チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

ぱすてるメモリーズ 2話

結論を書きます。クソアニメです。じゃなくて、
一番のポイントは、1話にて現実世界で起きた問題の解決に、ウィルス問題が直接的に関与していないということ。

「うさぎさんカフェへようこそ」がまた読みたいという女の子の願いをかなえるために、単行本を全巻揃えることが1話の目的だったはずです。
同時に、作品の思い出が消えてしまうという問題も描かれていたかと思います。ウィルスに作品世界が侵されることによって作品世界が破壊され思い出も消えてしまうという設定です。
詳しくは後述しますが、これは現実に起きている出来事ではありません。

さて、「うさぎさんカフェへようこそ」を全巻揃えるという1話で提示された目的は、2話で達成されました。
いかにして達成されたか、ということが重要です。
マザーウィルスを退治して世界を元通りにしたことによってでしょうか。

違います。

1話でカフェの従業員が秋葉原中を走り回ったことと、SNSで投稿が拡散されて提供者が現れたことによって、達成されたのです。

ここが2話のポイントです。では詳しく書いてゆきましょう。

 

その前に、今回は先に疑問点を書いておきます。

 

疑問点

  • 作為的なクソ脚本とガタガタ人物作画

作品世界に入ってからの話は極めてくだらないものでした。子供向け変身ヒーロー・ヒロインものみたいな展開だけど、ものすごく大雑把だしキャラのやりとりも最悪レベルの寒さです。
また背景の丁寧さに比して人物の絵があまりにも雑だったのも非常に印象的でした。人物の絵にも動きにも見所が一切ない。
絵の方はどうだか知りませんが、脚本は明らかにそのようにわざとクソとして作られているでしょう。といってもどういう意図でそうしたのかはよくわからないです。単に悪ふざけという本作のスタイルに沿ったやり方なのかも知れません。

言うまでもなく、すべてを真実大真面目にやってこうなってしまったと見れば、こんなものは酷すぎますから即切りです。脚本も絵もきっと作為的なものだと考えて見るしかないです。

※(1/18追記)ツイッターで検索して、不安定な作画のせいでごちうさのパチモン感がすごい、みたいなツイートを見かけてなるほどなと思いました。パロディやるだけじゃなくパチモン感を出すためにあえて人物作画を雑にしたというのは納得のいく理屈ですね。そもそも彼女たちが古今東西の「美少女キャラ」のパチモンみたいな存在ですし。

 

  • メンバー選出意図が不明

メンバーが12人いて、キャラが被らないよう配慮されているとなれば、自然な発想として作品世界に向かうメンバーはその都度「選出」されると考えます。あの大人数は要するに美少女のレパートリーであるわけですから。
しかし2話で彼女たち3人が選ばれた積極的な理由があるのかどうかはやや疑問です。
原作の初期メンバーだから? 同様の理由で1話で最初に登場させたので続投した? おそらくそんなところではないかと思いますが、いずれも必然性はなさそうに思えます。

もちろん、この点については次回以降の選出方法によりはっきりしてくる事でしょうから、初回で判断するのは早すぎるとも言えます。

 

  • これらの疑問点は、一見たんなる詰めの甘さとも取れる

2話は(1話もだけど)全体的に極めて雑です。
それゆえ、ぱすてるメモリーズの「違和感」を、意図的な仕掛けだったり作品の思想の現れだったり、読み解く価値のあるものとみなしていいのか、それとも単なる「失敗」と見てしまうべきなのか、非常に心配になってきております。はっきりと意図的だとわかるクソはいいのですが、そうではない微妙な乱暴さに対しての評価に迷うのです。

はたして、このアニメの雑さが、どこまで計算ずくなのか、計算ずくでなくても作り手の信念に基づいて現れたものであって一貫性が保証される、そういう類のものであるか。それは視聴者として見極めるべき点です。作品に対する信用と、以降の視聴態度にかかわる問題です。

とりあえず、今回は判断は保留にしてまともに書いてゆきます。

 

ということで、前置きを終わります。

 

以下本文

ウィルスは作品世界を壊すか

設定上は、ウィルスに感染することで作品世界が壊れ、現実の人々からも思い出が失われるという事になっています。
しかし、もしウィルスを倒すのが作品を救うための解決策なら、1話でなんのために必死で本を集めたのでしょうか。もちろん集めてほしいという願いがあったから、作品の思い出を守りたい彼女たちは集めることに決めたのかも知れません。ですがそんな問題ではないのです。なぜそれを1話で描く必要があったのかという事です。
最初に書いたように、現実世界に対するウィルスの直接的な影響は描かれていません。漫画本が黒くなったような表現があるだけです。

ウィルスによって作品が失われるというのは、わかりやすく言えば「嘘」です。
漫画本がなくなったのは、「うさぎさんカフェ」が絶版になって、秋葉原中の書店を探し回っても全巻揃えられない状況だったからです。
そんな中でも、「うさぎさんカフェ」がまた読みたいという思いを持った人がいたことこそ注目すべき事のはずです。
最後にはSNSで情報が拡散して、フォロワーの誰かに1巻を提供してもらったことで全巻揃えることができました。ここでも、過去の作品を懐かしがる人が大勢いたこと、彼らの協力で目的が達成されたことが重要です。

以上が事実として描かれたものです。
1話の最後に誰かが言っていたように、「大切な思い出は消えない」のです。

一連の出来事にウィルスは何ら関与していません。
わたしが思うに、ここが2話の一番のポイントです。超現実的なことは何も起きていないのです。


「あっち」と「こっち」

2話でようやくきちんと描かれましたが、彼女たちには現実世界と作品世界を行き来する能力があります。そして、その扉となっているのが「うさぎ小屋本舗」です。

作品世界と現実世界、「あっち」と「こっち」を行き来できるのは、彼女たちとねじれウサギであり、彼らには共通した特徴があります。「あっち」の性質と「こっち」の性質を併せ持っているということです。

彼女たちは「美少女キャラの亡霊」/「生身の女の子」という二重性を持ちますし、この物語の主役として「ウィルスを退治する戦士」/「喫茶店で働く女の子」という二つの立場を持っています(正確にはこれは二重性を持つがために与えられた役割で、ここで挙げるのは順序が逆ですが)。
ねじれウサギは「動いて喋る謎の生物」であるけれど/かつては「うさぎ小屋本舗のマスコット」でした。
これらは前者が「あっち」、後者が「こっち」の性質と見なすことができます。
こうした二重性を持つために、彼女たちは「あっち」と「こっち」を行き来できるのです。

そして、うさぎ小屋本舗はそんな二重性を持つ者たちのたまり場、住処になっています。
また「美少女キャラの亡霊」である彼女たちと秋葉原の人々が、ともに安定して存在し接することのできるほぼ唯一の場所でもあります。
うさぎ小屋本舗は「あっち」と「こっち」との狭間で、両方の世界の法則が共存できる場所なのです。

