チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

Hop Step Sing!「覗かないでNAKEDハート」「気ままに☆サマーバケーション」

9月23日にTOKYOゲームショウに行って、講談社VRラボさんのブースで「Hop Step Sing!」というVRアイドルのMVを見ました。
最新曲の「覗かないでNAKEDハート」を丸ごと1曲視聴しました。

HMDを使ってのVRコンテンツなので、360°の視野があり、すぐそばで、美少女アイドルが3人、歌って、踊ってくれる。つまり天国ということです。
アイドルはとても可愛らしく作られていて、動きは、部分的にモーションキャプチャだったり手で付けたのだったりするようで細かく判別できませんが、目の前すぐ近くでライブしてくれる素晴らしい体験なのです。とりあえず萌え豚としてはそれだけで十分すぎるほど満足できる。

このMVでは、ユーザーの存在が設定として作品中に組み込まれている。設定については説明文を引用しましょう。

VR空間で、アイドルたちの歌とパフォーマンスを楽しむ「VRミュージックビデオ」です。
アイドル達と一緒に飛び込んだのは、世界中の傷ついたハートを治すための魔法の工場。
あなたは彼女たちのリーダーとして、一緒に世界の笑顔を取り戻しましょう!

この作品の特徴として、ユーザーには操作のための手が渡され、手はコントローラで動かすことができます。時折アイドルたちに、ボタンを押したり、アイドルとハイタッチしたり、といった簡単な操作を求められる場面があります。この仕組みが作品内への参加の感覚をもたらしています。

視聴してみて、まず強烈だったのは、アイドル達がこちらを認知してくれているという実感です。ユーザーが操作を求められることはこの実感を強めてくれることでもあります。ユーザーとアイドル達との関係は、ただ歌って踊るのを眺めるだけではなく、彼女らはこちらの存在を認め、視線を向けてきたり、手に持ったタブレットのようなものを指し示したり、ユーザーの周囲の物体を振り払ったりします。さらに、何らかの仕掛けの操作を指示し、作品の進行への協力を要求してくれる。あなたが手伝ってくれることでこの物語は完成するんだよと。
作中に登場するのはアイドル3人と、ユーザーのみ。そしてアイドル達はこちらの存在を認めている。とすれば、この世界でアイドル達は誰のために歌って踊ってくれているのか。そう、わたしだけのためにです。

ところで、途中でユーザーが操作を求められる場面があるとはいっても、そもそもそうした仕掛けの存在も、いつどういった形で参加を要求されるのかも、最初ユーザーは知りません。あくまでも、アイドル達の役割は歌って踊ることで、こちらの役割はそれを眺めることです。べつに、よし参加するぞ、という心構えで視聴するのはありません。仮に知っていたとしても、その構図は基本的には変わらないでしょう。
そんなところに、アイドル達は突然近づいてきて要求するのです。ボタンを押してください。ハイタッチしてください。だから、こちらは、ちょっと戸惑うんですよ。えっどうしよう? 幸せに眺めていたのに突然なんなんだろう? どうすればいいんですか? アイドルが(映像による誘導により)その方法を手ほどきしてくれる。このボタンに手を当ててください。このハートに触れてください。わたしののばした手にあなたの手を重ねてください。そうして、ちょっとだけ困惑しながらアイドルの指示に従って、アイドルと「共同作業」(下記の記事より言葉を借ります)する。という仕組みになっている。

本作品の良さについては、こちらの紹介記事が素晴らしいので、ぜひ読んでみてください。
Virtualブロガーさん。浅田カズラさんのブログ記事です。
v-v-tail-log.hatenablog.com
浅田カズラさんも書かれているように、もちろん、実際にVR機器で体験してもらうのが一番いいです。



3曲目の「気ままに☆サマーバケーション」も劣らず素晴らしいので、併せて紹介しましょう。

こちらも作中にユーザーの参加を組み込んでいる。こちらも説明文を引用します。

アイドルたちと一緒に夏のビーチにお出かけ!
ミュージックビデオの中にあなたも出演者として入り込めるVR第3弾。
今回は、誰を見ていたかで、結末が変わる!
歌い踊るアイドルたちの荷物持ちを引き受けてあげる優しいあなたは、夏の思い出を共にする仲間になる…。

アイドル達の荷物持ちという設定ゆえ、アイドル達との(物理的な(VRなのに物理的とは…))距離が、限りなく近い。この近さこそが本作の特徴でしょう。ほんとうにすぐ近くまで来てくれるんです。わたしとアイドルとの距離は、10センチもないくらいに近づく。
この近さは、設定されたシチュエーションにおけるコミュニケーションのあり方として成立しているものです。その意味でとても自然な近さなんです。単にロリコンユーザーの欲望を満たすための近さではない。
だけど、どこか「触れちゃいけない感じ」がある。このシチュエーションだとさりげなく触れるほうが自然な場面もあるのかも知れない。それでも「触れちゃいけない感じ」がある。果てしなく幸福な風景が眼前に広がっているが、触れたとたんに何かが壊れてしまいそうな、はかなさがある。

VR空間に生きるCG美少女というのは、VRで体験した人ならわかると思いますが、そこにいる、こちらを見ている、という実在感を持っています。目の前にいる存在として見つめることができる。手を伸ばすことができる。
ただし、触れることはできない。触れたら本当はいないことがわかってしまう。だから、VRでの3DCGの美少女の実在感というのは、あるいは、触れたとたんに壊れてしまうものなのかも知れない……。
「気ままに☆サマーバケーション」で感じられる「触れちゃいけない感じ」は、一面的なものではないとわたしは考えています。例えば、美少女アイドルと観客。美少女3DCGとVRプレイヤ。幼気な女の子と「わたし」。こちらとあちらの関係性は複数の観点からつくることができ、それぞれに、別個の倫理判断による「触れちゃいけない感じ」が生まれている。ユーザーが体験するのは、複数の「触れちゃいけない感じ」が重ね合わされたものなのです。



