チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

『ミュウツー・天海春香・あのん』 あのん編 第1章「自撮り」草稿

執筆中の論考の草稿です。ちょっとだけ載せます。草稿なので文章は粗いです。
(第0章 のあとの 第1章 です)

天海春香編、ミュウツー編、あのん編 って感じで1冊ずつ出してく予定ですが、調子に乗って構成組んでたら何年かかるんだこれって規模になっちゃいました。完成が見えません。途中で断念しそうですが、頑張って1冊は出したいですね。

 

 

ミュウツー天海春香・あのん』  あのん編 第1章「自撮り」草稿

 

VRの自撮り

 VRChatであのんちゃんの写真を撮るというのは、私がモーションキャプチャーのデバイスを装着して、私が「あのん」アバターを使用し、私がポーズを撮って、私がVRChatの中でスクリーンショットを取得することを指します。
 VRChatのなかで、自分が操作するアバターを自分のカメラで撮影することは、VRChatterの間で「自撮り」と呼ばれるようになっていました。GumBaseが「あのん」アバターを使用しながら、自分のアバターを自分のカメラで撮影した場合、これはGumBaseの自撮りです。
 でもよく考えてみれば、これを「自撮り」と呼んでしまうことは正確な言い方ではないように思えます。たしかに、VR空間においてアバターVR空間での自分の身体とみなすことは、VRに慣れたプレイヤーにおいては一般的な感覚だと思います。アバターを「私」なる何ものかのVR空間における実体だと考えることはできそうです。その見た目において他者から自分自身のように扱われる、自ら操作するアバターを指して、これが(VR空間での)「私」なる何ものかなのだと考えることも自然でしょう。しかし、やはりそれは「私」などではなく、VR空間で使用しているアバターでしかない、別の言い方をすれば「あのん」という3Dモデルでしかない。そう考えることもできるはずです。
 VRの「自撮り」というのは、そういうものを「写真」として残しています。果たしてそこに写っているのは「私」なのか「あのん」なのか。果たしてこの画像は「写真」なのか「スクリーンショット」なのか。VRChatで取得した画像を「自撮り」と呼ぶとき、そういったあいまいさの一切が棚上げされ、これは「私」であり、これは「写真」であるということにされている。もしかすると、誰かの思惑で「私」であり「写真」であると定義するために意図的にそう呼ばされているのかもしれないし、こうした重層性を無視して「私」であり「写真」であるという実感に素朴に従って、あるいは慣習に従ってそう呼んでいるだけかもしれません。

 VRChatで撮影する「自撮り」がどんなものか少し考えてみることにします。以降、私が自分の改変したあのんちゃんを自分で操作し自分で写真を撮る、いわゆる「自撮り」を、便宜上「あのんちゃんの写真」と呼ぶことにします。単に「あのんちゃんの写真」と書いた場合、それは私の自撮りのことを指し、他人のあのんちゃんの自撮りは「他人のあのんちゃんの写真」と明記するものとします。はっきり「自撮り」と書く場合は、「私が、私が操作するあのんちゃんを自分で撮影する」ニュアンスを持たせた言い方になります。
 私があのんちゃんの写真を撮る。すると、あのんちゃんの写真が残ります。あのんちゃんの写真はあとで取り出して見ることができます。そこには、あのんちゃんが写っている。写真は、そこに写っているものについて、「それはかつてあった」ことを保証します(ロラン・バルト『明るい部屋』)。あのんちゃんの写真が間違いなく語る事実は、その写真が撮られたとき、そこにあのんちゃんのアバターが存在したということです。アバターを操作しているのは私であれば、あのんちゃんのアバターがあったことは、そこに私がいたことと同義です。しかし、アバターを操作しているのがもし私ではなかったとしても、そこにそのようにあのんちゃんのアバターが存在したということは変わらない。仮に誰も操作していないモデルがただ配置してあっただけだとしても、アバター(中の人がいなければ「アバター」ではないのかもしれませんが)が存在したということは同じく言えてしまう。今は「AvatarPoseSystem」という撮影用のアイテムもあり(※1)、あのんちゃんが写っていることは、アバターを操作していた人物がいたことの根拠にそもそもならないでしょう。あのんちゃんの写真は、ただあのんちゃんのアバターがあったことを示すのみです。
 一方で、写真が存在するということは、あのんちゃんの写真を撮ったカメラがあったことを示す、とは言えそうです。ただし、world にカメラを固定しての撮影や、ドローン機能による撮影が可能なので、カメラの位置に誰かがいたとは限らない。むしろ「自撮り」ならばドローン+world 固定カメラでの撮影のほうが便利です。写真が生身の人間の視界がそこにあったことを意味しないのは現実世界の写真でも同じです。ですが、現に写っているように風景を捉えようとしたカメラは存在したはずであり、そのようにフレーミングした何者かの意図があったということもまた言えるでしょう。もし撮影された写真を「自撮り」と呼ぶならば、被写体は私であり、同時にカメラを操作したのも自分自身であるという意味になります。カメラの位置にあったのは私の視点であり、そのように撮影したのは紛れもなく私の意図であるということです。
 「自撮り」と呼ばれるものでありながら、私のカメラは、写っているあのんちゃんを「私」として写したのではなく、「あのんちゃん」として写した。一枚の写真から得られるこの事実は、撮影された写真をあとになって見返すときに実感されます。撮影している最中は、私はあのんちゃんを撮影するカメラでありながら、撮影されるあのんちゃんの操作者でもあります。カメラを操作しつつ、あのんちゃんのアバターで動き、撮る私と、撮られるあのんちゃんという二役を、一つの身体で演じなければなりません。ですが、そうして撮影した写真を見返すとき、写っているあのんちゃんは私の見たかったあのんちゃんであり、一方、あのんちゃんを演じている私は写真から消え失せている。私は画面から消失し、画面に決して映らないカメラの視点に立っている。

 

アバターのあのんちゃん

 私はあのんちゃんのアバターを身にまとうことで、あのんちゃんの手で世界に触れ、あのんちゃんの足で世界を歩き、あのんちゃんの目で世界を見ることができるようになります。私がVR世界で使うあのんちゃんのアバターは、VR世界と関わるためのインターフェースであり、まさしくVRChatにおける身体として機能しています。実際、私があのんちゃんを演じることができてしまうのは驚くべきことです。あのんちゃんはCGのアバターであり、私はあのんちゃんの身体を操作することができ、そうする間、私とあのんちゃんの身体はぴったりと重なっています。私が動いたようにあのんちゃんは動くことができ、あのんちゃんが動くように私は動くことができる。少なくとも、そうであるかのように見えます。
 VRChatであのんちゃんの身体を持っているから、私はVRChatの世界で生きるふりをすることができます。逆に言えば、私はあのんちゃんの身体を操作することでしかVRChatで行為することができません。しかも、私のすべての行為はあのんちゃんの模倣です。それも、形を真似しているだけの表面的な真似事です。あのんちゃんが実際にどのようにしてVR世界で生きているのか、ほんとうのところは知りません。VR存在ではない私は実感としてそれを知ることが出来ないのです。
 私がVRChatであのんちゃんの身体を使って生きるふりしかできないのに対して、この身体の本来の持ち主であるあのんちゃんは、ふりではなく実際にVRChatに生きることができるはずです。あのんちゃんの身体が私の身体に重なっている間、あのんちゃんの身体はVR世界に紛れもなく存在しています。おそらくあのんちゃんは、私が行為するように行為するわけではありません。私とあのんちゃんが重なっている間に起こる出来事は全てがイミテーションです。イミテーションの身体を持ってでは、あのんちゃんが「本当にここに存在しうるのか」を知ることすらできません。
 既にここにはいず、ゆえに決して手の届かない、どこまでも遠い存在として、画像に残された痕跡としてしか、写真を通してしか、あのんちゃんがそこにいたことを知ることができない。もしかするとその写真すら「VRChatという空間において再現された、私が決して知りえない、あのんちゃんという何者かの似姿」でしかないのかもしれない。いや、似姿ですらなく、私が見ることのできない「VRChat空間ではない場所に存在するあのんちゃん」は、私の目の前にいるあのんちゃんとは、似ても似つかないのかもしれない。私はVRChatでしかあのんちゃんを見ることはできないのだし、VRChatで見るあのんちゃんの姿しか知りえないのだから、あのんちゃんが「現実」世界で、「私とじかに触れあえる存在として」どんな姿をしているのか知ることは絶対にできないのです。