なぜかと言えば、うさぎ小屋本舗自体が非常に特殊な場所であるからです。
まず、明らかに「メイド喫茶」/だけど「普通の喫茶店」をかたっています。さらに、視聴者のいる「現実」と/ぱすメモ世界の「現実」があることを前提し、「オタク文化の盛んだったころの秋葉原」と/「オタク文化の廃れた秋葉原」を対応させるならば、それぞれに繋がる要素として「アニメグッズ店」/でありながら「喫茶店」も併設している、という特徴もあります。
ゆえにうさぎ小屋本舗は、作品世界と現実世界の境界となり得ているという訳です。


彼女たちの見ているもの

ところで、秋葉のオタク文化が衰退したという状況は、現実の出来事として描かれています。実際に秋葉原からは実店舗が消え、数多くあったオタク系の雑誌も廃刊、漫画本はなかなか集まりませんでした。
これを1話2話で語っていたのが誰かといえば、うさぎ小屋本舗で働いている彼女たちです。

彼女たちは「あっち」と「こっち」の両方を行き来でき、両方の世界の風景を見ることのできる存在です。いまの秋葉原で、オタク文化の衰退が現実世界と作品世界の両方に起因することを知っており、さらに個々の作品を守るための手立てすら持つ、唯一の存在です。

作品世界と現実世界、「あっち」と「こっち」は明確に分けられています。ウィルスが作品を人々の記憶から消す力を持つとしても、直接侵略しているのは現実世界ではなく作品世界の方です。作品世界から現実世界には直接干渉できないし、逆に現実世界から作品世界へも干渉できません。このことは、彼女たちが両世界を行き来できる能力を持つがゆえに戦っている、という構造からして自明でしょう(少なくとも今のところは)。

オタク文化の衰退の原因は、設定上はウィルスによるものです。ウィルスは「あっち」の存在ですから、戦うことのできるのは彼女たちだけです。もし本当にウィルスが作品を破壊して思い出を消しているならば、その理屈を理解しうるのは彼女たちだけという事になります。
秋葉原の人々は現実世界しか認識できませんから、彼女たちの知る理屈は通用しません。彼らにとってオタク文化の衰退の原因はウィルスではないのです。
2話の主旨はここにあります。

1話は完全に現実世界の出来事で「現実的」な出来事です。(あの作品世界での)現実の出来事を、(視聴者のいるこの世界という意味での)「現実」と同じ仕方で理解できる秩序のもと起きたものとして書いている、という意味で「現実的」です。
繰り返しますが「超現実的なことは何も起きていない」のです。だからウィルスは世界を壊していないと言えるのです。

翻って、2話はまさにその超現実の世界です。超現実の作品世界で、ウィルスが作品世界を破壊し、結果現実世界では思い出が消えようとしています。彼女たちにしか認識できない事象を描いた、彼女たちにしか理解できない法則によって成り立つストーリーです。


彼女たちの見ているものだけがある

1話2話とも物語の視点は彼女たちにあります。1話は現実世界、2話は作品世界の話でしたが、ふたつの世界は彼女たちにとって容易に繋がる世界であり、双方をともに自然な体験として語ることのできる身体を彼女たちは持っています。
けれどもふたつの世界には明確な区別をしなければなりません。現実世界のみに身を置く人間には、作品世界に属する物事を知ることはできないのです。ウィルスなど存在しないし、ウィルス退治が作品を救う方法であるとは、誰も考えはしません。

ぱすてるメモリーズは、「あっち」側を認識できる彼女たちの視点から描かれた物語です。
言い換えると「こっち」側だけに属する者の視点による描写がない世界です。

世界は2種類あり、彼女たちの視点からはその両方を認識することができます。「あっち」を知る者は、「こっち」だけを知る者の言葉を語ることはできません。「あっち」と「こっち」をともに知ることで真実が見えることを理解しているので、「あっち」をふまえて語る事しかできないのです。

作中では、秋葉原にいる「生きた人間」の声や生のすがたというのは、ほとんど出てきません。
1話では残された数少ない店舗で、2話ではうさぎ小屋本舗の客として。またSNSや交流ノートの書き込みとして、わずかながら確認することはできます。現実世界に生きる彼らの見ている風景は、そこからうかがい知れるのみです。

であるとすれば、果たしてぱすてるメモリーズの世界の風景は、いったいどの程度「現実的」な風景といえるのでしょう。どこからどこまでが現実の風景なのでしょうか。

ぱすてるメモリーズ 1話

ぱすてるメモリーズの1話を見ました。
ものすごく面白かったわけではありませんが、書き残すべきことがあるかなと感じましたので、1話だけかもしれませんが、記事にしておこうと思います。

視聴後に調べたところ、本作はソシャゲが原作とのこと。原作を知らないで見ましたが、この記事を書く前にインストールしてちょっとだけやってみました。こちらに関しては、そこまで書くべきことも無かったかと思います。アニメの視聴を原作と関連させてもいいのかもしれませんが、1話に限って言えば無視してアニメのみについて書いてしまったほうがいいかなと思いましたので、そのように書きましょう。

ごちうさのパクリだのパロディだのと言われているようで、わたしもその作品は未視聴だったので1話だけ見てみました。まぁ、1話だけじゃわかりませんでした……)


どんなアニメか、彼女たちは何者か

結論から言いますが、彼女たちは「美少女キャラの亡霊」といえる存在ではないかと、そんなふうに見ておりました。オタク文化の衰退した秋葉原という土地に憑く地縛霊とでもいったところです。

オタク文化は衰退してしまっているので、彼女たちは生きた存在ではありません。なぜなら、彼女たちは「美少女キャラ」なのですから、生きていれば、あのように顕現するはずがなく、死んでいるからこそ現れている。
亡霊であるすなわち存在するはずのない存在なのに、生きているかのように振舞っている。とうぜん、そこには理由があるはずですね。
というわけです。詳しく書いてゆきましょう。


美少女がたくさん働いている「うさぎ小屋本舗」

まず、オタク文化の衰退した秋葉原という舞台設定なのに、トップキャラがピンク髪という時点で猛烈な違和感しかありません。
なんでお前はそんな不自然な髪の色をしているのか。
言うまでもないことです。彼女が美少女コンテンツのヒロインだからです。

「うさぎ小屋本舗」は元グッズ店で、いまは併設された喫茶店をメインに経営しているということでした。
しかし、グッズを目当てに来る客が多いとか少ないとか、そういう次元ではありません。うら若い美少女たちが大勢で、フリフリのコスチュームで働いている喫茶店。これは明らかにメイド喫茶など何らかのコンセプト喫茶店の様相です。オタク文化は衰退したはずなのにです。
加えて、大勢の美少女がワイワイやるという、ある種の美少女コンテンツの系統としての見た目を保つ設定としても機能していることがわかります。

