チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

制作進んでないですね

4月ごろにノベゲではないものを一本公開して、個人的にあんまり満足できない出来ではあったんですがきりはついたかなといった感じです。いったん完成していたものを公開しないでしまっておいて、今回それにちょこちょこ手を加えて仕上げたといったふうです。手を付けてみたら当時の自分が公開しなかった理由がよくわかる中身でした。

一方、制作中だったノベゲですが、こっちは話としてもいまのまま完成までもってくのは厳しい感じもするし、モチベーションもなくなってどうしようもないので、やる気なさすぎてなんかゲームしまくっちゃうし、漫画とか読んじゃうし、ひとまず止めにすることに。
ただ、中身を半分ほど削って、書き足したりなんだり整理すれば全体がくっきりしそうな感じがしてます。おぼろげにやりたいことは見えてはいます。もっとも、それでも力不足なのはわかっているので、いまは今後の制作がどうなるかはなんともいえない。
ティラノのシステムはバックログとかセーブとかの機能がそれほど面倒くさくない手順で操作可能な状態にはなったからもういいや。この制作ツールはやはりきちんとカスタマイズできる人向けのようだから、自分のような人間が使うばあいは限界があるわけ。
背景やら音楽やらの面倒くさい理屈に関しては、今のレベルではどうしようもないから、普通に作るんじゃないでしょうか。ちゃんとデザインしてる人はすごいよ。

ノベルゲームはBGMとか背景がわけわからなすぎて制作をストップしている。
どうしていままで平気な顔で作れていたのかわからない。出来上がったテキストに音を当てていく際に必ずしもスムーズにとはいかなくても、最終的には、少なくともネットで公開できる程度には納得のいくように作れていたはずなんだが。

自分がノベルゲームのBGMがどうのこうの言いだしてからけっこう経つようだけど、そういう問題に気付いたのはよかったものの、実力不足の僕にとっては、自分で実際に制作にとりかかってみれば、逆に自分自身を雁字搦めに縛るものにもなっちゃったようで。ここまでわけがわからないのだと嫌になってしまう。
そして背景も同じような状態にある。こちらも全然意味がわからない。

なので、その辺の整理もかねて、制作中のノベゲではない、別のものを作っています。制作期間的にも、気分転換にちょうどいい具合になるだろう作品の予定がひとつあったので、そいつを。



ところで、BGMで悩んでるのでBGMの話をするんだけども、通例の運用方法を疑問に思いつつも、他でそういう話が全然でてこなかったもんで、なんとなく心細い気持ちだったんですね。
「ノベルゲームはメロドラマになってしまうのか」で書いたところだと、悲しい場面で悲しい音楽を、楽しい場面で楽しい音楽を、というふうな言い方をしていますが、いくらか前に読んだ『映画音響論』だと、感情の強調・雰囲気の醸成、という言い方になるのかと思いますが、つまりBGMの運用というのはそれに限ったことだけではないだろう、という話なんですね。
そうしたところに、道玄斎さんがおそらく似たような問題意識でもってBGM関連のコラムを書かれたので、心強い思いがして大変うれしかったんだが、なぜだろうか、残念なことにほんの一瞬で話題は流れてしまった。

『映画音響論』(名著です)を読んでみれば、音響演出のトピックとしてはこれは初歩的な問題提起ともいえそうな気はするけども(まあ、映画の音響演出の理論をノベルゲームにそのまま当てはめることはできないが)、だからこそ当たり前すぎて改めて問題にすべきことでもなかったということなのか、それとも本当にノベルゲームのBGMの思想というのは遅れていて、道玄斎さんの言葉でさえ深刻に受け止められえないほどだったのか。

音響演出を全体としてみれば、ノベルゲームにも優れた演出というのはさまざまあるんだろうけども、BGMの機能というか、文章とBGMとの合わせ方として、BGMの果たす役目というのが、文章が受け持つストーリーの雰囲気なり語り手の感情なりの表現を補助するにとどまっていることが多い、と、僕はそういうことを言いたかったわけです。