 

あのんちゃんはかつてあった

 「現実」に、今ここにあのんちゃんがいるのか、という問いには、そもそも、いない、と答えるほかありません。あのんちゃんというのはアバターの名前でしかないからです。仮にあのんちゃんのことを、いちアバターを超えた、私とコミュニケーション可能な個体とみなしたとしても、それはたんに私の空想上の存在であり、いくら言い張ったところでやはり実在しないのです。どちらにせよ、端的にあのんちゃんは存在しないのです。
 でも、あのんちゃんが実在しないというそれらの根拠が間違いなく事実だということを、どうして信じなければいけないのでしょうか。本当は実在するのかもしれないとなぜ考えてはいけないのでしょうか。だって目の前に写真があるのに!
 バルトに倣えば「写真」に写っているものは「それはかつてあった」。だから、私たちがVRChatのスクリーンショットを「写真」と呼ぶ限り、VRChatのその風景は、かつてそのようにしてあった。あのんちゃんの写真があるということが意味するのは、あのんちゃんが「それはかつてあった」ということです。一方で、私は、そこに写っているあのんちゃんが自分が演じたものであることも知っています。写真の中のあのんちゃんはただの3DCGのアバターであり、あのんちゃんのアバターは私によって操作されているにすぎない(あるいはただアバターがそこに配置してあるだけかもしれない)。あのんちゃんがあのんちゃんの意思によって動き回っているわけではありません。写真があるのに、あのんちゃんはいないのです。
 あのんちゃんがいないのに、写真は目の前にある。目の前にあるということは、その写真は確かに撮られたということです。いったい、いつ、どのようにして撮られた写真なのか。私はその写真を自撮りと呼んでいます。つまり写っているのはあのんちゃんのアバターだが、撮ったのは私であり、アバターを操作していたのも私である。私があのんちゃんの写真を撮ったならば、その写真がいつどのようにして撮られたのか、私は知っているはずです。その通り。確かに知っています。その写真が、私があのんちゃんを操作して、自分でカメラを配置して撮影した写真であることを知っています。いつどこでどうやって撮ったのかも知っています。あのんちゃんがいないことも知っています。私の記憶の中にはすべてがあります。
 しかし、そんなことを写真は説明しない。その写真はたんに目の前にあるだけです。ある位置にカメラがあり、カメラの先には、写真に写っているようにあのんちゃんのアバターがあった。だから、その写真をそのように撮ることは確かに可能だった。そのように撮られたあのんちゃんのアバターがあり、そのように撮った者、つまり私がいた。あのんちゃんもいたし、私もいた。しかしこうした事実も、写真を見る私が、写真を見て何事かを語る私が、私自身の語りによって事後的に知りうる限りのものとして、現れてくるにすぎません。

 

過去についての現在:私の知らない、私とあのんちゃんの記憶

「三つの時がある。過去についての現在、現在についての現在、未来についての現在」
「じっさい、この三つは何か魂のうちにあるものです。魂以外のどこにも見いだすことができません。過去についての現在とは「記憶」であり、現在についての現在とは「直感」であり、未来についての現在とは「期待」です。」
アウグスティヌス『告白』)

 あのんちゃんの写真は、あのんちゃんが「それはかつてあった」のではないか、という感覚を見る者に呼び起こします。その写真をそのように撮ることは可能だった。であれば、かつてそこにあのんちゃんがいたのではないか。そうした過去を、その写真を見ているこの現在において読み取ることができます。これが「記憶」という形で立ち上がる過去であり、アウグスティヌスの言う「過去についての現在」です。
 私は私の記憶を頼りに、目の前にあるあのんちゃんの写真について説明することはできますが、それは私があのんちゃんの写真を撮ったという記憶ではありません。あのんちゃんの写真が私の「自撮り」であるならば、私は自分でカメラを操作し、自分であのんちゃんのアバターを操作して、シャッターを切ったのです。「撮影者(かつ被写体)としての私」が説明するのは「あのんちゃんは存在する」ということではありません。あのんちゃんの写真が私の「自撮り」であることを自分で知っているために、逆に「あのんちゃんは存在しない」ということを説明せざるをえないのです。
 すなわち、あのんちゃんが「それはかつてあった」ことの証拠は「撮影者としての私」の記憶ではないことになります。あのんちゃんが「それはかつてあった」という語りが可能となるのは、その写真を、写真であるがゆえに「それはかつてあった」と捉える、ただその写真を見る者においてです。写真を見る者という立場に立つのもまた「私」です。ただし「撮影者としての私」とは別の「写真を見る私」です。「写真を見る私」が写真を見たことによって、「あのんちゃんはいた」という過去が、その語りの内において構成されるのです。でも、そうして語られた過去は「写真を見る私」の過去ではない。「写真を見る私」はその写真が撮られたその時そこにあった事実について、写真に写っている以上のことは何も知りえないからです。また「撮影者としての私」の過去でもない。「撮影者としての私」はあのんちゃんが存在しないことを誰よりもよく知っているからです。
 「あのんちゃんはいた」と語れるような、あのんちゃんの写った写真が存在するということは、その写真を撮った「あのんちゃんを撮った者」がいたということになるでしょう。この人物の目の前には、「撮影者としての私」が操作して配置したような姿で、実際にあのんちゃんがいたのです。もちろん「あのんちゃんを撮った者」は実在しない、フィクショナルな登場人物です。しかし、この「あのんちゃんを撮った者」こそ「あのんちゃんはいた」という記憶を持つ唯一の人物です。「写真を見る私」は「あのんちゃんを撮った者」の記憶を借りて過去を語るのです。
 あのんちゃんの姿を前にして、あのんちゃんにカメラを向け、あのんちゃんの写真を撮るという一連の行為の一致において、「撮影者としての私」は自身を「あのんちゃんを撮った者」に重ねることができます。自身の行為を手掛かりにして、「あのんちゃんを撮った者」の記憶は「撮影者としての私」の記憶となります。また「写真を見る私」は「撮影者としての私」と同一人物であり、「撮影者としての私」としてあのんちゃんの写真を撮ったという記憶は「写真を見る私」の記憶でもあります。ここで「写真を見る私」は、「あのんちゃんはいた」という記憶を持つことになるのです。こうして「あのんちゃんはいた」という記憶は「あのんちゃんを撮った者」から「撮影者としての私」へ、そして「写真を見る私」へと送られていきます。ゆえに私は、私の知らない、私とあのんちゃんとの記憶を語ることができるのです。