キャラ被りしないようにそれとなくバラけさせた見た目や性格などの個性、設定。美少女コンテンツなら常套の手法でしょうが、ここはオタク文化の衰退した秋葉原。そんな女の子たちのひしめく「うさぎ小屋本舗」は異次元空間でしかない。
どの子からもそこはかとなく感じられる「どこかで見た感」、個性の微妙に足りていないような感じ。それを目立たせてしまう、1話の脚本構成と大人数に押されたとでも言いたそうなキャラ描写の不足。
彼女たちが果たして「リアルな存在」と言えるかどうか。こうした特徴は、彼女たちが「美少女キャラの亡霊」であるゆえではないか。

すなわち「うさぎ小屋本舗」とその従業員たちは、失われたはずのオタク文化や美少女コンテンツの残滓だと言えるのです。(秋葉原オタク文化という文脈だとしても、メイド喫茶と二次元美少女コンテンツを単純に一緒くたにするのは悪い筋かもしれませんが……。)
いまの秋葉原に彼女たちの安寧に生きられる場所はありません。小さなグッズ店兼喫茶店という安全地帯(幽霊屋敷ともいえる)があって、フリフリコス美少女従業員としての地位を得て、ようやく生き延びているという状況なのです。


生きるために

秋葉原は、オタク文化が衰退し、残された数少ない店舗もひとつまたひとつと閉店しつつあるという状況です。放っておけばいずれすべての店舗が消滅し、美少女コンテンツ趣味の人もいなくなり、恐らく「うさぎ小屋本舗」の客足も完全に途絶えて、彼女たちはもはやこの世に留まることはできなくなるでしょう。

この辺に関しては、本作、ウィルス退治なるものが大事な設定としてあるようですが、1話ではほとんど触れられていなかったので、1話のメインストーリーである本探しに焦点を絞って書いてゆきましょう。

1話のストーリーは、交流ノートに書かれた「『うさぎさんカフェへようこそ』が読みたい」という女の子の願いをかなえるために、従業員たちが東奔西走するというお話。秋葉原にはまだ数件書店が残っているので、彼女たちは手分けしてそれらを当たります。
そういう単純なお話です。

彼女たちは、自身が何らかのオタクであるということもあって、オタク文化自体に対してもそうですが、それを楽しんできたオタクたち個人の思い出というのをとても大切に考えています。だからひとりの客でしかない(名前を覚えるほどの常連ではおそらくない)女の子の願いであっても真剣にかなえようと奮起します。
アキバ系オタク文化の衰退した後でも、女の子のように慎ましくたしなんでいる人もいるのです。オタク文化の衰退というのは、そんな彼らの思い出の根源が失われてしまうということでもあります。だからオタク文化を守りたいという気持ちや行動は、それを楽しむ人々のための善であるのです。そんな価値観が、明確に表明されています。

ところが、本探しに関しては、彼女たちにはもうひとつの行動原理があります。
なにかというと、彼女たち自身の生存です。本探しは、消滅寸前のオタク文化を守ることによって自分たちもまた生き延びたいという、彼女たちの生存戦略だというのが、1話のストーリーのもう一面です。

風前の灯火であるオタク文化を孤独にささやかにたのしむ人々の思い出を、消えゆくままにせずどうにかして守りたいという善意。彼女たちの行動にはそれが確かにあるのかもしれません。しかし、この善意というのは(事実それが相手にとって善だとしても)表向きの有様であって、そこに自分たち亡霊の生存の正当性を負わせている、というわけです。

ただ、秋葉原オタク文化が完全に復興したときには、亡霊としての彼女たちはおそらく存在できなくなってしまうでしょう。オタク文化が消えゆく最中にだけ亡霊として現れることのできる「美少女」、それが彼女たちなのだと思います。

さて、なぜ本探しが彼女たちの生存に繋がると言えるのか。それは彼女たちが「モノ」に憑く霊でもあるからです。

 

モノに憑く霊

彼女たちは秋葉原という土地に憑く霊だと最初に書きましたが、のみならず、彼女たちにはもうひとつ依り代があります。
既に書いてしまいましたが、1話の表現に従っていえば、コンテンツとして流通している「モノ」です。

茶店は元々はグッズ店でした。物置には無数のコレクション(かつての商品?)があります。店長は漫画を参考にして彼女たちの着ている制服をデザインして着せています。そして1話で探すのは紙の漫画です。
物置の品々を見て目を輝かせていた様子からも、彼女たちがモノの思い出を大切にしてるということが見て取れます。

つまり、彼女たちが直接に守ろうとしているのは「モノ」なのです。
1話からわかるオタク文化というのは、要はコンテンツが物理的な物として流通して、それを基盤にしてオタクたちが観賞したり収集したり、思い出を作ったりという思想なのです。

物理的な「モノ」を所持したい、収集したい、それを目の前にして蘇る思い出がある。こういうことは事実だろうし、わたし自身気持ちはよくわかります。
けれども現在のコンテンツの消費というのは、動画配信だの電子書籍だので済ませようとすれば済むし、SNSで作品の感想を共有するほうがメインの楽しみになったりさえする(ちょっと関係ない話だけど)。コンテンツ享受の段階に、モノは必ずしも介在しなくなっています。

それでも「モノ」なのだと。
少なくとも1話はそのように書かれています。
コンテンツとは「モノ」である。そして思い出は「モノ」から生まれる。なにより「うさぎ小屋本舗」で売っているグッズの存在意義は、そういった「モノ」であることそのものでしょう。

この作品で(少なくとも1話で)書かれているのは、そんな「モノ」に対する思想です。

この世界でいう秋葉原は、単にオタク文化の中心地だったというだけではありません。
実店舗が消えたということは、モノを売る店、その場で買える店が消えたということです。そして生き残っている小さな店もぽつぽつと閉店している。それによって失われるのは、手に取って存在を確認できる「モノ」であるということです。この現状は彼女たちの本探しが困難を極めていたことからもはっきりと読み取ることができます。

 


2話以降がどういう話になるのかわかりません。ここで書いたこととは全然関係ない話になるのかも知れません。きっと、ウィルス退治の意味によって作品の本当の思想が見えてくる、といったところでしょう。1話だけで完璧にあれこれ言えるような構成ではないです。
それでも、とにかく第1話の中に、なかなかいい話があったかなという事です。

自作曲

 

久々に作りました。耳コピや既存の打ち込みデータのチップチューンアレンジは、公開はしていなくてもちまちまやっていましたが、作曲はほんとうに久しぶりだった気がします。

music studio producerと新パソコンとの相性が悪く、10年使ってきたソフトですが、更新の止まった古いソフトですし、今回で引退してもらうことになると思います。

現在は多少やることがあるので優先順位は低くせざるを得ないのですが、PC新調に合わせて購入したUR22mkⅡに付属していたcubaseの使い方を、少しずつ覚えて、今後はそちらで作っていこうかなと考えています。

