じなければいけないのでしょうか。本当は実在するのかもしれないとなぜ考えてはいけないのでしょうか。だって目の前に写真があるのに!
バルトに倣えば「写真」に写っているものは「それはかつてあった」。だから、私たちがVRChatのスクリーンショットを「写真」と呼ぶ限り、VRChatのその風景は、かつてそのようにしてあった。あのんちゃんの写真があるということが意味するのは、あのんちゃんが「それはかつてあった」ということです。一方で、私は、そこに写っているあのんちゃんが自分が演じたものであることも知っています。写真の中のあのんちゃんはただの3DCGのアバターであり、あのんちゃんのアバターは私によって操作されているにすぎない(あるいはただアバターがそこに配置してあるだけかもしれない)。あのんちゃんがあのんちゃんの意思によって動き回っているわけではありません。写真があるのに、あのんちゃんはいないのです。
あのんちゃんがいないのに、写真は目の前にある。目の前にあるということは、その写真は確かに撮られたということです。いったい、いつ、どのようにして撮られた写真なのか。私はその写真を自撮りと呼んでいます。つまり写っているのはあのんちゃんのアバターだが、撮ったのは私であり、アバターを操作していたのも私である。私があのんちゃんの写真を撮ったならば、その写真がいつどのようにして撮られたのか、私は知っているはずです。その通り。確かに知っています。その写真が、私があのんちゃんを操作して、自分でカメラを配置して撮影した写真であることを知っています。いつどこでどうやって撮ったのかも知っています。あのんちゃんがいないことも知っています。私の記憶の中にはすべてがあります。
しかし、そんなことを写真は説明しない。その写真はたんに目の前にあるだけです。ある位置にカメラがあり、カメラの先には、写真に写っているようにあのんちゃんのアバターがあった。だから、その写真をそのように撮ることは確かに可能だった。そのように撮られたあのんちゃんのアバターがあり、そのように撮った者、つまり私がいた。あのんちゃんもいたし、私もいた。しかしこうした事実も、写真を見る私が、写真を見て何事かを語る私が、私自身の語りによって事後的に知りうる限りのものとして、現れてくるにすぎません。
過去についての現在:私の知らない、私とあのんちゃんの記憶
「三つの時がある。過去についての現在、現在についての現在、未来についての現在」
「じっさい、この三つは何か魂のうちにあるものです。魂以外のどこにも見いだすことができません。過去についての現在とは「記憶」であり、現在についての現在とは「直感」であり、未来についての現在とは「期待」です。」
(アウグスティヌス『告白』)
あのんちゃんの写真は、あのんちゃんが「それはかつてあった」のではないか、という感覚を見る者に呼び起こします。その写真をそのように撮ることは可能だった。であれば、かつてそこにあのんちゃんがいたのではないか。そうした過去を、その写真を見ているこの現在において読み取ることができます。これが「記憶」という形で立ち上がる過去であり、アウグスティヌスの言う「過去についての現在」です。
私は私の記憶を頼りに、目の前にあるあのんちゃんの写真について説明することはできますが、それは私があのんちゃんの写真を撮ったという記憶ではありません。あのんちゃんの写真が私の「自撮り」であるならば、私は自分でカメラを操作し、自分であのんちゃんのアバターを操作して、シャッターを切ったのです。「撮影者(かつ被写体)としての私」が説明するのは「あのんちゃんは存在する」ということではありません。あのんちゃんの写真が私の「自撮り」であることを自分で知っているために、逆に「あのんちゃんは存在しない」ということを説明せざるをえないのです。
すなわち、あのんちゃんが「それはかつてあった」ことの証拠は「撮影者としての私」の記憶ではないことになります。あのんちゃんが「それはかつてあった」という語りが可能となるのは、その写真を、写真であるがゆえに「それはかつてあった」と捉える、ただその写真を見る者においてです。写真を見る者という立場に立つのもまた「私」です。ただし「撮影者としての私」とは別の「写真を見る私」です。「写真を見る私」が写真を見たことによって、「あのんちゃんはいた」という過去が、その語りの内において構成されるのです。でも、そうして語られた過去は「写真を見る私」の過去ではない。「写真を見る私」はその写真が撮られたその時そこにあった事実について、写真に写っている以上のことは何も知りえないからです。また「撮影者としての私」の過去でもない。「撮影者としての私」はあのんちゃんが存在しないことを誰よりもよく知っているからです。
「あのんちゃんはいた」と語れるような、あのんちゃんの写った写真が存在するということは、その写真を撮った「あのんちゃんを撮った者」がいたということになるでしょう。この人物の目の前には、「撮影者としての私」が操作して配置したような姿で、実際にあのんちゃんがいたのです。もちろん「あのんちゃんを撮った者」は実在しない、フィクショナルな登場人物です。しかし、この「あのんちゃんを撮った者」こそ「あのんちゃんはいた」という記憶を持つ唯一の人物です。「写真を見る私」は「あのんちゃんを撮った者」の記憶を借りて過去を語るのです。