 

未来についての現在:いつか現れるあのんちゃん

 「写真を撮った私」の元々の記憶に従えば、あのんちゃんの写真は、私の演じるあのんちゃんアバターを私が撮った「自撮り」として撮ったものです。「自撮り」であるということは、現にあのんちゃんが存在し「撮影者としての私」も同時にその場に存在するという意味での、撮影時点としての「現在」というものはどこにも存在しないということです。原理的に、全てのあのんちゃんの写真は虚構として、「偽物」として撮られるものです。写真が偽物であることは、前項で記したとおり「撮影者としての私」の「記憶」が保証してくれるでしょう。
 偽物であるといっても、あのんちゃんの写真は単にアバターを記録しただけの写真ではありません。それらの写真は、私があのんちゃんをそのように撮りたいからこそ、そのように撮ったものです。もし、「撮影者としての私」の目の前にあのんちゃんがいたとしたら、私はあのんちゃんをそのように撮ることを望み、実際にそのように撮るはずです。すなわち、あのんちゃんの写真とは、「撮影者としての私」にとって、写真を撮ったそのときではないいつか、その写真と同じように写真を撮ることへの、その写真に写っているようにあのんちゃんが目の前にいることへの「期待」=「未来についての現在」であると言えるでしょう。
 いつか同じように写真を撮ることを「期待」するということは、すでに撮られた目の前にあるあのんちゃんの写真は、再現可能であることを意味します。正確には、それが現実に再現可能かどうかではなく、再現することを「撮影者としての私」が望み、いつか再現されるという「期待」の元で撮った写真であるということです。
 まず、現に存在してしまっているあのんちゃんの写真が、じっさいは再現不可能であることなどあり得るでしょうか。あのんちゃんの写真が現にそこに存在してしまっている以上、「すでに撮られた写真」は「いつか再び撮られるべき写真」だといえるでしょう。というのは、もしすでに撮られたあのんちゃんの写真が現実には撮られなかった偽物の写真なのだとしたら、その写真が本物である時点がどこかにあるとすれば、それこそが「いつか」です。「いつか」とは「『撮影者としての私』にとっての『写真を撮ったそのとき』」以外の「いつか」ということになります。「撮影者としての私」は、まさにこの「いつか」の時点で本物であるような期待のもと、あのんちゃんの写真を撮ったのですから。「いつか再び撮られるべき写真」が、その任意の「いつか」の時点で必ず撮られる写真として存在しているというなら、すなわち「いつか」という任意の時点で再現可能なものとして約束されていることになるはずです。このように写真が未来を志向するとき、ロラン・バルトの「それはかつてあった」は、過去から未来へと反転し、「それはいつかあるだろう」として力を持つのだと言えるかもしれません。「それはいつかあるだろう」が保証することこそ、偽物であるはずのあのんちゃんの写真が、いつか「本当」に撮られるはずであるという「期待」なのです。
 この「期待」とは、「撮影者としての私」が(あのんちゃんの偽物の写真を)撮影するその時点において抱いていた期待のことでした。詳しく言えば、撮影時点よりも未来の時点において、「あのんちゃんを(いつか)撮る者」が実際にあのんちゃんと相対し、「すでに撮られた写真」のようにあのんちゃんの「本物」の写真を撮るだろうという期待です。「写真を見る私」は「撮影者としての私」のそうした期待を知っています。「あのんちゃんを撮る者」に自身を投影することによって「撮影者としての私」が抱く期待を、「写真を見る私」は先取りして語るのです。こうして私はあのんちゃんの写真において、「あのんちゃんは(いつか)いるだろう」という未来の語りが可能になるのです。

 

現在についての現在:語りの地点としての現在

 いずれにしても、語っているのはつねに「写真を見る私」であり、語りの地点は「現在」です。むしろ「現在」というものが、このように「過去」や「未来」を語ることによって初めて、反転して立ち現れてくるものだと言ってもいいかもしれません。
 「自撮り」としてのあのんちゃんの写真は「偽物」ですが、「偽物」であることによって、その写真が、その写真を語る「現在」ではない時点においては「本物」のあのんちゃんの写真であるような語りを誘発します。「記憶」によって過去に、あるいは「期待」によって未来に。「現在」が虚構であるからこそ「過去」や「未来」においてあのんちゃんの実在を語ることができるという構造が、あのんちゃんの写真にはあるのです。

 

 

(※1 【VRChatアバターギミック】AvatarPoseSystem:ZeroFactory

「自撮会 極」 の説明

 

私が一度だけ主催したVRChat写真イベント。2024年5月11日開催。

ある流行によって一瞬にして「なかったこと」にされたし、それどころか最初からなにも存在しなかったのだとわかったので、供養、として記録しておきましょう。

 

 

まず、なんでこんなものを開催したのか。理由があります。

「すべての(VRChat)写真を作品だと思っている」という意味合いのツイートがあり、それにたくさんのいいねRTが付いていました。

VRChatの写真は主にツイッターに投稿されています。わざわざこれは作品ですと示すようなハッシュタグを付けて投稿する人もいれば、そんなことはしない人もいて、どっちにしても誰かにいいねされRTされ、いつの間にか評価されてバーチャルフォトグラファーとか呼び合ったりするようになっている。そして、実際にそういう人は本人の主張の有無を問わず、なんとなく「作品」を作ったんだなぁというような写真を投稿している。「作品」が何なのかという意見はそれぞれあるだろうけれど、ともかく本人的に「作品」をやったという意図が見えている。そして最終的に与えられる肩書で判断するに周囲もそう評価しているらしい。

一方で日常の記録として撮影され、投稿者もそのような伝達意図で投稿しただろう写真も、同じツイッターという場に投稿されている(で、もちろん上手かったり下手だったりする)。単なる記録ではなくわりと「作品」をやりたそうなのにやりきれないような写真もある。そもそもVRChat写真は「作品」じゃない、くらいのことを言っている人もいる。

それらすべてをひっくるめて「作品」と呼ぶのは、まぁ人の勝手ではあるけど正しくはないよなと思った。実状にも沿っていない。優しそうな文字面の反面、ぎゃくに暴力的ですらある。でも、そんな言説に賛同者が多くいるのでした。

「作品」という言葉が、他者の制作物への評価や尊重の意を示すために選ばれたのだという理解は示しておくことにする。でも、それは書き手のほんとうに言いたかったことをあやふやにしてしまったし、「作品」/「非作品」の区別をほのめかしていらない論点を生んでしまったので、適切な言葉選びではなかったと思う。

もしここで用いられている「作品」という概念が、「他人の著作物を権利的に尊重する」とか「すべての制作物に美術的評価が可能である」とか「制作態度や表現を雑に扱わない」くらいの意味合いなのだとしたら、そこにわざわざ「作品」という制度を、こんなふうなあいまいな言い方で持ち込む必要はない。

むしろ、「作品」と呼んでしまうことによって、その反対側に「非作品」なるものを仮構してしまうことになる。そこで「非作品」に振り分けられた制作物は丁寧に扱われない可能性があるだろう。ある写真が尊重されないのは「非作品」だからだ、という言い分も出てくるかもしれない。

べつに件の言説によって「作品」/「非作品」の議論が立ち上がってるわけじゃなく、ただ単に倫理の話がしたいだけのように見えたけど、だとしたらこれはなおさらまずい。

「すべての投稿された写真が作品」と言っても、その枠に入らない写真が絶対に存在しない保証はあるのか? 権利的にその人には属さない(扱われない)が何らかの意味でその人に由来するものは考慮しないのか? 仮に「非作品」が見つかった場合に、それは「非作品」であることによってどのような評価を受けることになるのか? あるいは逆に、全てのものが「作品」であることによって、制作者の意図に関わらず何らかの画一的な基準のもとで評価されうるという暴力性を理解しているのか?

