チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

仕事やべえんですよ

困ったんですよね、仕事がやばいんですよね。今回はただ私の実力不足なんですが、かなり遅れています。力が無さすぎてどうにもならない。なんですかね、できないものはできない。

 

twitterとかVRChatみたいな場所でしか人間を見ないでいるとつい忘れちゃうんですけど、この世でそれなりに生きている人間というのは「最低限の生活力のあるオタク」とか「趣味の領域で異常な知識を持ったオタク」とか「気さくなオタク」とか「(衆人環視の中でそうさせられてしまったかのような)見栄っ張りなオタク」とか「なんか頭良さそうな雰囲気のあるオタク」ばかりではなく、もっと全然違うフィールドで立派に人生やってる、それこそ手の届かないような場所で社会貢献したり、大きな成果をあげたりしている人たちだっている。私の同級生にもいる。彼らの姿を頑張って探して見ようとしなければ見ることすらできない立場に、いつの間にか私はいる。

そういう人たちと自分を比べることは100パーセント間違っているのですが、やはり私はろくでもないのだと、いまだ何もできないカスなのだと、このごろはそんな事を確認し続けていました。

何もできないカスだというのは言い方は酷いですが、それ自体はそんなに悪いことではないと思います。自分はできの悪い人間であるということをちゃんと受け入れて生きていく覚悟はあったほうがいい。ただ単におれはダメだカスだ価値のない人間だと卑屈になるのではなく、ダメで何が悪いんだおれは好きなようにやるんだ何が悪いんだと反省をやめて開き直るのでもなく、できの悪い自分をちゃんと受け入れる、そのうえでできの悪い自分として責任を全うして生きていくということは、とても難しいし、きっと辛いことだとも思う。

まともになりたい、真っ当な人になりたい、と自分は言っていましたが、それだって見方を変えれば、自分が人として不出来であるということを受け入れられないから、得体のしれない「まとも」とやらになって不出来な自分から逃れようとしている、と考えることもできるわけです。それって自分をよりよく変化させたいという前向きな意志じゃなくて、自分が不出来な人間であるのは気にいらないと現在のあり様から目を背けているだけではないのでしょうか。つまり、自分は本当なら今よりもっとよくできたはずなのだと、ありもしない現実を夢見てるだけなんじゃないのか。

この歳で、そんな自己認識でいいはずが無いのだけれど。いろんなコンプレックスがあるんですよ。

とても無理だと思いますけど、じゃあ万に一つまともになることができたとします。その時、かつての不出来な自分のことを私はどのように見ることになるでしょうか? 不出来な他人のことをどのように見ることになるでしょうか? 「まとも」の意味も考えず「まとも」になりたいとばかり常日頃言っている奴が「まとも」になるって、そういうことじゃないんでしょうか?

 

明日、VRC少しやろうかなって思ってます。

月曜日はエヴァンゲリオンをみにいけたらうれしいなと。

 

言うまでもなく、今まで通り、twitterとかVRChatとかで、無遠慮にわちゃわちゃやるということはないでしょうが、だってそれをしていることが許せなかった訳なので、まぁ(とくにコミュニケーションを意識した投稿について)控えめにやっていくということになるわけですが(忘れて羽目を外しちゃうこともあるかも知れませんけど。いやVRChatではいつもやると思いますけど、あれは頻度の問題が大きいですから)。

twitterもVRChatもDiscordサーバもいったん捨ててみて、あるいは捨てようとしてみて、まぁいままで大事大事にしてきたものだったわけですけど(そうでもねえか)、無くなったら無くなったで生活は続くし、深く思い悩んでまで守るようなものでは全く無かったんだなということは、それなりに知ることができました(対個人の話じゃなくて、各種アカウントに紐づいた私自身の人格みたいな話をしています)。

いえ、そういうものを大事にしている人がいるのも知っています。私だってやろうと思えば大事にしようとすることはできる。こういうバーチャルな人格の一貫性を求められるケースがあることもわかります。また人によっては大事にすることでとてもいい事があるかも知れない。いい出会いがあるかも知れません。ただ、自分にしてみれば、いったん放り投げて見ればなんてことの無いものだったという発見があった、であれば自分にとってそんな程度であるもののためにエネルギーを費やしている場合ではない、また他人から求められる私の人格を維持する必要もない、というところですかね。

大事だと思っているものでも自分を縛り付けていたり、そんなに大事じゃないんじゃないかという疑いが生じるようであれば、試しに壊してみるのも中々に意味のあることかな。あんまり繰り返すことでもないですが。今回はよい発見があったと思います。真に意地を通すべきはどこかをちゃんと考えるっつう話でもありましょう。誰のためにでもない自分のために。

 

あとそうですね、関係ない話なんですけども、それなりの年齢で、VRChatやその近辺でわいわいやったことのある人なら、一度は考えるんじゃないでしょうかね。周りの人の年を聞き、生活状況をそれとなく聞き、自分に対する周囲の扱いや反応を観察して、自分はここでこうしていていいのかと。自分にとっても、他人にとっても、ただ毒になっているのではないかと。