チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

やっぱりシュタゲ

シュタゲ面白いね次回へのワクワク感。
ただ以前も書いたけど、「過去を変えることで未来を救う」ということには疑問がある。いやいや作品に対する文句じゃなくてね。
「過去を変える」はわかる。同じ時間を繰り返し体験することのできる(してきた)岡部と鈴羽の二人は過去を変えることができる。でも、「未来を救う」は違う。
そもそも「救う」とは、悪い状態にあるものを良い状態に導くことで、「救う」ことが完遂されるためには「救われた」という結果に辿り着くことが必要であり、それは誰かの主観によって判断されるもの。もちろん「SERNの支配する世界が理想でないとはいえない、未来が絶望だというのは主観的な評価にすぎない」という主張がしたいわけじゃないですよ。馬鹿です。そうではなくて、「過去改変によって救われるのは一体誰なのか・何なのか」という問題です。
岡部は何度もDメールを送っていたけれど、結果として誰かが「救われた」だろうか? 誰かが「救われる」という事象は、その人が「救われる前の状態」と、それよりも(何らかの観点において)好ましい状態である「救われた後の状態」があって、それらの比較があって初めて成立するのであって、救われたかどうかの判断基準である「好ましい状態」というのは「救われる本人の主観」に完全に依存する。「君は救われたのだ」と他人が言ったところで、本人が救われたと思っていなければそれは救われていないのと同じ。ましてや「過去改変」によって変えられた、変わったことが誰からも認識されない事実が誰かを救うだろうか? 「過去改変」はタイムトラベラーあるいは過去改変者以外には改変前の記憶を残さない、どころか、移動先の世界は世界線の違う別世界であって、そこにいるのは全くの別人物であり、「過去改変者によって救われることなく初めからそうあった誰か」であって、「過去改変によって救われた○○さん」ではない。(仮に改変前後の特定の人物が、時空を超えて同一人物だとしても、救われる前の状態を覚えていない、経験した記憶がないのならば、救われたことにはならない。)
つまり、過去改変によって救われるのは、過去が変わっても記憶を保持し続ける過去改変者本人に他ならないのです。「変わる前の世界」よりも「変わったあとの世界」の方が「改変者本人にとって」好ましい状態であり、改変者本人は二つの世界を両方とも経験して比較して、「世界は救われた」という結論を下すことができる。このようにして「世界が救われた」ことを認識できるのは、救われた後の世界を「救われた後の世界」として体験できるのは、過去改変者しかいません。岡部や鈴羽は誰のために戦っているのかというと、世界やまゆりのためではなく、彼ら本人のためでしかない。正確には「記憶維持者が彼らしかいない限り、彼ら本人のためということにしかならない」のです。もしも彼らが自分以外の誰かを救っているのだとしたら、それは「おれのまゆり」や「私の世界」といった代物であります。過去改変者は「より住みよい世界を求めていくつもの世界線を渡り歩いている」に過ぎないのです。



たぶん、以前の記事と全く同じことを書いたと思います。残念です。