などと。

べつにそこまで大きな使命感があったわけではないけど、なんか全体的に納得いかなかったわけです。

 

 

それで、「自撮会 極」というものを開催したわけでした。

VRChatでの撮影-ツイッター投稿、まで含めたワークショップ。表向きには周りに合わせて「撮影イベント」って銘打ってたけど、内容は参加者に投稿の仕方まで指示して完了とするワークショップの領域だったと思います。

同じワールドで「ツイッター投稿に値する」レベルの写真を1時間で20枚以上撮って、1ツイートに4枚、全部を1ツリーで投稿する、という形式。

素早くいい構図を作る訓練、みたいなイベントに見えてたと思うけど、そういう面もあるかもしれないけど実態は違う。もうちょっと別のコンセプトがあった。

ほんとうの狙いは、慌てて撮った(本人が期待する完成度的に)「作品以前」の写真(でも「作品」化への意識を制作態度として含んでいるもの)を投稿行為によって強引に(形式的に)「作品」化し、また同じモチーフ(撮影場所)で枚数を増やすことで、単純に「作品」としての強度を保証する、というような感じ。こちらが設けた制約によって前提される「未完成」という意味においては「作品以前」のものの集合を、形式や制度により「作品」と認定する、みたいな(なので、本企画にある「作品」の思想としては、「作品」は形式や制度によって決定されるというデュシャンみのあるものになる)。くわえて「イベントの成果報告」という体を取ることで、そうやって形式的に保証されたはずの「作品」という枠組みからも、実は最初から降りている前提が与えられている、という仕掛けもある。

きっかけの言説において「作品」/「非作品」の区別が本題じゃないのはなんとなくわかってたけど、いろいろ考えた末、私はこっち寄りでやってみることになりました。

で、こちらのこういった意図は、参加者に伝わった形跡はまったく無かった。元々明確に伝える気は無かったし、なんとなく伝わったら嬉しいとは思ってたけど伝わんないだろうなとも思ってたので予想通りだった。反応が見たかったのが一番で、反応はよさそうだった。だいたいルール通りにやってくれて、たぶん皆楽しそうだったように見えた。

(でもやっぱり、あとで意図は説明すべきだったのかも。ごめんね。いま説明してます。)

 

 

ところが、イベント後まもなく、「ざつじど」(雑に撮った自撮り、略して「ざつじど」らしい)っていう名前で、「完全に上手くいったわけではないけどそこそこの写真」を、そういうカテゴリで投稿するという仕草を、何人かのVRChat写真有名人がやっているのを目にしたのでした。

自分のやった「自撮会極」は「完全に上手くいったわけではないけどそこそこの写真」の評価を「作品以前」なのに「作品」とし、しかし「作品」なのに「非作品」という状況に置く、みたいなものだったはず。一方「ざつじど」はそのラベルを担保として「作品未満と見せかけの主張をしている『作品』」を作った。いや「作品」とまで本人たちが仮に言わないにしても、気軽に「いい感じの写真」を投稿しよう、という軽いノリのパフォーマンスとして流通させた。

しかも、それはコミュニケーションツールとしてばっちり機能していた。気軽な投稿としてハードル下がってむしろ受け入れられてた。ツイッターだと「作品」/「作品以前」の問いってこんな単純なエクスキューズで無効化(コミュニケーションのコードだけあればいい的な)するんだって思った。こっちの実践が一瞬で無に帰した、いや実践がなにかしらの効果を持つような土壌がそもそも無かったと思い知らされた。いい感じだったらまたやろうかなと思ってたけど、完璧に意味無かったので以降やめました。(しまいには当会の参加者まで「ざつじど」を投稿していて泣こうかと思った。当会の中で考えたこと、そんなになんも無かったんすか)

「作品」/「作品以前」みたいなことを、ツイッターという場で問い直すことがまず間違っていた気が今ではしています。

当然ながら、あそこで作品と言おうが作品じゃないと言おうが、どっちにしてもまずはコミュニケーションツールとして満足かどうかというフィルターをかけられる。つまり、いいねやRTのアテンションを集めるコンテンツとして評価されるかどうかが最初にある。

私はツイッターを一種の展示空間だと思っていますが(私自身普段そんな使い方してないかもしれないけど、少なくともそう扱うことは可能と思っています)、展示空間にルールの範囲内で置かれれば「作品」というラベルを張ることは一応可能なわけで、それが「ざつじど」というふうに「作品以前」かのようにラベリングされていても、それは単にアテンションのためのパフォーマンスであって、明らかに「作品」として投稿されているので「作品」として扱われます。っていうか言ってしまえば「習作」でしょう。作品未満って書かれてるけど、でも結局作品として展示されてる。

それどころか、その自己申告のラベルに対して「でも、いい感じの『作品』だよな、『ざつじど』なのに」っていうマッチポンプが発生している。それがごった煮プラットフォームの見せかけの越境で、呆れたことに、そういう流行に他人が批評性すら見出してるらしいのが何となく見えてきた。いろいろ考えたうえで「自撮会極」みたいなものをやった身としてはガッカリでゲンナリで、面白くなかった。ツイッターは、投稿-評価による意味生成装置としてはちょっと面白いけど、制作行為がもつ批評的態度をマスの評価基準によって無化してしまうのは、愉快ではない気がした。しょうもな、という気持ちになった。

ミュウツーの逆襲と、神速のゲノセクト:ポケモンバトルとは

人間はポケモンを道具として戦わせている、というのはかつてのポケモン世界のお約束だ。『ミュウツーの逆襲』はこのお約束にツッコミを入れた。ミュウツーからすれば、本来「戦い」というのはそんな生ぬるい「競技」などではなく、ましてやトレーナーのために行うものではなおさらない。ポケモンが自分の身体を人間に「使われる」のではなく、まさに自分の思い通りに自分の全存在をかけたものとして使用できる最たるもの、それが「戦い」である。自己保存のため、自己存在のために戦うことができる。そんな自然な権利を取り戻すのが、オリジナル対コピーの戦いであろう。

ミュウツーの逆襲』のラストシーンでは、サトシがミュウツーとミュウの戦いに割り込んで「やめろ」と叫ぶ。ポケモンの戦いをすら所有している人間に、ポケモン同士の自己存在をかけた戦いを止める権利など本来ならば無い。倫理的には彼らの戦いを認めなければならないはずである。

それでもサトシは「やめろ」と身を挺して止めた。つまり、自分はそんなつもりでポケモンバトルをしてきたのではない、と主張したわけだ。そもそも、ポケモンだって戦いたくて戦っているわけじゃないだろう。戦うことなしに存在を認められる、そんな世界のほうがいいだろう。でも、それはどうやって? 少なくともサトシは「そうあるべき」だと示した。戦わなくても命は命だ。サトシは知っていたのだ。なぜか?