「KiTAN」の感想と、ノベルゲームの効果音の話

たぬ子様(セイナルボンジン)の「KiTAN」という作品の感想と、ノベルゲームの音響、とくに効果音(SE)の特性と使い方について論じてゆこうと思います。

blog.goo.ne.jp

 

さて、本作「KiTAN」の一番の特徴は、膨大な数のイラストを一枚ずつ順繰りに表示して物語を進めていくという表現方法です。しかし魅力はそれだけではなく、効果音の使い方が非常に優れていることを書きたいと思います。この作品の音の使い方と、そこから見えてくるノベルゲームのSEの特徴には、普段ノベルゲームを読む方にとって考えさせられる要素が多くあるのではないかと思っています。

『映画音響論』(長門洋平)という本では、映画音楽の音響についていくつかの分類がなされています。そのうち最も根本的な「物語世界の音」「物語世界外の音」という分類を参照してみます。ノベルゲームでもじゅうぶんに有効な分類であると考えられます。
この二分類が区別しているのは、ある音が、物語世界に存在する音源から発せられている音なのか、物語世界のそとから付け加えられた観客のみに聞こえる音なのかということです。後者について挙げられているのは劇伴、ナレーション等です。ノベルゲームならば感情表現などに使われる一部の効果音も該当するでしょう。(無料ゲーム.comさんの道玄斎さんのコラムでも同様のことが書かれています。)

道玄斎さんのコラム 19「BGMの深淵な世界へ」 | 無料ゲーム.com

本作のひとつの特徴として、作中で効果音が多用されていることが挙げられます。作品はイラストを一枚一枚クリックでめくっていくような感覚で進行していき、画面が切り替わるタイミングで効果音が挿入されるというスタイルになっています。効果音の使い方も、登場人物の動きや背景の音、場の静寂にいたるまで非常に巧みに表現されています。

効果音を一つ一つ聞いているとわかるのですが、使われている音はBGMもあれば環境音もあり、人や物の動きによる音まで多様です。そのうち、ごく短い、人や物の動きによるSEを挿入する箇所が多いことにも気付くと思います。アクションシーンが多いため自然そうした形になるのかもしれません。
静止画に対して音が付与されるというスタイルにおいて、音という情報は自動的に聞こえてくるものですが、静止画または文章という情報に関しては、読者は意識的に観賞するという受け取り方をします。このとき、絵を見て文章を読む間の、手を止めて画面を注視するという態度が、作品全体にただよう緊張感に繋がっているように思われます。

 

本作をプレイして気付いたのですが、SEには持続的な音と瞬間的な音とがあるようです。前者は例えば風や水などの自然音、またはガヤ、シーン中人物の運動が継続する場合の足音や呼吸音など。後者はそれ以外の一回だけ発生するあらゆる音です。なおこの区分は「物語世界の音」に適用できます。

なぜ持続する音と瞬間の音の区別があるのでしょうか。
音というのは人や物の運動に付随して発生します。基本的に、物語世界で何かが物理的に動かなければ音はしません。風音や水音もそれぞれ空気や水が運動することによって音が生まれています。
この運動に、持続と瞬間の区別があるのです。だから運動によって発生する音にも、持続する音と瞬間の音の二種類が存在することになります。

さて、当たり前のことですが、音には必ず音源があります。犬の鳴き声は犬が音源で、ドアをノックする音はドアと拳が音源です。
『映画音響論』では、音源が画面上に映っているかどうかによって「インの音」「フレーム外の音」という区別をしています。映画では映像として表出するために音源の存在を意識しやすいのですが、ノベルゲームでは必ずしもそうではない。むしろ映像的に描写しづらいせいで音源の存在を意識することは少ないと言えるでしょう。
ところが本作は膨大なイラスト一枚一枚に対して音を付けるという方法を取っているため、瞬間の音を付加するケースでは音源の姿がイラストとして描画されていることが多い。これが理由となって、音には音源が存在するということを意識しやすいという特徴があります。
主人公が刀を振り風切り音がする、追手が主人公に向かって駆ければ草を踏む足音がする、鈴が揺れれば鈴の音がする。
音には必ず音源があり、加えて音源が何らかの運動を起こすに至った状況があります。物語に登場する音源はひとりでに何の目的もなく動きはしないし、仮にそのように目的なく動いた音源があったとしても、その音は作品の構成要素として表出しては来ません。発生した音が読者に対して音として現れてくるのは、その音が物語上において何らかの価値を持っている場合においてであり、本作はその状況がイラストで明確に表現されているということです。この辺りについての詳細は後述します。

また、本作において音が鳴っているということは、一枚一枚のイラストがそれぞれ固有の時間を持っていて、その時間に音が付随していることを意味しています。瞬間の音は音源の一瞬の運動から発生しているし、持続する環境音等はそれぞれのイラストの、もしくはいくつかのカット(一枚のイラストを一カットと数えるならば)をまたいだ、一定の持続する時間のなかにある音です。

音源が音源としてある場面に登場している時、音はスピーカーもしくはヘッドフォンを通して読者に聞かれることになります。イラストのうちの何が音源としての役割を果たしているのか、またはイラストには描かれていないのか(フレーム外の音なのか)、またその事物がどのくらいの時間の幅をもって音源として存在するのか。そういったことを読者はすべての音に対して判断しますし、その判断が実際に聞こえてくるSEと合致していれば丁寧に調整されているという事になるでしょう。本作はその点非常によく作られているということが言えます。


ところで、SEというのは、ある場面において無数に存在するであろう音源の存在に対して、極めて選択的に使用されているということも触れておきたい話題です。上述した「発生した音が読者に対して音として現れてくるのは、その音が物語上において何らかの価値を持っている場合において」ということの説明です。
環境中には無数の音が存在し、それらが混じりあって我々を取り巻いており、我々は意識せずとも常にそのモヤモヤした音たちを聞くという音環境に身を置いています。サウンドスケープ論では「基調音」と「信号音」という区別があり、先の説明は「基調音」にあたります。一方「信号音」は意識的に聞かれる音のことです(元々は共同体のサウンドスケープ・デザインを含む論考なのでもう少し限定的になるのですが、ノベルゲームでは考え方を参考にする程度にして、単純に考えてみます)。

なお、この区別は、上記の持続する音と瞬間の音には単純に当てはまらないことに注意しておきます。風音や水音やガヤは、それが風土的に根付いたものであるなら基調音と言えるかもしれませんが、長時間持続する足音は当てはまらないでしょう。

話を戻しましょう。SEが選択的であるという事の意味は、SEとして表出するのは基調音のすべてではないし、信号音のすべてでもないということです。繰り返しになりますが、ほとんどの場合、SEとして付加されるのは、物語進行にとって何らかの意味や価値のある音のみということになります。
例えば、主人公と敵が戦うアクションシーンでは、主人公が刀を振るう際の風切り音というのは、臨場感を増幅させるために必要な音ですから、付加されます。しかしその時に足元でコオロギが鳴いている可能性があっても、明確な演出意図が無ければ(あれば別ですが)、その音は意味のない音として(基調音の一部となり)実際には物語世界で発生しているのだとしても無視されます。
例えば、どこかの町の音環境について考えるときに、風のうねり、遠くからぼんやり響く自動車の音、鳥の鳴き声、そうした無数の音によって構成される基調音は、わざわざSEとして挿入されることは少ないでしょう(たぶん日常BGMなどで上書きされたりすることが多いでしょう)。

