チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

『ALLWAYS 三丁目の夕日』

 『ALLWAYS三丁目の夕日』を見ました。テレビでやってたので、一作目と二作目。

 感動した! ってな具合です。
 原作は既読でしたが、読んだのが小さい頃だったのでろくに覚えていなくて、原作と細かい設定が違うのは見る前から知っていたんですが、そのことについてだからどうだとは感じませんでした。ほぼまっさらな状態から、ひとつの映画としてみて、とてもよかったと感じました。一作目の最後は泣いちゃいましたよね。

 CMで監督さんが言っていたように、家族の話なんだろうな、と。一平君の家と茶川さんの家のことがメインに置かれていました。確かに、一見してわかるように、昭和の町に対する「ノスタルジー」という漠然としたものがひとつのモチーフらしい(僕の歳では実感はもちろんできない)。でも本質は、街並みの風景じゃなく、というか街並みはそれほど映されてなくて(綺麗ですけどね)、それよりも、再び監督さんの言葉ですが、三丁目での人と人とのつながり。CMから引用しますと、現代においてすでに日常の一部となっている、携帯電話とかSNSみたいな非身体的なバーチャルなつながりではなく、面と向き合った身体的なリアルなつながりです。家族間のみ、あるいは家族間でもばらばらになっている、そういう寂しい人間関係によって構成されているのが現代のコミュニティだとすれば、『ALLWAYS』の世界にあるのは、近所に住む人々がすぐに一体となれるような、広がりのあるかつ親密なコミュニティです。

 『ALLWAYS』では家族の関係が「切れそうになる」「切れてしまった」状況がいくらか描かれています。主には、淳之介の周囲がそういう関係で満ちている。あと一作目の六子と家族は、六子の勘違いのせいで、もしかして危ういのではないか?と一時的に思わせてくれました。でも、六子は自分の勘違いと家族の本当の思いに気づいたし、淳之介は産みの母親には会わず、父親のもとへも行かず、新しい家族としての龍之介の元に留まる。そうして「家族っていいもんだなあ」と思わせてくれます。
 二作目では龍之介の執筆に近所の人々が協力し、淳之介を迎えに来た父親に対して皆で抵抗します。なぜなら淳之介も龍之介も、同じ町に暮らしているために「家族」みたいなものだからです。大阪へ行こうとしていたヒロミが龍之介の小説を読んで引き換えしてきて、やっと三人がそろいます。淳之介の父親は再会を喜ぶ三人を見て「金よりも大切なもの」に気づきました。非常にベタです。なによりも象徴的なのが龍之介の小説で、そこに書かれていたのは淳之介の父親の言った通り、龍之介とヒロミと淳之介の三人で暮らすという、龍之介の願望。でも小説は芥川賞の最終選考には残ったし、三丁目の人たちは小説をみんな買って読んで心を打たれ、そして龍之介の願望でしかなかった三人一緒に暮らすことは最終的に実現するわけであります。どう考えても出来過ぎた話ではありますが、これが現代人の欲しているものなんだと、この映画はいうわけですよ、だからベタを承知でやっている。

 二作ともラストはみんなで夕日を見上げておわりです。いつまでだって、夕日はきれい。東京タワーが完成しても、三丁目がちょっとずつ変わっていっても、夕日はかわらずに綺麗なんだと。二作目の最後など、淳之介が言うには、三人で見るから綺麗なのだと。皆それぞれ何を思っているのであれ、夕日は誰の眼にもきれいなものとして映る。夕日をきれいと感じられるのは、彼らが幸せだからです。
 淳之介について一言いうとすれば、元々「よそ者」の淳之介だから、どんなに町に馴染んでいるように見えようと、彼の「居場所」はまだ「三丁目」ではなくて、そこにいる龍之介やヒロミといった「家族」なんですよね。

 でも活気と人情に満ちている三丁目の風景は永遠じゃないことが、こっそりほのめかされます。時間は流れている。東京タワーはできてしまったし、橋の上に高速道路がいずれ走る。しかし、失われていくであろう風景に、皆は哀愁を感じているのではないんですよね。淳之介が書いたのはパイプの中を車が飛ぶ時代で、一平は東京タワーに強い憧れを抱いています。彼らにとって、とくに子供たちにとって未来は希望のあふれる輝かしいものなんです。そして一番の幸せとは人と人とのつながりであるから、風景が失われることよりも、もっと大切なものを、町の人たちは持っているわけです。

 ともかく、面白かったです。