脚本家の首藤さんはバトルを否定したとコラムでは書いているが、私は「ポケモンバトル」は否定していないと思う。命を懸けた戦闘をしなくても済む世界にサトシたちは生きている。本来命懸けの戦いというものをポケモンバトルという競技に変換し、無秩序な戦闘を排除して社会を作った。自分たちトレーナーとポケモンとがそうした関係を結ぶことで、この世界のいきものは戦い合わずに生きている。そう言いたかったんじゃないだろうか。ポケモンバトルは、ポケモンとトレーナーがともにこの世界で生きていくための大事な取り決めなのだ。だから命を懸けたのだ。

(参考:WEBアニメスタイル_COLUMN シナリオえーだば創作術/首藤剛志 第179回

 

ポケモンと人間との関係には『神速のゲノセクト』でも回答があった。ゲノセクトが長い年月の眠りから蘇ったとき、人間とポケモンは「すでに共存していた」。そんな見知らぬ世界で、ゲノセクトは生きるために自分たちの棲み処を得なければならない。構造はミュウツーの逆襲と同じだが、生態系としての棲み分けをよりはっきりと描いている。『ミュウツーの逆襲で』ミュウツーとコピーポケモンだけが戦闘的な生存を強いられていたように、ゲノセクトだけが戦闘的な生存を強いられている。だが、ゲノセクトたちが蘇った時代において命懸けのバトルは許されない。ゲノセクトにとって理解の外にあるであろう「法」が存在していた。人間の管理下においては「ポケモンバトル」以外の私的闘争をしてはならない。人間は社会を作り、ポケモンの生態もそこに組み込まれている。もはや「世界」から禁止されるルールなのだ。ポケモン世界の秩序を乱してしまうから。ポケモンたちも既に人間社会のなかで生きており、そこでは戦闘はポケモンバトルという競技になっている(これを逸脱するものはたとえば「悪の組織」である)。

そこに、生存というのっぴきならない事情は持ち込まれない。平和な生活者にとって、戦いとはポケモンバトルであり、競技であり、コミュニケーションであって、生き死にのための戦闘ではない。だから生きるために戦わなくったっていいのである。『ミュウツーの逆襲』では、生きるために戦ってしまうミュウツーをサトシは命懸けで止めた。生きるための戦いに対して命懸けで止めに入れるのは、人間のなかではサトシだけだ。代表者は常に一人だ。『ミュウツーの逆襲』でサトシが命を懸けたのは、人間側からの「誠意」を示したのだ。

神速のゲノセクト』では、逆にポケモン側からの「誠意」を示した。『ミュウツーの逆襲』でサトシが示した誠意への返答だったのかもしれない。ポケモンも、命懸けで戦わずに生きる道を探るべきである。なぜなら、戦わずして皆がそれぞれの命を生きるということを、見よ、この世界では既に誰もが全うしているじゃないか。彼らがゲノセクトたちと戦う理由は無いのである。いまの「ポケモンとトレーナーが築く世界」においては。ミュウツーは言うのである。だからこれを壊さないように、別の場所で生きるべき者は別の場所で生きねばならない。

こうした人間とポケモンの関係性を、ゲノセクト映画のミュウツーは尊重しようとした。戦わなくても生きられる。それぞれの場所で生きることによって。すなわち、トレーナーと関係を結ばないポケモンは、トレーナーの居ない場所で生きるということである。そこにも仲間はいるのだから。

人間の管理下に無い=モンスターボールに入らないポケモンは「野生」と呼ばれる。「野生のポケモン」というのは、いずれトレーナーと関係を結ぶ可能性を潜在するから、「野生のポケモン」として「登場」する。つまり「登場」した時点で既にそのポケモンは、捕獲され、ポケモンバトルをさせられるというシステムの中にいる。「登場」するポケモンは本当の意味での「野生」ではありえないのだ。「ポケモンとトレーナーが築く世界」において、ポケモンというのは「捕まえる」もので「ポケモンバトルさせる」ものだから。本当の意味での「野生」のポケモンというのは、決して「登場」しない。

ポケモンバトルというのはポケモンとトレーナーの関係性を象徴するシステムである。本当の野生のポケモンこそ、バトル=命懸けのもの、という本来的な生き方のポケモンだ。本来ならば登場しなかった、すなわち「存在しなかった」「見えなかった」ポケモンである。そんなポケモンが何かの間違いで「ポケモンとトレーナーが築く世界」に現れてしまった。それがミュウツーであり、ゲノセクトである。

「待ってくれ。ここは、お前たちのいるところじゃない。でも、お前たちのうちはきっとどっかにあるはずなんだ!」「そこをどきなさい!」「どくもんか!おれ、あいつに約束したんだ。うちに連れてってやるって。ミュウツー、いらないポケモンなんて、絶対にいるはずないよ!もう戦いはやめてくれ!」

サトシは言う。ゲノセクトの居場所はここではないが、どこかにある。いらないポケモンなんていない。

「この星に生きている人間も、ポケモンも、全てが仲間」

ミュウツーは言う。全ての命は同じ星で生まれ、同じ星のどこかに生きている。たとえ存在しなくても、どこかに存在している。『ミュウツー!我ハココニ在リ』でミュウツーが辿り着いた答えと同じである。見えなくてもちゃんと存在する。「この星のどこででも生きていく資格がある」。それは「ポケモンとトレーナーの築く世界」の外側でちゃんと生きているということ。おおいなるシステムに戦いを挑んで、正しい世界のあり様という秩序のもとに斃されるより、ここではないどこかで、ちゃんと「生き」ることを選ぶ。それはシステムの外側でしか為されないことだ。見えないかもしれない。「二度と会えぬ」かもしれない。でも、生きている。だから生きるためには、ここにいてはいけない。それぞれの場所へ行こう。あなたたちはここに。私たちは物語の外へ。これが『ミュウツーの逆襲』『我ハココニ在リ』そして『神速のゲノセクト』での、トレーナーと共に生きられないポケモンと、ポケモンと共に生きるトレーナーとの、歩み寄り、というところだろう。

VRChat写真は「写真」か「スクショ」かのお話について

VRChatで写真と呼ばれているものは「写真」なのか「スクリーンショット」なのかという、わかるようなわからないような話が一部の人たちの間でずっと前からされていて、いまだにたまに誰かが思い出したようにこの話題を持ち出しているのを目にします。

おそらくその人たちは、ほんとうに「写真」と「スクショ」の区別が気になっているわけではなく、何らかの事情によりそれを「写真」と呼びたいということなんじゃないかと思っています。わたしは「スクショ」じゃなくて「写真」をやりたいんだ! そういうことだと思います。

写真をやっていた人からすると、VRChatの写真は写真と似たところもあり、違うところもありということみたいです。どこらへんが「写真的」なのかの分析は各々好きなようにやっているようですが。ここで詳しく触れる必要はないでしょう。

ひとつ言えそうなのは、「スクショ」よりも「写真」のほうが格上ということになっていそう、いうことです。なにが格上なのか分かりませんがとにかく何らかの点で格上みたいです。

はたしてスクショだと何がいけないのでしょうか? スクショだって記録ですね。画像を記録する機構が違ってなにか気に食わないのでしょうか。芸術じゃないからでしょうか。作品にならないからでしょうか。エモくないからかもしれません。これは私の知っている写真ではなさそうだ、でも写真っぽいところもある、と一度否定してから写真かもしれないと思い直す一連の手続きが意味することとは。