ちなみに、常時音が有るタイプのノベルゲームでは、無音というのは意図的な演出として取られてしまう可能性があるため避けたほうが良いようです(涼元悠一 突発的エセノベルゲームシナリオ講座 お題:『ノベルゲームのBGM運用基本』より)。演出としての無音ではなく、とくに鳴らすべき音の無い場面で、もしBGMを用いないならば、基調音となるガヤ等をあえて加えるという方法も考えられるかも知れません。

この点について言えば、本作は常時何らかの音が鳴っているわけではなく、舞台の風土も関係しているのでしょうが、無音の場面が多い。ゆえに無音であっても何らかの意図があるのではと疑われにくい。それこそが読者において現象する基調音であるからです。SEの使用が多いと書きましたが、基本的に静かな作品なのです。
なので、見方によってはSEとして付加されているすべての音が信号音として扱われているとも言えます。普段の環境には特筆すべき音がない。鍛冶屋の親父が鉄を打つ音くらいでしょうか。そんな環境にあって不意に耳に飛び込んでくる音というのは、すべて聞く者にとって特別な意味を持った「意識すべき音」として、物語進行上価値を持つ音ということになるのでしょう。

と、ここまで書いたところで出てくる疑問が、その音を聞く者とは誰なのか? という点でしょうか。言い換えると、SEとして鳴っている音は登場人物の誰に聞こえているのかということです。
その場にいるすべての人物にでしょうか? 恐らく、それは正確な言い方ではありません。例えば、何らかの信条から虫を踏み殺してはならない人間にとって、足元のコオロギの鳴き声はいかなる時も決して聞き逃してはならない音のはずです。しかし、それ以外の人にしてみれば、わざわざ注意を向ける必要のない音かも知れません。聞こえているのに聞こえていないのです。音の価値というのは聞く者によってまったく違ってきます。
物語世界内の音としてSEが鳴っているということは、それを誰かが聞いているかも知れないし、聞いていないかもしれないということです。誰かが実際に聞いている、つまりその人の意識に上っている音かも知れないし、一部の人にしか聞こえていないかも知れないし、その場にいる誰も気に留めない音なのかも知れない。むしろ重要なことは、音に対する登場人物のそういった態度こそが、音が鳴ったその場面において表現されているかも知れないという点ではないでしょうか。つまり、スピーカーを通った先にある読者の世界にではなく、物語世界内において、その音はどのように現れているのかという観点です。


クリックによる文字送りの話もしておきましょう。
ノベルゲームでは文字送りのクリックによって物語が進行します。文章が一定量表示されたら読者はクリック操作し続く文章を表示させ、決まった文章量に達するとページが更新され、まっさらになったスペースに新たに文章が表示されてゆきます。この点は本作も同様です。クリックすると画面が切り替わり新しいイラストが出てきます。その繰り返しで物語は先へ進んでゆきます。

この時、読者は文字を読み、イラストを鑑賞し、クリックをするという行為を、「現実時間において」行っていることに注意します。以上の一連の処理に三秒かかるならば、実際に三秒の時間が現実世界では経過しています。たとえ、物語中では一秒も進まない情景描写だとしても、時間が省略されて百年の時が過ぎるのだとしても、現実に流れる時間は同じ三秒なのです。
すなわち、ノベルゲームに限らず文章媒体の物語作品では、文章を読む速度と、物語の進む速度は独立しているということです。映像媒体は、例外はあるにせよ、ひとつのカットの間では、現実時間と同じ速さで物語時間は経過してゆきます。

小説とは異なり、ノベルゲームには、映像作品と同じように音響演出があります。音響というのは時間に依存した情報です。始まりがあって終わりがあり、その長さは時間という尺度で測られます。三秒の長さを持ったSEは実際に三秒の現実時間を占めるということです。
読者が文章を読む行為が依存するのも現実時間でしたが、同じ現実時間でも、SEの時間はこれとはまた独立して存在します。読者がいかなる速さで文章を読み進めようと、SEはそんなことは関係なく決まった長さだけ鳴って、静止するだけです。
もしこれが映画であれば、映像とともに音もリアルタイムで流れます。それは物語の進行する速度とも一致しています。それが映画というものを作っているし、映画を観賞するという体験でもあります。しかしノベルゲームのSEは、読者の読書時間とも、現実時間とも独立して、一旦鳴り始めればそれ固有の時間の中で存在するのです。

ノベルゲームのSEで重要なのは(別にノベルゲームに限りませんが)、長さでも早さでもなく、タイミングだと言えます。本作では、とくに瞬間の音に関してその性質が際立っており、また見事に演出されていると言えるでしょう。
刀を振るう風切り音は刀を振るった瞬間に発生します。足音は地面を踏みしめた瞬間に発生します。こうした運動はイラストの表示によって物語世界に現れるため、音源の出現とSEの発生が同期しているのです。

ここで注目すべきは、イラストの切り替えがクリックによって起こるということです。先ほど物語の進行速度をコントロールするのは読者のクリックであると書きましたが、まさにクリックのタイミングとSEと映像のタイミングが一致する、それが一定の基準…読者のクリックするペースにおいて繰り返されるというデザインが、本作の独特な時間の流れと音の迫力を生んでいます。
ひとつのカットの中で物語世界内でも現実世界でも一定の時間が経過し、次のカットに進むという区切りを、クリックという行為によって読者の意識に上らせる。そして、まさにその瞬間に、物語世界では何らかの運動が発生し、SEが発生する。
音はなぜ生じるのか、何が聞こえているのか、なぜ聞こえているのか、そういった当たり前のような音の原理を、改めて意識させてくれる仕組みになっているのではないでしょうか。


さて、冒頭で、物語作品で扱う音には「物語世界の音」と「物語世界外の音」があるという分類を引用しました。そして当記事で論じてきたSEは、主に「物語世界の音」でした。
「物語世界の音」という言い方をしていますが、厳密には、物語世界の音がそのまま我々の耳に届いているのではない、というケースが多いです。
映画や舞台などにおいて挿入されるSEには、擬音という特定の音に似せて作られたまったくの別の音が用いられることがあるでしょう。上記したように、音というのは人や物の運動に伴って発生するものであるから、これらの動きにタイミングや大きさや持続時間などを合わせて、それらしく聞こえるように演出しているわけです。
ノベルゲームでは、あらかじめ録音し調整したオーディオファイルを用います。フリーノベルゲームならば、多くの作品は、いわゆる「素材サイト」から出来合いのオーディオファイルを借りている。しかも数種類のオーディオファイルを何度も使いまわすことが多いです。映像作品とは違い、音の発生状況を描写するための情報量が少ないので、それで十分に間に合ってしまうのです。
もっとも、現実世界の音にしても、「そのまま我々の耳に届いている」かどうか怪しいものだったりします。犬が100回鳴けば、100回すべて異なる音があるはずですが、実際はほんの数種類に分類してそれらの間の区別しかしていない。それ以上の分類はそれを聞く我々にとって意味を持たないからです。当然さらに細かな区別が意味を持つ専門的職業の人にとっては別です。聞く人間によって音の価値というのは変わるのです。要するに、普段聞こえている何らかの音に関して、大多数の人は限られた分類のもとでそれを聞くということであって、仮にそうした認知を前提としてその音をノベルゲームで表現するならば、対応する数種類のSEを用いるということになります。