そんなこんなで、そういう問題を意識したうえで、実際に文章にBGMを合わせてみましょうということに今なっていて、困ったことに僕自身ほんとうにどうすればいいのかわからないんですよね。そもそも今書いてるノベルゲームはBGMを積極的に付けるべき文章なのか?とも思ってはいるんだけど……。同様に、背景というものについても、なんだかワケわからないことになってしまっている。ノベルゲームの背景って何?BGMって何?そういう状態です。思いついたまま当てはめてみても、違和感ばかりがある。

そういうわけで楽しくなくなってきたので(最初から楽しい気分とは縁の薄い制作ではあったが)、別の物を作っていて、もうちょっと緩い気持ちでやってるつもりではいる。それでもやっぱり同じ課題にぶち当たって、ああどちらにしろ避けては通れないのか、と。


だから、PSVitaを買いました。

夢幻競輪 五人の高校生の愛と友情の登校時間

『夢幻競輪 五人の高校生の愛と友情の登校時間』 (ふりーむ!ダウンロードページ)
作者HP threeennne

ノリと勢いのノベルゲーム。ちゃんとしたストーリーがあるのでもなくて、本当にノリと勢いといわれるもので進んで、終わります。
作者さんはご自身のサイトで「「ああ、自分も昔、こんなことやってたかもしれないな」と少し思い出を振り返っていただけるような作品を目指しました。」と書かれていますけど、確かにそういわれればそういうものだった気はしてこなくもないですが、それよりもいろんな意味でお話自体はあとに何も残らないものだった(オチからしても本作はそういう話として書かれているのではないかと思います)。気軽に読むことができてとてもよかったですね。僕にとっては暑苦しくなりそうでならない具合のいい温度で。

『街』をかなり参考にしたのでしょう、話の無茶な展開やマウスオーバーで出てくる語句の説明(『街』では「TIP」といわれてたやつ)やバッドエンド後の解説なんかが非常にそれっぽい。
演出が良かったので感想を書いてるんだけど、おそらくノベルゲーム(サウンドノベル)を正統に発展させていくと演出面でこういうものになっていくケースがある、と思わせる作品でありました。背景やBGMやSEの使い方、画像の動かし方、文字を大きくしたりなんだり、そういう演出が、ひとつひとつは変わったことをしているわけではないけれど、どれもこの上なく丁寧でうまいと感じました。ノベルゲーム(サウンドノベル)らしい作品、というものの、一つの方向性が示されているような気がします。

あとスクリプトエンジンが「Ren’Py」だったのも注目ですか。Ren’Pyってこういう作品も作れるんですね。いいのかもしれませんね。


久々に感想書いたんですけど、面白かった作品は感想を書く、そうでない作品は書かない、というスタンスでもないので、他にも書き残しておくべきかもしれない作品はいくつもあるんですけど、気が向いたら、なんですよね。

ティラノスクリプトはきちんと使いこなせば高機能なんだろうけど、知識不足というのは困ったもので、ワンタッチで変更できる設定やスクリプトをちょっと弄るだけでは、まともに遊べる状態にもならない、と感じてる。
例えば、縦書き対応だけどバックログは横書き、そもそもバックログ機能も(難しい部分をいじらなくていいとはいえ)自力で付け足す必要があるし、よくあるホイール操作でバックログを呼ぶというのもJavaScriptをいじらないと無理そう。エンターキーやコントロールキー押しっぱなしでスキップも容易にはできない。ウィンドウ-全画面の切り替えの挙動もおかしい……。
そういう基本的というべき機能が最初から付いてない、初期状態では最低限必要と思われるUIすら備わってなくて、やはり初心者向けではなさそう、少なくとも一式ダウンロードしたものを開いてそのまま何のカスタマイズもなくテキストと演出部分のスクリプトだけで品物が完成する、という類のもんじゃない。そういうソフトではないね。そういう人向けではない。一応、絵付き音付きの読めるものにはなるんですが、なにも弄らなければ、不親切極まる製品になります。初期状態の画面の装飾もちょっと作品に影響しすぎる。システムの部分を、いくらかのプログラミングも含めてかなりいじくらないと、普通に遊べるようにならないですね。ティラノ製でかなりUIを工夫してある作品というのも確かにあって、それなりの知識や技術があればよいものになることはわかるのですが。ただ、やっぱり、僕にとってはもしかしてチョイスミスだったんじゃないかって感じがします。というわけで、せめて必要最低限の操作性を確保するために、JavaScriptの本を買って読んでる。スマホ対応というのは捨てがたいなあ、なんてのもあって……。