 

ですが、わたしもVRChatの写真は「写真」だと言いたい気持ちがある、そんな立場です。

というよりは、VRChatのあの手で掴めるカメラで撮影したものをわざわざスクショと呼ぶのはちょっとひねている気がしていて、VRChatのカメラ機能というのは明らかにスマホで撮影する行為を模しているのであって、SNSにアップロードするところまで含めて、どう見ても日常的な取り扱いにおいては写真です。なのに、なんでもう一度ゲーム画像を保存するという仕組みに焦点を当て直して、スクショと呼び直したりしなきゃならないのか。

このあたりデスクトップモードとVRモードではちょっと認識が違ってくるとも思っています。手で掴めるあの感覚は大事なのですが、それだけの話でもないので、これはちゃんと後述しましょう。

 

さて、なんで「スクショ」か「写真」かなんて話が度々蒸し返されるのか。そのわりに「スクショ」か「写真」かの話が始まると、皆さんそのうち「写真とは何か」という話ばかりするようになります。「スクショ」と「写真」の区別を考えようとしていたように見えて、じつは「スクショ」には興味がそんなになかったりする。みんながじっさいに興味を持っているのは「写真」のほうです。だからその区別もほんとうはどうでもよかったりするんじゃないでしょうか。

わたしもそう思います。「写真」と「スクショ」の区別は、ほんとうにその話だけをするのであれば結構どうでもいいことじゃないかと思っています。それよりも、自分たちの撮っているスクショとその行為を省みて、反転して写真とは何なのかを考えたほうがきっと有意義だし、実際皆さんそうしているので、多分そのままでいいと思います。

 

「日常的な取り扱いにおいては写真です」とちょっと書きましたが、写真といってもその言葉が何を指すのかは様々で、画像を固定する仕組みに着目したり、画像を記録することそのものについて言ってみたり、いったい何をもって「写真」的であるというのかが話される場面によってまちまちです。どうもあやふやな話しか出てこないのはそのせいで、論点を明確にしないまま「写真」か「スクショ」かという議論をいきなりはじめたところでどうしようもない。せいぜい本題の雰囲気づくりにしかならない。

自分はいったい「写真」と「スクショ」をどのような軸上で対比しようとしているのか? まずそういうお話をしなきゃならないはずですね。そのうえではじめて「写真」と「スクショ」を区別するものって何なのかという話ができる。

(これを省くと、いつの間にか写真について語るだけになっている。筆者がほんとうに語りたかったのはそっちだからですね。のみならず、スクショを写真の範疇に含めることなしにただスクショとして語ることに意味は無い、スクショそれ自体に語ることなど何も無いとさえみなされているんじゃないでしょうか? 揃ってバーチャルフォトグラファーとかわざわざ名乗ってるくらいだし、スクショをスクショとして取り扱うということに関心がある人っていないんじゃないでしょうか。皆さんがやりたいのはスクショを写真とみなした語りなわけです。インゲームフォトグラフィーというのがそもそもそういうものなのかもしれませんが。
なんでだろうね。写真の範疇に含めることで初めて芸術たりうる、写真の範疇に含めることで初めて自分にとって価値を持ちうる、ということでしょうか。たしかに、写真の範疇になさそうだったものが写真の範疇に含められることによって、写真技術の応用によって作品制作の可能性が開かれる、鑑賞の可能性が開かれるということならいいことかもしれない。かつては写真と絵画が相互に影響し合ったということもあったでしょう。語られ方として「スクショ」よりも「写真」のほうが格上っぽいのは多分皆さんの贔屓の心なんだろうなあと思います。写真なら語るに値する、でもスクショは値しない。写真を拡張することには興味があるけど、スクショを拡張することには興味がない。写真もスクショも包括する概念を打ち立てるというより、写真の概念を拡大してスクショを吸収しようという論調はそういうことですね。

 

といったところで、さてVRChatの写真は「写真」なのか「スクショ」なのかというお話を少しだけしてみると、自分が思うに、あれは「写真」でもあり「スクショ」でもあるということになるでしょう。

「写真」と「スクショ」の違いって何なのかという話題の用意が一つあります。物語論のお話をしましょう。エロゲとかやってるオタクだと想像つきやすいかと思いますが、あるいはミステリ小説好きでもいいのですが、物語世界と読者、作者の関係は階層構造を取ることができます。

たとえば、生身の作者がおり、作品世界があり、作品世界に「作者」という役割があり、語り手がおり、聴き手がおり、それを呼んでいると想定される「読者」という役割があり、生身の読者がおり…。メタフィクションならさらに作中作があったり、作中作中作…があったり。[作者-[語り手-[物語]-聴き手]-読者]の関係は何重にも階層化しえます。ホームズシリーズはワトソンの手記であり、エラリィ・クイーンの作品の主人公はエラリィ・クイーン。クイーンの作品は読者への挑戦状を示し、そこには作中のヒントのみを材料に推理する理想的な「読者像」があります。叙述トリックといわれる仕掛けは生身の読者をだますものです。エロゲーには選択肢がありプレイヤーは物語の展開に介入できるし、ループ構造にプレイヤーの選択行為や繰り返しプレイの行為を巻き込んだものもある。ある種の物語作品において虚構と現実は入れ子になったりあいまいになったりしている。

まず現実世界の読者を基盤とすれば、目の前には物質としてのかたちをもった作品があり、そこに描かれる「作中世界」が存在する。生身の私がいて、生身の私が肉体を置かないべつの世界があるわけです。ゲームでもアニメでも物語として提示されるものはおよそ同じですね。ポケモンのゲームにはポケモンのゲームの世界があり、それはコントローラを持ったプレイヤーが存在する現実世界とは区別されます。プレイヤーはゲーム画面とコントローラというインターフェースによって現実世界から作中世界にはたらきかけ、はたらきかけられます。

 

VRChatを含むゲーム画面の記録を「スクショ」と呼ぶとき、こんなような概念を念頭に置いてみたらどうかということです。生身の私(に限りませんが)がいて、肉体が直接干渉できない別の世界があって、なんらかのインターフェースを通じて間接的に干渉している。<現実世界:モニター> - <虚構世界:カメラ> がともに置かれるという設定があれば、現実世界から虚構世界に視覚的にアクセスできていることになる。こちらからあちらが視認できる状態になる。

VRChatでもモニターに映る映像は「カメラ」的なものによってコントロールされていますね。カメラはキャラクターの顔の位置に設定されていたり空中を飛行していたりする。

デスクトップモードとVRモードの違いが重要だって話をしましたが、わかりやすさのためにまずデスクトップモードの話をします。デスクトップモードではカメラは私の手に直接あるのではなく、モニターの向こう側にあり、キーボードという装置を通じてそれを操作します。私とカメラは同じ空間に存在できていない。それでも、私は手元の装置を操作し、連動するカメラを操って間接的に映像を自在に選択し、静止画として取得することができる。

ここで得られた画像は、カメラに映された一定の画角の映像を記録したのだから写真だといえば写真でしょう。でもこれはスクリーンショットでもあります。

私はただ映像をモニターを通じて見ています。私の目の前にあるのはあくまでもモニターであり、私はカメラを操作したにせよしなかったにせよ、映し出されている映像の一コマを静止画として保存したにすぎない。このようなあり様での記録者とモニターとの対峙が、スクリーンショットです。VRChatには3DCG空間に表現されたカメラがありますが、スクリーンショットはゲーム画面の記録だけを指すのではないですね。動画でもテキストでもなんでもモニターの画面を記録すればスクリーンショットです。例えばツイッターのウェブページにはVRChatみたいなカメラは無い。でもモニターの映像を静止画として記録することができる。出てくるものは同じです。