 

ノベルゲームの音響の特徴への反省や、実践的な演出方法の模索というのは、今後重要性を増してくるのではないかと考えています。
VRの普及が徐々に進みつつあるいま、VRノベルゲーム、VRADVというジャンルの作品がちらほら出始めています。先日ティラノVRという制作ツールも公開されました。
現状VR作品はHMDによる没入型コンテンツであり、一人称視点での体験型という形式が取られやすい。VRノベルゲーム、VRADVというジャンルでは、読者は物語の進行に合わせて、物語世界に身を置いて実際に音を聞いているという感覚が強くなってゆくでしょう。360度見まわすことができ、距離すら体感できる空間での音響演出は、現在のノベルゲームの環境――同時に得られる情報が固定された一枚絵と文章という状況で構築されてきた方法とは、異なったあり方を求められるはずです。

ノベルゲームではありませんが、一作品紹介しておきましょう。VRADV「Project LUX」では、3DCGキャラクターの動きに合わせたタイミングで足音などのSEを付加しています。立体音響になっていて、ただ距離は反映していないような気がしますが(舞台が狭い室内に限られるので重要度が低いせいでしょうか)、音源のある方向からちゃんと音が聞こえるようになっています。
全体的な雰囲気は、台詞のみで進む体裁や舞台装置の狭さのせいで一見演劇のようであり、人物の動作に効果音をしっかり一致させた映像作品的な音の付け方をしています。というか映像作品です。別段変わった手法を取っているわけではありませんが、音源の運動に対してSEのタイミングと方向を合わせるだけで、リアリティのある音体験が実現できるというVR物語コンテンツの一例と言えます。

store.steampowered.com

むろん、VRノベルゲーム、VRADVにはVRなりの問題が付きまとうのですが(背景画像、立ち絵と呼ばれていた素材をVRに持ち込む際の、それらの変質に伴う構造的な問題も無視できません。この件はいずれ作品数が揃ってきたときに、まだ取り上げる価値があったなら改めて論じましょう)、一個の方向性として演劇もしくはアニメに近づいていくのが(少なくとも形式的な秩序を保つためには)有効であることを「Project LUX」は示していると言えます。

写真

リーリエフィギュア

f:id:gumbase:20180208202425j:plain

f:id:gumbase:20180328113400j:plain

f:id:gumbase:20180707093532j:plain

f:id:gumbase:20180707093556j:plain

f:id:gumbase:20181018152834j:plain

f:id:gumbase:20181021144013j:plain

f:id:gumbase:20181021155724j:plain

そうです。あのコが僕の畏敬する天使様なのです。

f:id:gumbase:20181026222838j:plain

がんばリーリエフィギュア

f:id:gumbase:20181101132628j:plain

f:id:gumbase:20181101132927j:plain

f:id:gumbase:20181101133054j:plain

f:id:gumbase:20181101133225j:plain

メイド喫茶にて、ハッカドールちゃん描いてもらいました

f:id:gumbase:20180617145516j:plain

白馬・ペンションクヌルプ…あこがれの場所でした

f:id:gumbase:20171009174816j:plain

f:id:gumbase:20171009135143j:plain

f:id:gumbase:20171009135918j:plain

f:id:gumbase:20171009174150j:plain

f:id:gumbase:20171009174719j:plain

多摩動物公園

f:id:gumbase:20180707153512j:plain

Hop Step Sing!「覗かないでNAKEDハート」「気ままに☆サマーバケーション」

9月23日にTOKYOゲームショウに行って、講談社VRラボさんのブースで「Hop Step Sing!」というVRアイドルのMVを見ました。
最新曲の「覗かないでNAKEDハート」を丸ごと1曲視聴しました。

HMDを使ってのVRコンテンツなので、360°の視野があり、すぐそばで、美少女アイドルが3人、歌って、踊ってくれる。つまり天国ということです。
アイドルはとても可愛らしく作られていて、動きは、部分的にモーションキャプチャだったり手で付けたのだったりするようで細かく判別できませんが、目の前すぐ近くでライブしてくれる素晴らしい体験なのです。とりあえず萌え豚としてはそれだけで十分すぎるほど満足できる。

このMVでは、ユーザーの存在が設定として作品中に組み込まれている。設定については説明文を引用しましょう。

VR空間で、アイドルたちの歌とパフォーマンスを楽しむ「VRミュージックビデオ」です。
アイドル達と一緒に飛び込んだのは、世界中の傷ついたハートを治すための魔法の工場。
あなたは彼女たちのリーダーとして、一緒に世界の笑顔を取り戻しましょう!

この作品の特徴として、ユーザーには操作のための手が渡され、手はコントローラで動かすことができます。時折アイドルたちに、ボタンを押したり、アイドルとハイタッチしたり、といった簡単な操作を求められる場面があります。この仕組みが作品内への参加の感覚をもたらしています。

視聴してみて、まず強烈だったのは、アイドル達がこちらを認知してくれているという実感です。ユーザーが操作を求められることはこの実感を強めてくれることでもあります。ユーザーとアイドル達との関係は、ただ歌って踊るのを眺めるだけではなく、彼女らはこちらの存在を認め、視線を向けてきたり、手に持ったタブレットのようなものを指し示したり、ユーザーの周囲の物体を振り払ったりします。さらに、何らかの仕掛けの操作を指示し、作品の進行への協力を要求してくれる。あなたが手伝ってくれることでこの物語は完成するんだよと。
作中に登場するのはアイドル3人と、ユーザーのみ。そしてアイドル達はこちらの存在を認めている。とすれば、この世界でアイドル達は誰のために歌って踊ってくれているのか。そう、わたしだけのためにです。

