チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

「潜像」紙版の通販をします

 

gumbase.booth.pm

イベント参加自粛中なので、BOOTHで販売中の写真付き小説「潜像」の紙版の通販を数量限定、期間限定で行います。

PDF販売を中止し、紙版の販売のみに切り替えました(2021/10/30)

当商品には、イベント限定で頒布していた「やがて僕の訪れる公園」のダイジェスト版の冊子を付録します。

 

次回の前橋文フリには出展する予定なので、イベントが近くなったらPDF販売のみに戻します。通販は数冊だけの予定ですが、それなりに売れるようなら在庫は追加します。

(新刊のUnrealityは通販の予定はありません。)

定期配信をやめました

YouTubeでやってた定期配信をやめました。

何かに失敗したとか何かをあきらめたというわけではなく、継続する意味があるかどうかを考えた末、やめることに決めました。

一週間に二回一時間だけとスケジュールを決めてやるのは悪くなかったと思います。ゲーム配信というのは基本的に視聴者にとって無駄な時間だから、長くやらないというのはひとつの配慮である、というのが私の考え方でした(無駄な時間が悪いと言っている訳ではないです)。たしかに、配信という場にコミュニティができて、配信者や視聴者のあいだで交流が生まれる、その場はとても楽しいものになる、というのは他の配信を見ていて確実にあるなとは思います。配信者はゲームをして、視聴者はゲームを見て、コメントをして、配信者がそれに応答する。余暇時間の豊かな使い方でしょう。しかし、それは毎日長時間やるようなことではありません。

twitchやyoutubeライブなどのメジャーな配信プラットフォームは、視聴者や登録者を集めてコミュニティを大きくしていくことを目的とする場合、長時間配信、高頻度配信が有利になるような作りになっています。配信者や視聴者の可処分時間をあるだけ吸い取るような仕組みであり、私はその仕組みをはっきりいって悪だと感じています。自分は時間を決めて配信していたのであんまり関係無かったかもしれませんが、ライブ配信の盛り上がりにたいする違和感は徐々に増していったと思います。

もうひとつ、コンテンツとしての質が担保できないという悩みもありました。まず、ゲーム実況という形式がそもそも他の制作と並べて語るような性質のものなのかという疑問があります。今までは、小説にしろなんにしろ完結したコンテンツを作って(他の人がどう感じるかとか、客観的な出来栄えとかはさておいて)自分なりに一応まとまったなと思う状態のものを発表してきました。だから、ただゲームをして喋るだけの配信で視聴者の時間を奪うことには罪悪感がありました。かといって、ゲーム実況という形式にいながら意義のある時間を提供する方法があるのかということも簡単に答えが出せるものではありません(まともに考えようとしている人もほぼ見受けられません)。私個人の資質としても、話が上手だとか、ゲームが上手だとか、そういったゲーム実況っぽいゲーム実況で役立つ能力はないし、これらの芸を磨いてゲーム実況を多くの人に見てもらいたい、という活動そのものへの動機もはっきり言って無かったと思います。ゲームしてるのを誰かが見てくれてるのが何となく嬉しい気がするというのは理解できたし、それが配信者の一般的な動機なのだろうとも思うのですが、それよりも小説を読んでくれたほうが一万倍嬉しいですから。プラットフォームの策略に乗っかってすすんで搾取されるという活動方針も、まぁ一利用者としてならば悪い事ではないでしょう。しかし、それによって得られるものは多分小さな承認欲求くらいなので、いろいろを犠牲にしてまで継続する意義は見出せませんでした。ゲーム実況という場は、手を動かして完結したコンテンツを作ってきた人間が無理に参入するようなところでは無いでしょう。人を集めた先に何か別の目的があるなら話は別ですが、配信をして交流して楽しむ以上の目的がないなら、私のような人間にとっては負担が滅茶苦茶大きいのに対してメリットはほとんどないと言っていいと思います。本格的に参入しようとしないでたまに思い付きでちょこっとだけ、身内しかいないような状況でやるくらいにしておいたほうがきっと楽しいです。

どういうプラットフォームでどんなふうに何をするかというのは本当に大事なことというか、人気商売とか注目商売についていえば、むしろコンテンツの質よりもそちらこそ本質的なことのようにも思えます。だから効率的に成果につなげる方法論もあるみたいです。成果と言うのはプラットフォームから与えられる数字という評価であり、ときにお金だったりもします。数字を求めるならいかにプラットフォームの仕組みに乗っかるかということが重要になります。検索エンジンの仕組みを利用して検索上位にくるように単語を配置するSEO対策というのがあるように(小銭稼ぎでそういう記事を書く仕事を少しだけしましたが、真実この世に不必要な仕事だと思います。検索エンジンアルゴリズムを逆手にとって素人がちょこっと調べただけの記事を多くの人の目に留まるようにすることが、人々の資料検索を邪魔こそすれ役に立つことがあるでしょうか)。何もかも支配されてるなって思います。仕事なら別ですけど(その仕事が世の中に必要かどうかは別として)、余暇時間を大量に使ってそんなものと戦うのはくだらないお話です。