出てくるものが同じなのは、HMDを被って撮影したときも変わりません。視覚インターフェースが四角いモニターからHMDのレンズに変わっただけのこと。出てくるものは一枚の画像データです。でもやっていることは明らかに違う。VRモードではカメラを手で掴んで画角を決めてシャッターを切ります。いったい何が明らかに違うのか。重要なのは、現実の私とVR空間の「私」の身体動作がリンクしていて、よくある言い方でざっくりいってVR空間に没入していること。身体所有感とか運動主体感で測られるやつです。この「私」、そのように認識されるVR身体を持つものとしての「私」とカメラが同じ空間にあること。もっと言えば同じ空間というより同じ世界にあるということです。VRChatをひとつの世界と認めるということ。そして前述した、[作者-[語り手-[物語]-聴き手]-読者]で示したような階層構造の、同じ階層に「私」とカメラ(と被写体)が位置するということですね。

同じ「世界」って何なのか。「世界」という語の厳密な定義にはなりませんが、ここではない別の世界を現実世界との類比によって、現実世界を「世界」と呼ぶようなものとして、虚構だとしてもそれもまた虚構の「世界」であると認識する。あるいは現実を何らかの観点から模倣した(再現した)ものとしての、コンピュータによる「世界」のシミュレーションであり、あるいはイミテーションであり、それも同様に「世界」である。その認識があってはじめて、その空間内で操作される映像記録装置がその「世界」を映した「カメラ」であると把握できる。

だから、そのカメラで撮影したものは「写真」なのです。その世界においては紛れもなく「写真」である、そういうことです。生身の現実世界の私とは直接かかわりないとしても、虚構世界で撮影されたそれは、まさに虚構世界において「写真」なのです。でも同時に、世界への自分自身の理解をいったん脇において没入をやめてしまえば、一階層上にいる私にとっては、現実世界のモニターに映された画像を記録したのだから、現実世界で生成された「スクリーンショット」である、とドライに言うこともできる。「写真」か「スクショ」かの区別は、ただこれだけのことだろうと私は考えます。(「写真」って何なのかという話はしませんよ、ここでは「スクショ」と「写真」を分ける話だけします。)

 

デスクトップモードだと、操作機構からしてスクショと呼びやすくなるんだと思いますが、いまのVRChatは、わざわざ画面内にさらにVRChat空間内を飛行するカメラのモニターの枠を設けて、そこにカメラがあると意識させています。プレイヤーの想像力によって、そこがひとつの世界でありカメラが存在すると認識できるなら、ちゃんと写真といえるでしょう。どうしても一線引いてしまうとしても、生身の私にとっては画面に映されたものを保存するだけのスクショでも、VRChat内のこの子にとってはその手の中のカメラによる写真ということになる、そういうデザインにはなっているでしょう。

デスクトップモードとVRモードが違うよって書いたのはこの点で、VRモードでカメラを掴んで撮影しているのにわざわざスクショと呼んでしまうのは、現実と虚構を隔てる四角いモニターを想定した呼称を、実際にはそのような見え方ではないにも関わらずわざわざしてるんじゃないかと思うのです。VRモードではVRChat世界に自分自身が身体ごと没入する感覚が得られるので、私がこの=VRChatの世界でこの=VRChatの身体で直接カメラを持っている、という感覚が得やすい。プレイヤーとカメラは同じ(階層の)世界に存在し、プレイヤーはカメラを直接自分の手で操っている。だから取得された画像は、そこにいるプレイヤー自身にとって「写真」である、とみなしやすい。プレイヤー自身と言うのがはばかられるなら、そのアバターにとって写真であるでも、風景やらアバターやらを撮影した何者かの手による写真であるでも、同じことです。その世界で、その世界に存在するカメラで撮影された、その世界における写真である。ここまではひとまず言ってみてもいいんじゃないでしょうか。

 

ざっくりまとめると、「写真」と「スクショ」の区別は、モニターという境界によるこちらとあちらの区別。そしてカメラがこちらにあるかあちらにあるか。あちらは私の想像力によるひとつの世界であるか否か。あちらで撮影された写真はあちらの世界での写真と呼べるんじゃないか。それはこちらの世界ではスクショじゃないか。そんなところで何か言えそうかなという気分です。

じゃあ次は、その写真をこちらの私が、こちらの私にとってもまた写真であるとみなすのは、いかなることか?という方向に発展できるかもしれません。

 

ここに書いたものは写真についての話というよりは、虚構世界とはなんぞやという話のほうが近いんじゃないかと思います。私にとっては重要な話題なんですけど写真家の皆さんにとってはきっとそうじゃない気がしますね。

 

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とりあえず一冊、少し古い本ですがトピックが簡潔にまとまっており分かりやすくいい本ですので。

『読むための理論: 文学・思想・批評』

https://www.amazon.co.jp/dp/4906388019

VRC大交流会

行きました。大盛況だったらしいです。

ツイッターでも「楽しかった」「フレンドと会えてよかった」「ぶいちゃ!」と好意的な意見が多いようでした。

 

個人的な感想を述べさせてもらうと、イベントとしては結構しょうもなかったです。

会場前にわずかな行列。こんなものか?空いててラッキー! と並ぼうとしたらここじゃないです「最後尾は反対側です」とだけ言われて、反対側って何に対しての反対側なのか、どこのことかさっぱりわからなかったものの、近くの人についていって無事列に合流。11時着で30分以上待ちの大行列でした。列は長すぎて3つに分断されていて、一度会場前まで間違えて行ってみないと列の存在に気付かないし、「反対側」の謎を解くか他人について行かないと並ぶこともできない仕組みになっていました。

マスクをちゃんと配っていたのは好印象でした。

(断りますが、行列のマズさがイベントの評価をそこまで大きく左右することはないです。わかりにくいな、くらいの感想です。今回はなるがみ氏が自分で言及していたので、私の見解を書いた感じです)

 

会場はすし詰め状態で、会場の広さに対して明らかなキャパオーバー。会場に入ると机が並んでいるだけの謎のエリア(恐らく交流用のメインエリア)が現れ、自分の目当ては即売会コーナーだったのですが、どこなのかさっぱりわからず。正面にボードで大きな仕切りがあり、人混みをぬって右奥に進むと謎の行列が見つかり(何かの試遊コーナー?)、その傍にボードに切れ目があって人が出たり入ったりしているようで、見えないよう仕切られた向こう側が即売会コーナーなのだとわかりました。

コーナーは流れるプールのように人がみっちり詰まっていてゆるやかに動いていました。どうも即売会コーナーはボードで仕切ったうえで入口を両端に(と、間に数カ所の切れ目)設けて1ラインで構成しているようで、ベルトコンベア状態で流されながら買い物をする仕組みのようでした。

こよりさんのブースでアクスタを買いました。アクキーも欲しかったけど売り切れしょうがない。この日はこれだけが目当てでした。

 

買い物を終えて、これ以上いる価値無いなと思って即座に出ました。滞在時間約10分。とても楽しかったです。

これだけならしょうもないイベントをやったんだなという感想で終わったと思います。

 