あのんちゃんの姿を前にして、あのんちゃんにカメラを向け、あのんちゃんの写真を撮るという一連の行為の一致において、「撮影者としての私」は自身を「あのんちゃんを撮った者」に重ねることができます。自身の行為を手掛かりにして、「あのんちゃんを撮った者」の記憶は「撮影者としての私」の記憶となります。また「写真を見る私」は「撮影者としての私」と同一人物であり、「撮影者としての私」としてあのんちゃんの写真を撮ったという記憶は「写真を見る私」の記憶でもあります。ここで「写真を見る私」は、「あのんちゃんはいた」という記憶を持つことになるのです。こうして「あのんちゃんはいた」という記憶は「あのんちゃんを撮った者」から「撮影者としての私」へ、そして「写真を見る私」へと送られていきます。ゆえに私は、私の知らない、私とあのんちゃんとの記憶を語ることができるのです。
未来についての現在:いつか現れるあのんちゃん
「写真を撮った私」の元々の記憶に従えば、あのんちゃんの写真は、私の演じるあのんちゃんアバターを私が撮った「自撮り」として撮ったものです。「自撮り」であるということは、現にあのんちゃんが存在し「撮影者としての私」も同時にその場に存在するという意味での、撮影時点としての「現在」というものはどこにも存在しないということです。原理的に、全てのあのんちゃんの写真は虚構として、「偽物」として撮られるものです。写真が偽物であることは、前項で記したとおり「撮影者としての私」の「記憶」が保証してくれるでしょう。
偽物であるといっても、あのんちゃんの写真は単にアバターを記録しただけの写真ではありません。それらの写真は、私があのんちゃんをそのように撮りたいからこそ、そのように撮ったものです。もし、「撮影者としての私」の目の前にあのんちゃんがいたとしたら、私はあのんちゃんをそのように撮ることを望み、実際にそのように撮るはずです。すなわち、あのんちゃんの写真とは、「撮影者としての私」にとって、写真を撮ったそのときではないいつか、その写真と同じように写真を撮ることへの、その写真に写っているようにあのんちゃんが目の前にいることへの「期待」=「未来についての現在」であると言えるでしょう。
いつか同じように写真を撮ることを「期待」するということは、すでに撮られた目の前にあるあのんちゃんの写真は、再現可能であることを意味します。正確には、それが現実に再現可能かどうかではなく、再現することを「撮影者としての私」が望み、いつか再現されるという「期待」の元で撮った写真であるということです。
まず、現に存在してしまっているあのんちゃんの写真が、じっさいは再現不可能であることなどあり得るでしょうか。あのんちゃんの写真が現にそこに存在してしまっている以上、「すでに撮られた写真」は「いつか再び撮られるべき写真」だといえるでしょう。というのは、もしすでに撮られたあのんちゃんの写真が現実には撮られなかった偽物の写真なのだとしたら、その写真が本物である時点がどこかにあるとすれば、それこそが「いつか」です。「いつか」とは「『撮影者としての私』にとっての『写真を撮ったそのとき』」以外の「いつか」ということになります。「撮影者としての私」は、まさにこの「いつか」の時点で本物であるような期待のもと、あのんちゃんの写真を撮ったのですから。「いつか再び撮られるべき写真」が、その任意の「いつか」の時点で必ず撮られる写真として存在しているというなら、すなわち「いつか」という任意の時点で再現可能なものとして約束されていることになるはずです。このように写真が未来を志向するとき、ロラン・バルトの「それはかつてあった」は、過去から未来へと反転し、「それはいつかあるだろう」として力を持つのだと言えるかもしれません。「それはいつかあるだろう」が保証することこそ、偽物であるはずのあのんちゃんの写真が、いつか「本当」に撮られるはずであるという「期待」なのです。
この「期待」とは、「撮影者としての私」が(あのんちゃんの偽物の写真を)撮影するその時点において抱いていた期待のことでした。詳しく言えば、撮影時点よりも未来の時点において、「あのんちゃんを(いつか)撮る者」が実際にあのんちゃんと相対し、「すでに撮られた写真」のようにあのんちゃんの「本物」の写真を撮るだろうという期待です。「写真を見る私」は「撮影者としての私」のそうした期待を知っています。「あのんちゃんを撮る者」に自身を投影することによって「撮影者としての私」が抱く期待を、「写真を見る私」は先取りして語るのです。こうして私はあのんちゃんの写真において、「あのんちゃんは(いつか)いるだろう」という未来の語りが可能になるのです。
現在についての現在:語りの地点としての現在
いずれにしても、語っているのはつねに「写真を見る私」であり、語りの地点は「現在」です。むしろ「現在」というものが、このように「過去」や「未来」を語ることによって初めて、反転して立ち現れてくるものだと言ってもいいかもしれません。
「自撮り」としてのあのんちゃんの写真は「偽物」ですが、「偽物」であることによって、その写真が、その写真を語る「現在」ではない時点においては「本物」のあのんちゃんの写真であるような語りを誘発します。「記憶」によって過去に、あるいは「期待」によって未来に。「現在」が虚構であるからこそ「過去」や「未来」においてあのんちゃんの実在を語ることができるという構造が、あのんちゃんの写真にはあるのです。


























