チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

10年前の NovelsM@ster から、あのんちゃんへ

別名義で投稿していましたが、10年前だし、もうよいかなと思います。

ろきう という名前でノベマスを投稿しておりました。

 

いまあらためて見返すと、当時自分が何を考えていたのか、どんな悩みがあったのか、生活にどんな困難があったか、同じ界隈の人との認識の決定的な差異、後ろめたさ、様々な記憶がよみがえり、涙さえ出そうになります。

 

好きなものを好きでいるというのは簡単なようでいて難しい。自分の好きを支えてくれるのは案外同じものを好きでいる他人だったりします。しかし、自分と他人の好きは絶対に重ならない。同じなのは「好き」であるという漠然とした感情の傾向だけです。他人の「好き」は究極的には理解できない。反面、それはただ単に尊重しなければならないものでもあります。

自分の好きが周囲のそれとかけ離れていればいるほど、自分はおかしいのではないか、向き合えていないのではないかという不安が生じてきたりするものです。天海春香との思い出として欠かしてはならないものを自分は欠いているのではないか、知らなければならないものを知らないのではないか、経験しなければならないものを経験していないのではないか。そんな後ろめたさがありました。そのしんどさに、当時の自分は自分なりに向き合おうとしていたと思います。

 

いまはどうでしょうか。あのんちゃんに向き合えているでしょうか。

何かを好きでいることにおける規範というものがあるでしょうか。理想的な好きとは。多数派がより道徳的なのでしょうか。邪道というものもあるでしょうか。そもそも、あのんちゃんはアバターであり、中身はありません。中身は自分だったり、他のプレイヤーだったりです。私たちはあのんちゃんをアバターとして愛するしかないのでしょうか? あのんちゃんは、コミュニケーションツールとして使用することが好きのあり方の規範なのでしょうか?

いつか、天海春香のことを空洞であると私は思っていました。皆が天海春香を好きだけれど、皆の見る天海春香はそれぞれ異なった姿をしている。皆、別々の思い出を持っている。それは、私たちはそれぞれ天海春香の一面しか知ることはできないということかもしれないし、あるいは、天海春香は我々の数だけ我々とともにいるということかもしれません。その中心の天海春香は、誰から見てもこれこそ唯一である実体というものは無い、空洞のようなものであると。

あのんちゃんはどうでしょうか。あのんちゃんとは何なのでしょうか。あのんちゃんを好きでいるとはどういうことでしょうか。VRChatという、コミュニケーションを目的とするプラットフォームで、アバターを愛するというのは、アバターを綺麗に飾り付け、可愛く撮った写真をアップロードし、他人のあのんちゃんも愛しく思い、互いにあのんちゃんが好きであることを喜び合うことでしょうか。そうかもしれません、しかし……

それを超え出た場所はあるでしょうか。あるとすれば、そこにはどんな光景が広がっているでしょうか。天海春香以上の、途方もない真空が広がっているだけなのでしょうか。

 

何かを好きであることを皆が表現する世界で、自分がどうふるまったらよいか、何をどのように表現したらよいか、それを考える方法は事前に与えられてはいません。同じ共同体の他者を見て私たちは学習し、模倣し、表現手段を得てゆきます。そして共同体に馴染んでゆきます。

私たちは決して自由ではありません。観測できる世界は限られているし、現実に取れる手段は限られているし、ありとあらゆる制約を受けて、自分のふるまいは方向づけられてゆきます。そういった環境的な要因によって方向づけられた自らのふるまいに、自らの好きという気持ちもまた、引っ張られてゆきます。自分の気持ちすら自由になるものではありません。

それでも自由でありたい。自由ではないと分かってはいても、です。