ここで、紹介したブログ記事をもう一度参照しましょう。話を4作目の「覗かないでNAKEDハート」に戻します。浅田カズラさん記事の要点と思われる、以下の点について考えてみようと思います。

・参加して触れ合えるPV
・視聴者の手が存在する
・傷ついたハートを修復する「共同作業」が彼我の距離をゼロにする

「彼我の距離をゼロにする」という点について、わたしは別の見方をしてみたい。逆に「距離はゼロにはならない」という視点もありうるのではないかと。
確かに、手を出して何か操作して映像的な反応があること、映像に接触するとコントローラが振動することといったインタラクティブによって、こちらとあちらの距離はすごく近づいています。しかし、こちらとあちらの間には、決して越えることのできない境界もまた存在しています。

重要なのは、MVでユーザーの取れる行動は、ボタンを押す、ハートに触れる、ハイタッチする、といったごく限られた種類だということ。要するに画面に対して「許可された触り方」というものが厳密に設定されている。何でもかんでも好きなように触って、そのすべてにレスポンスがあるというのではありません。特定のシーンで、特定の事物にしか触れられない。ユーザーの入力はほとんど完璧にコントロールされています。
有効な行動が限定されているという性質が、インタラクティブな体験によって無くなったようにも見えるこちらとあちらの境界として生きている。線引きがなされているから、決まったやり方でしかアプローチできないのだし、仮にそれ以外を試みたとしても無効なのです。完全に無視されてしまう。インタラクティブ性の付加により、許可の裏返しである禁止や制限といったことが、境界としての価値を持っていることが明確化しているのです。
ただし、これは余談かも知れませんが、MVとして作られて始まりがあって終わりがある、一定の時間内で進行するよう完成されている作品ですから、境界を越えないことこそが作品を作品たらしめているともいえるでしょう。好き放題に何でも触れて、すべてに反応があったのでは、予定通りに作品は進行しませんね。



さて、「覗かないでNAKEDハート」ではユーザーの「触る」という行動の方法が完全に規定されていることを書きました。この観点を、触るという操作を考慮していない、3作目の「気ままに☆サマーバケーション」にも持ち込んでみましょう。

前述したことを繰り返しておきましょう。「気ままに☆サマーバケーション」の体験には「触れちゃいけない感じ」が伴います。「触れちゃいけない感じ」は、ユーザーと彼女たちの間に成立する複数の関係性から捉えることができ、例えば、美少女アイドルと観客、美少女3DCGとVRプレイヤ、幼気な女の子と「わたし」、といったことです。
触れちゃいけない理由は、触れると何かが壊れてしまうから、です。作品を、想定された仕方で観賞した時に体験される形で、保持するために、壊してしまわないように、ユーザーの行動は制限されなくてはならないのです。
「美少女アイドルと観客」という関係性においては、観客がステージに上って好き放題やったら舞台は壊れてしまう。「美少女3DCGとVRプレイヤ」は、3DCGに手を伸ばしてレスポンスがなければ実在感が壊れてしまう。そして「幼気な女の子と「わたし」」の間には(ユーザーを成人男性と考えると解りやすいが)触れること自体が暴力となってしまう関係があります。
3つ目の例について補足すると、美少女の3DCGモデルを眺めるVRコンテンツは、もともとユーザーの如何わしい行動の可能性を考慮して、それを織り込んで作品が設計されているはずです。事実、3人のアイドルはスカートの下に1枚穿いていてパンツが見えない。そのようにプレイされると作品のコンセプトが壊れ、アイドルのライブを間近で観賞するという体験が損なわれるのですね。だからデザインとして、その行為は許されていない。パンツを覗いたり、体を撫で回したりしてはいけないし、できないようになっている。
話を戻しますと、すなわち操作に関するデザインがそのまま組み込まれた倫理の表現になっているんです。「できること」「できないこと」が、「していいこと」「してはいけないこと」とイコールになっている。それはさらに、作品のコンセプトというか世界観というかを守ることともイコールになっている。それゆえ、ユーザーには特定のタイミングで、特定のポイントにしか、触れることを許さない。

「気ままに☆サマーバケーション」ではアイドル達が至近距離まで寄ってくる。触れたくなるくらいに。手を伸ばしたくなる。でも、上で説明したいくつかの観点から生じるであろう「触れちゃいけない感じ」がある。触れたとしても、すり抜けてしまい、決して届かない。触れてはいけないし、触れられないし、そのように設計されている。「覗かないでNAKEDハート」でも、決まり切った行動しか許されていない。試してみても、実現しない。
ユーザーの作中への参入という要素を取り入れたことで、行動の許可と禁止……この作品群においては、許可されていないことは禁止されていると見ることができる……という概念が生まれています。特定の行動しか取れないということは、言い換えると、適切な行動のみ許可されているということです。ユーザーは理想的な(作品のコンセプトを壊す行動を決して取らない)参加者として振舞うことしかできない。その制限は彼我の境界の現れであろうとわたしは考えます。


これらのMVでは「一線を越えない」態度によって境界の存在が保障される。その一線とやらを越えることは設計上できないので、どうしても境界は存在してしまう。
それでも、ユーザーは自らの意思で「触らない」(「覗かない」、etc...)という態度を選ぶことができます。試してみて実現しなかったことと、試さなかったことは全然違うのです。「触らない」という態度は、歌って踊る彼女たちに、美しいまま、実在していてほしいという祈りと言えるんじゃないかな、と思います。