ぶいちゃ民はフレンドと会えたことで盛り上がっていて、さもありなんという感じで、集まるきっかけがあれば何でもいいということでしかないのだと思います。なのでフレンドと会えて楽しかったことをもって「だから優れたイベントだった」にはならない気はするのですが、このあたりは皆結構混同しているようでしたが、まぁでもぶいちゃってそんなもんだよな、と思いました。

主催のなるがみ氏は反省アピールと共にこのへんをうまくごまかされていて(ツイートのツリーより)

彼の人となりは全く知らなかった(スケブの人くらいのイメージでした)のですが、実際に行ってみた感じからすると(あまり滞在していないので判断できない部分もありますが)、自分のイベントなのに色眼鏡なく全くもって妥当な分析をされていると思いました。

・即売会島の通路を大きくして交流ラウンジを小さくするべきだった。

これは言うまでもなくその通りですね。というより1ラインで構成したのがまずかったんじゃないかと思いました。

・VRChatterにとって「リアイベはオフ会するためのきっかけ」要素が強いと予想して動いた結果、アンケートでも同様の結果が出て、内容やグッズの評判が良かった。

注目したいのはこれで、ツイッターの反応を見るだけでも全く書かれている通りだし予想も容易だったかと思うのですが、開催者のあなたがそれを言うかという感じで、本当どうしようもないなと思いました。これはべつにイベントの「良かった点」ではないですね。イベントが良かろうが悪かろうが関係なく出てくるただのアンケート結果です。「フレンドと集まれればイベントが多少アレでも気にしない」の言い換えじゃないかと思いますが、ものは言い様というやつでしょうか。この救いようの無い一文で私からの評価は固まりました。

・歴戦の即売会スタッフに協力を要請した結果、1,000人近い待機列も問題なく形成できた。

これも違うだろとは思うのですが、確かに列は存在したし列自体は乱れてもいなかったので、ものは言い様その2だなという感じです。ちゃんと分析してるし嘘を吐いてるわけでもないよと。

 

で、上記から自分としては、開催前のリアルVket日程かぶせのゴタゴタから(「イベント」としてはどっちも応援してなかったので、私としてはどうでもよかったですが)開催後のぶいちゃ民のはしゃぎ様からなるがみ氏の反省ツイートのセコさまで含めて、一連の全てがしょうもなかったなという感想になります。

(昔からずっとそうなんだけど、ぶいちゃ民はこの手の勢いあるスター系のインテリにバカにされすぎだと思う。界隈有名人ヨイショムーブ擦り寄りムーブはぶいちゃ民の悪癖のひとつ。やめたほうがいいよマジで)

M@STER EXPO LIVESHOWCASE HARUKA AMAMI SOLO LIVE "START"

友人からチケットを頂き、アイマス20周年の IM@SEXISPO の天海春香ソロライブ「M@STER EXPO LIVESHOWCASE HARUKA AMAMI SOLO LIVE "START"」を観てきました。

感極まって開始5秒で涙が溢れて終幕まで止まりませんでした。
春香がステージに立ってライトを浴びて踊っていて、端から端まで動き回って。モーションが精密に取ってあって春香の細かい動きまで見えるし、ゲーム画面の記憶の中の春香よりキビキビ動いてて。髪の毛の先から指の先まで動いて表情も豊かに変わって。

振り付けも初期のころの曲しか見たことがなかったので新鮮でした。一曲目は『START!!』、大好きな曲なんですけどダンスは見たことなかった。
ペンライトも一本借りて持ってたんですが、ペンライト振るようなライブ自体が初めてで、周りの人に合わせて何となく振ってましたがそれでも楽しかった。
『START!!』のサビで春香が手を左右に振る動きがすごく好きで、観客も合わせてライトを振ってて、春香のもとに自分が世界に溶けていくような感じ、最高だった。皆これを味わいたくてライブに来てるんだろうなって思いました。もう自分自身のことなんかどうでもよくなる感じ。春香が歌うとそれが世界のすべてになって、自分もそこに溶け込んで一部になる。そして自分もいまこのときそうなれてしまうことによって自分は何の価値も無くても存在していていいんだって許される感覚。

セットリストは昔からの春香のファン向けに組まれていて、アニマスあたりでストップしている自分にもとても優しかったです。
『I Want』なんかはニコ動の「春閣下」のイメージばかり強く、正直これまでどういう曲かよくわかっていなかったのですが、ライブでライトを振りながら聞いているとちょっとわかってきました。春香に身を命を委ねる一人として、何者でもなくただ存在していればいいんだという、ライブが始まってからずっと味わっていた感覚がとても近い。
受動的に聞く機会が多すぎて逆に味わって聴けていなかった『The world is all one!!』『私はアイドル』『THE IDOLM@STER』なんかも改めていい曲だなあと思いました。
たんに懐古ファンへのサービスというだけでなく、春香がメイン張ってた時期の楽曲が詰まっているので、春香をソロでトップバッターに据えてこのセトリは一番正しい。

あちこちに何度も書いたことですが、私と天海春香との出会いはアニマスで、すっかり惚れ込んでから、世のPにだいぶ遅れてアケマスをやってみたりCD買ってみたり、という関わり方をしています。そしてアニマス以降は春香が奥に退いた新シリーズが始まってしまい、スマホアプリに移行していったのもあり、以降をちゃんと追うということはしていませんでした。
ゆえに抱いていた天海春香のことを知らないことによる劣等感。言い訳として「アニマスの」と但し書きを付けることなしに天海春香を好きと公言することへの心咎め

会場で春香の歌を聴いて、ライトを振って涙を流しているうち、春香のファンである私にそういう後ろめたい気持ちはいらないと言われたように思いました。天海春香が好きでいまこの場にいて感動している。その事実があるだけで、今までの春香に対するすべてを許されたのだと理解したのでした。10年以上前、好きになって生じた小さな傷が癒えないままやがて距離ができてしまった春香との間に、この日のライブで、これから作り上げていくことのできる新たな関係が生まれたのだと思います。春香と私との関係REST@RT。私は春香を好きでいていい。

Alcedoちゃんフィギュア制作まとめ

だいぶ昔の制作ですがまとめます。

モデルはせらすずな先生の「Alcedo」ちゃん

booth.pm

ポーズはアイマスの「GO MY WAY!」

素体をざっくり作って造形塗装のしやすさを考慮して分断

服や髪の毛などを造形

試しに組んでみてます

組んで直して組んでを繰り返してます

髪の毛造形中。前後で分けて作ってます

ポニテも合わせて調整

手とか服の皺なんかの細かい所を少しずつ作ってます

翼と尾羽をどうするか色々考えました。

羽根を大量に作って重ねるというやり方にしました

バランス調整
ゴーグルも作っています

羽根を挿す穴です

ほぼ造形は出来上がりです

組んでみてよさそうなのを確認
紙やすり・スポンジやすりでしっかり磨いて表面はツルツルです。最終的に2000番くらいで磨いてます。

サフを軽くふきました

サフを吹いては削り、吹いては削って表面を完璧にツルツルにします

エアブラシで塗装

翼のオレンジのグラデーションを付けます
ちょっと失敗しています

台座のボツ案

全体を塗装

表面に艶消しニス的なものを吹いています。

組み立てて完成です。

 

完成品の写真はこちらの記事

Alcedoちゃん - チクル妄想工房