まあどちらにしろ、「作品」方面のやる気が出ないというか、次に何をしていいかわからないから、そういう勉強を挟むのも悪くないのかも、ということにしておきます。何がわからないのかというと、背景とかBGMをつける理由もつけ方も、何もわからない。前の記事でも書いたけど、使わないという選択も、使わなかった箇所において、使わないという表現になる。だから何か使うのだとしても、その素材をなぜそこでそのように使うのかを考えると、身動きが取れない。そもそもなんで背景写真やBGMやなにやらが必要なのかも僕にはもうよくわからなくて、正直申しまして、ここからどうすればいいのかわかりません。シナリオが面白くないのは、もう書き上がったことになってるわけだからこの際置いておくとしても。



3/4 追記
JavaScriptをまともに扱えるようになるまで作業を進められないというのは、まったくの初学者にとってはさすがに意味が解らないので、かんたんにできる範囲で画面の整形だけしてシナリオを進めることにしました。やはり手に負えないので今は放棄する方向で、と。
スキップとバックログがあればとりあえずオーケーと言えないこともないでしょう。バックログ縦書きは付け焼刃の知識じゃ無理ですね。まぁその辺はいずれ……。
エンターかコントロールキー押っぱでスキップだけは頑張って実装する予定。メニュー画面からスキップする機能が最初からあるといえばあるのですが。スキップ機能の調整くらいはティラノのスクリプトだけでできるのかな?

ノベルゲームについての雑文

 新作のシナリオが書きあがったから、次は写真や音楽をはめ込んでゲームの形にする作業なんだけど、ゲームエンジンを、長く使っていたNScripterから別のものに移行しようと、あれこれ比較して、ティラノスクリプトというものに決めた。ところが、触ってみると初期仕様の画面に装飾が多くてそのままでは使えず、かといってカスタマイズするにはそれなりのスキルがいるらしい。もちろんこれはノベルゲーム制作エンジンなので、文章を表示して映像を表示して音を出す、という仕事は十分にしてくれるし、その辺に関する工夫はかんたんにできるようになってはいるよう。しかし、もっと根本的な、ノベルゲームを作品として届けるための作品を通してのデザインを凝らすという段になると、ちょっと難しいところをいじらなくてはならない。当然、僕にそんなスキルはない。中身が大事で外身はどうでもいい、というのはそろそろ通用しない気はする。というのは、イラストの美しさだとか、声優さんの上手さだとか、そういう話だけではなくて、そもそもノベルゲームが文章+映像+音+…の総合芸術である限り、プレイ中のビジュアルやサウンドをひとかけらでも「無かったこと」にはできないということ。どれが中身でどれが外身なのかなんて簡単に言い切れるもんじゃないということ。