ところで、途中でユーザーが操作を求められる場面があるとはいっても、そもそもそうした仕掛けの存在も、いつどういった形で参加を要求されるのかも、最初ユーザーは知りません。あくまでも、アイドル達の役割は歌って踊ることで、こちらの役割はそれを眺めることです。べつに、よし参加するぞ、という心構えで視聴するのはありません。仮に知っていたとしても、その構図は基本的には変わらないでしょう。
そんなところに、アイドル達は突然近づいてきて要求するのです。ボタンを押してください。ハイタッチしてください。だから、こちらは、ちょっと戸惑うんですよ。えっどうしよう? 幸せに眺めていたのに突然なんなんだろう? どうすればいいんですか? アイドルが(映像による誘導により)その方法を手ほどきしてくれる。このボタンに手を当ててください。このハートに触れてください。わたしののばした手にあなたの手を重ねてください。そうして、ちょっとだけ困惑しながらアイドルの指示に従って、アイドルと「共同作業」(下記の記事より言葉を借ります)する。という仕組みになっている。

本作品の良さについては、こちらの紹介記事が素晴らしいので、ぜひ読んでみてください。
Virtualブロガーさん。浅田カズラさんのブログ記事です。
v-v-tail-log.hatenablog.com
浅田カズラさんも書かれているように、もちろん、実際にVR機器で体験してもらうのが一番いいです。



3曲目の「気ままに☆サマーバケーション」も劣らず素晴らしいので、併せて紹介しましょう。

こちらも作中にユーザーの参加を組み込んでいる。こちらも説明文を引用します。

アイドルたちと一緒に夏のビーチにお出かけ!
ミュージックビデオの中にあなたも出演者として入り込めるVR第3弾。
今回は、誰を見ていたかで、結末が変わる!
歌い踊るアイドルたちの荷物持ちを引き受けてあげる優しいあなたは、夏の思い出を共にする仲間になる…。

アイドル達の荷物持ちという設定ゆえ、アイドル達との(物理的な(VRなのに物理的とは…))距離が、限りなく近い。この近さこそが本作の特徴でしょう。ほんとうにすぐ近くまで来てくれるんです。わたしとアイドルとの距離は、10センチもないくらいに近づく。
この近さは、設定されたシチュエーションにおけるコミュニケーションのあり方として成立しているものです。その意味でとても自然な近さなんです。単にロリコンユーザーの欲望を満たすための近さではない。
だけど、どこか「触れちゃいけない感じ」がある。このシチュエーションだとさりげなく触れるほうが自然な場面もあるのかも知れない。それでも「触れちゃいけない感じ」がある。果てしなく幸福な風景が眼前に広がっているが、触れたとたんに何かが壊れてしまいそうな、はかなさがある。

VR空間に生きるCG美少女というのは、VRで体験した人ならわかると思いますが、そこにいる、こちらを見ている、という実在感を持っています。目の前にいる存在として見つめることができる。手を伸ばすことができる。
ただし、触れることはできない。触れたら本当はいないことがわかってしまう。だから、VRでの3DCGの美少女の実在感というのは、あるいは、触れたとたんに壊れてしまうものなのかも知れない……。
「気ままに☆サマーバケーション」で感じられる「触れちゃいけない感じ」は、一面的なものではないとわたしは考えています。例えば、美少女アイドルと観客。美少女3DCGとVRプレイヤ。幼気な女の子と「わたし」。こちらとあちらの関係性は複数の観点からつくることができ、それぞれに、別個の倫理判断による「触れちゃいけない感じ」が生まれている。ユーザーが体験するのは、複数の「触れちゃいけない感じ」が重ね合わされたものなのです。



ここで、紹介したブログ記事をもう一度参照しましょう。話を4作目の「覗かないでNAKEDハート」に戻します。浅田カズラさん記事の要点と思われる、以下の点について考えてみようと思います。

・参加して触れ合えるPV
・視聴者の手が存在する
・傷ついたハートを修復する「共同作業」が彼我の距離をゼロにする

「彼我の距離をゼロにする」という点について、わたしは別の見方をしてみたい。逆に「距離はゼロにはならない」という視点もありうるのではないかと。
確かに、手を出して何か操作して映像的な反応があること、映像に接触するとコントローラが振動することといったインタラクティブによって、こちらとあちらの距離はすごく近づいています。しかし、こちらとあちらの間には、決して越えることのできない境界もまた存在しています。

重要なのは、MVでユーザーの取れる行動は、ボタンを押す、ハートに触れる、ハイタッチする、といったごく限られた種類だということ。要するに画面に対して「許可された触り方」というものが厳密に設定されている。何でもかんでも好きなように触って、そのすべてにレスポンスがあるというのではありません。特定のシーンで、特定の事物にしか触れられない。ユーザーの入力はほとんど完璧にコントロールされています。
有効な行動が限定されているという性質が、インタラクティブな体験によって無くなったようにも見えるこちらとあちらの境界として生きている。線引きがなされているから、決まったやり方でしかアプローチできないのだし、仮にそれ以外を試みたとしても無効なのです。完全に無視されてしまう。インタラクティブ性の付加により、許可の裏返しである禁止や制限といったことが、境界としての価値を持っていることが明確化しているのです。
ただし、これは余談かも知れませんが、MVとして作られて始まりがあって終わりがある、一定の時間内で進行するよう完成されている作品ですから、境界を越えないことこそが作品を作品たらしめているともいえるでしょう。好き放題に何でも触れて、すべてに反応があったのでは、予定通りに作品は進行しませんね。



さて、「覗かないでNAKEDハート」ではユーザーの「触る」という行動の方法が完全に規定されていることを書きました。この観点を、触るという操作を考慮していない、3作目の「気ままに☆サマーバケーション」にも持ち込んでみましょう。

前述したことを繰り返しておきましょう。「気ままに☆サマーバケーション」の体験には「触れちゃいけない感じ」が伴います。「触れちゃいけない感じ」は、ユーザーと彼女たちの間に成立する複数の関係性から捉えることができ、例えば、美少女アイドルと観客、美少女3DCGとVRプレイヤ、幼気な女の子と「わたし」、といったことです。
触れちゃいけない理由は、触れると何かが壊れてしまうから、です。作品を、想定された仕方で観賞した時に体験される形で、保持するために、壊してしまわないように、ユーザーの行動は制限されなくてはならないのです。
「美少女アイドルと観客」という関係性においては、観客がステージに上って好き放題やったら舞台は壊れてしまう。「美少女3DCGとVRプレイヤ」は、3DCGに手を伸ばしてレスポンスがなければ実在感が壊れてしまう。そして「幼気な女の子と「わたし」」の間には(ユーザーを成人男性と考えると解りやすいが)触れること自体が暴力となってしまう関係があります。
3つ目の例について補足すると、美少女の3DCGモデルを眺めるVRコンテンツは、もともとユーザーの如何わしい行動の可能性を考慮して、それを織り込んで作品が設計されているはずです。事実、3人のアイドルはスカートの下に1枚穿いていてパンツが見えない。そのようにプレイされると作品のコンセプトが壊れ、アイドルのライブを間近で観賞するという体験が損なわれるのですね。だからデザインとして、その行為は許されていない。パンツを覗いたり、体を撫で回したりしてはいけないし、できないようになっている。
話を戻しますと、すなわち操作に関するデザインがそのまま組み込まれた倫理の表現になっているんです。「できること」「できないこと」が、「していいこと」「してはいけないこと」とイコールになっている。それはさらに、作品のコンセプトというか世界観というかを守ることともイコールになっている。それゆえ、ユーザーには特定のタイミングで、特定のポイントにしか、触れることを許さない。

