チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

ノベルゲームについての雑文

 新作のシナリオが書きあがったから、次は写真や音楽をはめ込んでゲームの形にする作業なんだけど、ゲームエンジンを、長く使っていたNScripterから別のものに移行しようと、あれこれ比較して、ティラノスクリプトというものに決めた。ところが、触ってみると初期仕様の画面に装飾が多くてそのままでは使えず、かといってカスタマイズするにはそれなりのスキルがいるらしい。もちろんこれはノベルゲーム制作エンジンなので、文章を表示して映像を表示して音を出す、という仕事は十分にしてくれるし、その辺に関する工夫はかんたんにできるようになってはいるよう。しかし、もっと根本的な、ノベルゲームを作品として届けるための作品を通してのデザインを凝らすという段になると、ちょっと難しいところをいじらなくてはならない。当然、僕にそんなスキルはない。中身が大事で外身はどうでもいい、というのはそろそろ通用しない気はする。というのは、イラストの美しさだとか、声優さんの上手さだとか、そういう話だけではなくて、そもそもノベルゲームが文章+映像+音+…の総合芸術である限り、プレイ中のビジュアルやサウンドをひとかけらでも「無かったこと」にはできないということ。どれが中身でどれが外身なのかなんて簡単に言い切れるもんじゃないということ。

 ノベルゲームが文章のほかに背景画像やBGMを含んでいるということは、それらをいかに使うかという選択が、その作品でその方法を選択した仕方での表現ということになってしまう。そして、何かを「使う」場合だけでなく「使わない」場合さえ同様なんです。ノベルゲーム作者は、現在は文章書きばかりではなさそうな人たちも散見されて喜ばしい限りなんだけど、それでもノベルゲームのメインはやはり文章ということになっているらしいので、小説やら何やらをやっていた人がノベルゲームを作るということは、これからもずっとあると思う。そういう制作者にとってしばしば映像や音は専門外でありうる。むろん文章のみでなく幅広く芸術に造詣の深い人もいるだろうけれど、そしてノベルゲームというのはそれが扱う表現形態が多岐にわたるために、制作者はそのように視野を広く持つのが好ましいんだけれども、そんなポテンシャルのある人なんてそういるものではない。ノベルゲームが一体どういうものでどういう可能性があるかというのは、誰もがいまいちわかっていないところがある、もちろん僕だってそうなんですね。

 文章以外の素材を「使わない」ことを選択したい場面というのはわりとある。制作する作品に関して文章を軸に考えていたならなおさらそうで、文章以外に演出を加えるとかえって悪くなるだろうと思えるケースはあって、そういう時にそれら映像や音を、考え無しに単純に削ることができないのがノベルゲームの難しいところ。作品全体のデザインを、グラフィカルな演出を抑えるように最初から構築していたならやりやすいのかもしれないが、常時背景写真が映され、BGMが流れ、立ち絵がこっちを見ているような作品だと、BGMを消す、背景を消すという行為が、ほんとうは余分な意味を削除したいための選択だったとしても、逆にそれ自体なんらかの意味を持った演出として動いてしまう。最初から映像や音を使うことができるようになっている、もっと言えば、使うことが当たり前になっている、ノベルゲームのメディアとしての困難がある。

 ところで、新作のシナリオは書きあがったと思ったら、写真を一枚映して文章をのせて、数ページ流してみたらどうにも面白くないというか、もはやしょうもない感じがしたので、ちょっと止めている。だから書きあがったというのは嘘です。
 
 ティラノスクリプトを使いこなせないせいで創作に厳しい制約が課されているのが辛い。ツールの初期仕様をそのまま使うのでもノベルゲームとしての作品は作れるわけだが、ツールの「推奨」する制作方法に寄りかかっているだけでは思うようにならないこともある。現在ノベルゲームという媒体による表現の幅もだいぶ広がってきているとは思うけれど、それでもまだどこかに足踏みを感じてしまうのは、ノベルゲームの制作があまりにも手取り足取りの親切な環境のなかでなされるからなんじゃないか。文章を書いたあとの最終的な仕事は「文章を映像と音でそれらしく装飾してやる」ことで、便利な制作ツールを使えばそれが簡単にできてしまうというハードルの低さがノベルゲームにはある。ハードルというのは技術的な話はもちろんだけど、それ以上に、物語創作以外の工程がシステム化され、効率化され、ときにノベルゲームというジャンルの思想さえ標準化され、文章と映像と音を組み合わせる段階で「創作の労力」を割く必要がそんなにないということ。制作者が物語創作に頭脳労働を集中することのできる整った環境がある。ノベルゲームを作り始めた人のなかで、文章と映像と音をいかに組み合わせるかという特殊な仕事が、専門外でなかった人がどれだけいるだろう。専門外の仕事はきつい。だから専門外の仕事における頭脳労働を軽減してくれるのは非常に助かる。けれどもそうした方法を採用するということは、創作過程の一部を放棄することにほかならない。でも、制作者は万能ではないし、個人制作であれチーム制作であれ、知識や能力にはやはり限界があるのだから、放棄するほかない部分というのはどうしても出てくる。例えば僕にプログラミングなんかわかるわけない。

 ノベルゲームを作るということは、徐々にノベルゲームのそういう面倒な側面を考えるようになる過程でもあるでしょう。僕は、今は意味が解らんだけのつまらないものを書いているなあという気がずーっとしていて気分がだるいけれど、自分はノベルゲームを産む機械ではないのだから今やっていることが無駄ってわけではないだろう。自分の書いているものを面白いのだとちょっとでも思えなければやる気は全然出ないんだけれど。やる気が出ない。