たった一回だけですが、自分で上出来だったと言える配信ができたのはよかったです。何も成果を残さないまま去ることにならなくてよかった。Poly Bridge2をやりながら構造力学の初歩の初歩を説明するという配信でした(リンク)。橋についての簡単なお話をする、ゲームの問題を一問解いて、構造の説明をして、次のゲームでそれを確認する、最後は写真を見てゆったりする、みたいな構成になってます。ノートで問題を解くというのをライブパフォーマンスにしたり(板書がライブパフォーマンスという認識は安直なんですが)、サンドイッチ構成にして飽きないようにしたり、かなり工夫できたかなと思います。表現としてではなくプレゼンテーション的な工夫でしかありませんけど。心残りなのは説明にいくつかミスがあったことで(書き間違い程度ですけど)、機会があればフォローできたらいいですね。そのときはまた勉強しなきゃ。

大神を最後までやり切ったのは、悔いを残さないという意味ですごく正解でした。途中でやめたら配信に対する印象が悪いものばかりになっていたはずです。最後のほうは配信するのが嫌で嫌で仕方が無かったけど、ひとつのゲームをやり切って活動を終えたということだけで全部救われたんじゃないかな。これは見に来てくれた人、応援してくれた人、励ましてくれた人、皆さんに感謝するしかない。

総じて、ゲーム実況はやらなくてよかったことではありますが、得たものが全く無かったわけではないというか、配信ツールの使い方も学べたし、ゲームしながら喋るのは特殊技能だってことも知れたし、まぁやってみて大体どういうものか肌で感じることができたのでいい思い出になったかなってところです。今後もたまに気が向いたときにやろうとは思ってますし、「ライブ配信」とか「ゲーム実況」という形式について何か面白い考えが浮かんだら試してみようかなという考えも無くはないです。ゲーム実況とかライブ配信というのをいわゆる「表現」として肯定するのであれば、そこは絶対について回る問題なんですが(そこを考えないなら視聴者を巻き込んで時間を無駄に過ごすか、プラットフォームに搾取されるしかないんですけど)、あんまり私の仕事にはならなそうです。

SNS・私

私とは環境に都度応じるものとしての存在であると考えましょう。環境に対応し、環境に変化を生み、あるいは変化を制御し、環境との相互作用によって自らも刻々と変化し、対応する能力を高めていく。そういう存在としての私。私もそれを特権視しない限り(私という視点の特権性に依ることで私という存在を特別なものとして眺めるのでない限り)環境の一部であり、環境の何かにとって私もまた環境である。

SNSなりブログなりで自分の意見や感情、出来事などを外部化して、自分はこういう人間であるという思い込みを強化していく。私というものは強くなっていく。でもそんな私という概念は実は怪しいんじゃないのか。私はただ何かを欲求する主体を指す訳ではないのではないか。

SNSなりなんなりのアカウントを好き放題にいじくっている一方で、現実生活であれこれに揉まれていると、そんなふうに感じるところもあります。私が自分自身をどのように認識していようが規定していようが、私は身の回りの物事にたいしてその時々の自分自身のキャパシティのかぎりで対応するしかないし、生活の大半はそんな営みに占められている。

「私」なるものには一生涯において一貫したなにかがあるんじゃないかと考えたくなる。私と呼んでいる正体としての「私」という概念がいかなるときにも成立する確固たる事実としてあるんじゃないか。私以外の他人と同じありかたをした、他人と区別される限界を持った個として、かつ私自身にとっては他人を見るようにしてではなく何も見ないときにも存在する何ものかとしての私が、逆にそれを外から見ることによって当の私の統制の下にあるのだと思い込む。同様に、他人もまたそれぞれの私を制御している。それが「私」の正体であると。SNSでアカウントとして人格を管理しているとそう考えたくもなる。のはわかる。

SNSで管理しているのはあくまでも社会的な人格であって、言い方はよく分かりませんけどもっと根源的な「私」、の在り方を規定するものではない。twitterならtwitterがひとつの社会として求めるごく限定的な人格でしかない。環境と相互作用する私は日々変化するのが当たり前であって、「私」の何が一貫しているのかは都度精査してやるしかないし、それは必要に応じて行う暫定的な答えを用意する作業でしかないと思う。そもそも、私は他の誰でもない私なんだ、という意味での私という単位は、特定のプラットフォームで機能する社会的かつ文化的な単位でしかない。生まれた瞬間に宇宙の法則みたいにして決定している真理ではない。

 

***

https://gumbase.hatenadiary.com/entry/2021/03/10/221351

――と考えれば、以前の記事に書いたような「私と呼べるすべての私を統合したただひとつの私なるもの」という見方も考え直す余地がある。すべての私と呼んでいる私A、私B、私C......は私の正体としての「私」を表してはいない。これらすべての私は、ある限られた環境において現に機能している私の別名でしかない。そういった「肩書き」はむろん社会で生きていくうえでは有利に働くだろう。ただ「私とは~~である」と自分自身を客体として捉えるとなると、行動指針をたてるためなら有効だろうが、行動=環境への対応から切り離されたところで指示されたものであるならば、自分自身にたいする単なるレッテル張りにすぎず、現実の行動を制限するものにしかならないだろう。統合すべき種々の私がレッテルでしかないなら、「私」というのは「統合された」私ではない。