「気ままに☆サマーバケーション」ではアイドル達が至近距離まで寄ってくる。触れたくなるくらいに。手を伸ばしたくなる。でも、上で説明したいくつかの観点から生じるであろう「触れちゃいけない感じ」がある。触れたとしても、すり抜けてしまい、決して届かない。触れてはいけないし、触れられないし、そのように設計されている。「覗かないでNAKEDハート」でも、決まり切った行動しか許されていない。試してみても、実現しない。
ユーザーの作中への参入という要素を取り入れたことで、行動の許可と禁止……この作品群においては、許可されていないことは禁止されていると見ることができる……という概念が生まれています。特定の行動しか取れないということは、言い換えると、適切な行動のみ許可されているということです。ユーザーは理想的な(作品のコンセプトを壊す行動を決して取らない)参加者として振舞うことしかできない。その制限は彼我の境界の現れであろうとわたしは考えます。


これらのMVでは「一線を越えない」態度によって境界の存在が保障される。その一線とやらを越えることは設計上できないので、どうしても境界は存在してしまう。
それでも、ユーザーは自らの意思で「触らない」(「覗かない」、etc...)という態度を選ぶことができます。試してみて実現しなかったことと、試さなかったことは全然違うのです。「触らない」という態度は、歌って踊る彼女たちに、美しいまま、実在していてほしいという祈りと言えるんじゃないかな、と思います。

バーチャル美少女性を損なう

物質世界での生活が忙しくなったこと、いつも一緒に遊んでいた友人たちが忙しくなってあまり会えなくなったことで、VRChatに入る頻度が少なくなっています。そのためか、VRChatでの自己認識がちょっと崩れかけてきているのでしょうか。さいきん風邪をひいたのをきっかけに、そして思いのほか長引いていることもあり、ボイスチェンジャーを外して過ごすことが増えました。また、BOOTHで購入したいちごうさぎちゃんのアバターが気に入ってしまって、そちらのアバターを使う頻度もかなり多くなりました。
結果、「ハッカドール1号のアバターで、ボイスチェンジャーを使って、女の子っぽいしぐさで生きる」という、ずっと貫いてきた態度が、かなり希薄になっているという状況です。かといって、ハッカドール1号の身体が精神から離れてしまったのかというとそういうわけでもないようで、ただ、他のアバターを身に着けること、女の子の姿でいながら男の声で喋ること……VR世界で、非女の子性を意図的に身にまとうことへの抵抗などが、薄れてしまったのを自覚しています。「ハッカドール1号のアバターで、ボイスチェンジャーを使って、女の子っぽいしぐさで生きる」のではないふるまいをするわたしもまた、わたしである、という事実を、理屈からのみでなく実感からも肯定せざるをえないのです。

ハッカドールちゃんの身体で生きることには、かなり慣れたはずです。しかし、自分のものとして慣れてしまったこと、そしてしばらく身に着けていなかったことによって、それが借り物の身体で、大切に扱わなければいけないものであるという意識が薄れているのかもしれません。美少女としての自己の分身ではなく単に「モノ」として見てしまう視点が強くなったのか、だからある程度好きにしていいものだという意識が生まれつつあるのか、ちょっと乱雑に扱ってしまう面が出てきている気がします。
以前は、下ネタを過度に避けたり、バイノーラルごっこをして友人たちが楽しんでくれたのを、後になって思い返して、性的対象として意識されたのだと感じて悲しい気分になったりと、かなりナイーブな状態だったのですが、VRでしばらく生きるうちにそういった性的なネタや、美少女ではない自分としてのふるまいへの抵抗が小さくなっていき、今はバーチャル美少女としてはまるで失格だと思います。

そして、そうしたふるまいのうちには、他の美少女アバターを所有することだとか、男の声で喋ることも含まれるのではないかと、わたしは考えています。以前からハッカドール1号のほかにも、モンスターのアバターを持っていましたが、モンスターのアバターを身にまとうことと美少女のアバターを身にまとうことは意味が違います。ハッカドール1号をまとうわたしは美少女ですが、モンスターのアバターをまとうわたしは美少女ではありません。
だからこそ、他の美少女アバターに「これもまた美少女としてのわたしでありうる」という意識を持ち始めていることは、ハッカドール1号の身体を、語弊はあるのでしょうが「乱雑に扱う」ことを意味すると思っています。わたし自身として一度認識したものを、取り外して、別のもの付け替えるということ。いちごうさぎちゃんにアバターとして愛着を抱くということは、VRアバターが自分の一部でありながらも取り換え可能であるという事実を、受け入れてしまうということです。

声もそうでしょう。ハッカドール1号のアバターと、MorphVOXなり恋声なりのボイスチェンジャーの声は、セットになって、VRChatでのわたしのアイデンティティでした。そうすることでわたしは紛れもない美少女としての生を遂行していました。少なくともそのつもりでした。
男の声で喋ることはそれを一発で崩してしまいます。いままで美少女の声(かどうか知らないけどボイスチェンジャーの声のことです)をもって、わたしの内にわたしという個性が形成されていたのが、声が男であったとしてもなおその人物がわたしであるというなら、わたしは美少女ではないことになる(美少女の声で喋ろうという態度の話であって、ボイスチェンジャーごとの声質の違いや喋りの習熟は問題ではない)。ねこます氏が体現したような、最初から男の声で喋り、男であるけれども可愛い、美少女であるという高度な文脈とは違って、わたしは美少女の姿、美少女の声、美少女のふるまいでもって、美少女であろうとしたのですし、それがわたしにとってはVRChatでのわたしという個性でした。だから男の声で喋ることに慣れてしまうということは、わたしの精神的美少女性が失われたことを意味するのです。

余談ですが、ブログやTwitterのわたしとVRChatのわたしを紐づけることも、またVRChatのわたしの美少女性を損なうことになるでしょう。ブログやTwitterのわたしはまったく美少女ではないからです。
Twitterにはワールドやアバターの制作状況をツイートしたり、VRChatの画像や動画をアップロードしたりしていますし、それをTogetterにもまとめていますから、VRChatのGUMBASEに関係する記録として情報を得ることはできます。しかし、それらは単に記録として見るように書かれてはおらず、明らかにVRChatのGUMBASEが投稿者本人であるように読めます。
ブログやTwitterに投稿しているGUMBASEと、VRChatのGUMBASEと同一人物であるとすれば……要するに、VRChatの外側に「魂」としてのGUMBASEの「本体」が存在するという前提で他所の投稿をみるなら、VRChatのGUMBASEは美少女ではないことになってしまいます。

もちろん、物質世界のわたしは、事実全然美少女ではありません。