チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

SNS・私

私とは環境に都度応じるものとしての存在であると考えましょう。環境に対応し、環境に変化を生み、あるいは変化を制御し、環境との相互作用によって自らも刻々と変化し、対応する能力を高めていく。そういう存在としての私。私もそれを特権視しない限り(私という視点の特権性に依ることで私という存在を特別なものとして眺めるのでない限り)環境の一部であり、環境の何かにとって私もまた環境である。

SNSなりブログなりで自分の意見や感情、出来事などを外部化して、自分はこういう人間であるという思い込みを強化していく。私というものは強くなっていく。でもそんな私という概念は実は怪しいんじゃないのか。私はただ何かを欲求する主体を指す訳ではないのではないか。

SNSなりなんなりのアカウントを好き放題にいじくっている一方で、現実生活であれこれに揉まれていると、そんなふうに感じるところもあります。私が自分自身をどのように認識していようが規定していようが、私は身の回りの物事にたいしてその時々の自分自身のキャパシティのかぎりで対応するしかないし、生活の大半はそんな営みに占められている。

「私」なるものには一生涯において一貫したなにかがあるんじゃないかと考えたくなる。私と呼んでいる正体としての「私」という概念がいかなるときにも成立する確固たる事実としてあるんじゃないか。私以外の他人と同じありかたをした、他人と区別される限界を持った個として、かつ私自身にとっては他人を見るようにしてではなく何も見ないときにも存在する何ものかとしての私が、逆にそれを外から見ることによって当の私の統制の下にあるのだと思い込む。同様に、他人もまたそれぞれの私を制御している。それが「私」の正体であると。SNSでアカウントとして人格を管理しているとそう考えたくもなる。のはわかる。

SNSで管理しているのはあくまでも社会的な人格であって、言い方はよく分かりませんけどもっと根源的な「私」、の在り方を規定するものではない。twitterならtwitterがひとつの社会として求めるごく限定的な人格でしかない。環境と相互作用する私は日々変化するのが当たり前であって、「私」の何が一貫しているのかは都度精査してやるしかないし、それは必要に応じて行う暫定的な答えを用意する作業でしかないと思う。そもそも、私は他の誰でもない私なんだ、という意味での私という単位は、特定のプラットフォームで機能する社会的かつ文化的な単位でしかない。生まれた瞬間に宇宙の法則みたいにして決定している真理ではない。

 

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https://gumbase.hatenadiary.com/entry/2021/03/10/221351

――と考えれば、以前の記事に書いたような「私と呼べるすべての私を統合したただひとつの私なるもの」という見方も考え直す余地がある。すべての私と呼んでいる私A、私B、私C......は私の正体としての「私」を表してはいない。これらすべての私は、ある限られた環境において現に機能している私の別名でしかない。そういった「肩書き」はむろん社会で生きていくうえでは有利に働くだろう。ただ「私とは~~である」と自分自身を客体として捉えるとなると、行動指針をたてるためなら有効だろうが、行動=環境への対応から切り離されたところで指示されたものであるならば、自分自身にたいする単なるレッテル張りにすぎず、現実の行動を制限するものにしかならないだろう。統合すべき種々の私がレッテルでしかないなら、「私」というのは「統合された」私ではない。