 ノベルゲームが文章のほかに背景画像やBGMを含んでいるということは、それらをいかに使うかという選択が、その作品でその方法を選択した仕方での表現ということになってしまう。そして、何かを「使う」場合だけでなく「使わない」場合さえ同様なんです。ノベルゲーム作者は、現在は文章書きばかりではなさそうな人たちも散見されて喜ばしい限りなんだけど、それでもノベルゲームのメインはやはり文章ということになっているらしいので、小説やら何やらをやっていた人がノベルゲームを作るということは、これからもずっとあると思う。そういう制作者にとってしばしば映像や音は専門外でありうる。むろん文章のみでなく幅広く芸術に造詣の深い人もいるだろうけれど、そしてノベルゲームというのはそれが扱う表現形態が多岐にわたるために、制作者はそのように視野を広く持つのが好ましいんだけれども、そんなポテンシャルのある人なんてそういるものではない。ノベルゲームが一体どういうものでどういう可能性があるかというのは、誰もがいまいちわかっていないところがある、もちろん僕だってそうなんですね。

 文章以外の素材を「使わない」ことを選択したい場面というのはわりとある。制作する作品に関して文章を軸に考えていたならなおさらそうで、文章以外に演出を加えるとかえって悪くなるだろうと思えるケースはあって、そういう時にそれら映像や音を、考え無しに単純に削ることができないのがノベルゲームの難しいところ。作品全体のデザインを、グラフィカルな演出を抑えるように最初から構築していたならやりやすいのかもしれないが、常時背景写真が映され、BGMが流れ、立ち絵がこっちを見ているような作品だと、BGMを消す、背景を消すという行為が、ほんとうは余分な意味を削除したいための選択だったとしても、逆にそれ自体なんらかの意味を持った演出として動いてしまう。最初から映像や音を使うことができるようになっている、もっと言えば、使うことが当たり前になっている、ノベルゲームのメディアとしての困難がある。

 ところで、新作のシナリオは書きあがったと思ったら、写真を一枚映して文章をのせて、数ページ流してみたらどうにも面白くないというか、もはやしょうもない感じがしたので、ちょっと止めている。だから書きあがったというのは嘘です。
 
 ティラノスクリプトを使いこなせないせいで創作に厳しい制約が課されているのが辛い。ツールの初期仕様をそのまま使うのでもノベルゲームとしての作品は作れるわけだが、ツールの「推奨」する制作方法に寄りかかっているだけでは思うようにならないこともある。現在ノベルゲームという媒体による表現の幅もだいぶ広がってきているとは思うけれど、それでもまだどこかに足踏みを感じてしまうのは、ノベルゲームの制作があまりにも手取り足取りの親切な環境のなかでなされるからなんじゃないか。文章を書いたあとの最終的な仕事は「文章を映像と音でそれらしく装飾してやる」ことで、便利な制作ツールを使えばそれが簡単にできてしまうというハードルの低さがノベルゲームにはある。ハードルというのは技術的な話はもちろんだけど、それ以上に、物語創作以外の工程がシステム化され、効率化され、ときにノベルゲームというジャンルの思想さえ標準化され、文章と映像と音を組み合わせる段階で「創作の労力」を割く必要がそんなにないということ。制作者が物語創作に頭脳労働を集中することのできる整った環境がある。ノベルゲームを作り始めた人のなかで、文章と映像と音をいかに組み合わせるかという特殊な仕事が、専門外でなかった人がどれだけいるだろう。専門外の仕事はきつい。だから専門外の仕事における頭脳労働を軽減してくれるのは非常に助かる。けれどもそうした方法を採用するということは、創作過程の一部を放棄することにほかならない。でも、制作者は万能ではないし、個人制作であれチーム制作であれ、知識や能力にはやはり限界があるのだから、放棄するほかない部分というのはどうしても出てくる。例えば僕にプログラミングなんかわかるわけない。

 ノベルゲームを作るということは、徐々にノベルゲームのそういう面倒な側面を考えるようになる過程でもあるでしょう。僕は、今は意味が解らんだけのつまらないものを書いているなあという気がずーっとしていて気分がだるいけれど、自分はノベルゲームを産む機械ではないのだから今やっていることが無駄ってわけではないだろう。自分の書いているものを面白いのだとちょっとでも思えなければやる気は全然出ないんだけれど。やる気が出ない。