チクル妄想工房

ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

アニマスについて

 アニマス24話の記事にたいへん示唆に富むコメントをいただき、自分の考察の甘さを実感いたしました。あれから24話を観直したり過去回をつまんで見たりして、いくつか書いておきたいことが見つかりましたので、記事にしておきます。24話の内容そのものからはちょっと逸脱する部分があります。


 765プロ集合シーンで、春香さんがふさぎ込んでしまったことの事情について千早が解説(尺の問題だったのでしょうか?)してくれたことについて。
 24話において春香さんの事情を語ったのが春香さん自身ではなく、他者である千早であったという点に注目してみます。物語のうえで千早の言葉は真実に違いないはずですし、事実僕にもそう聞こえたのですが、たとえ真実だとしても、果たして春香さんのすべてを語り切れていたのかどうかわからない(もちろん物語上すべてを語っていたことになるのでしょう)、ということです。それに、千早は名無しの一観察者ではなく、主体的に物語に関わる当事者でした。22話以降の問題に関して千早は千早なりの考えを持っていました。すなわち千早の言葉は「千早という個人が見ていた春香さん」に関するものであって、そこには千早が春香さんを思うがゆえの感情移入的な要素と、千早の心情のフィルターを通して春香さんを見ていたことによって千早自身の願望が紛れ込んでいた可能性はあります。アニマスで実際にどうだったというよりも、理屈の上では、です。物語ではそういうことが起こりうるんだってことです。


 もうひとつ、アニマスを観る上でのこと。
 アニマスには各所にゲーム版や派生作品からの小ネタが散りばめられていたのは僕にもわかりました。が、キャラの性格等がゲーム版とは違うという意見も、アニメ感想を見て回っていると散見されます。僕はキャラの名前とおおまかな性格設定を知っている程度でしたので、1話における紹介やその後の話からキャラクター像を把握していくのに適度な予備知識だったかなと思っています。
 しかし、はたしてアニマスは、「まったくの」新規参入の視聴者からみてどの程度魅力的な作品であったのでしょうか。そして反対に、視聴にあたってゲームや派生作品の設定を前提として持っておくことは有効だったのか、それとも設定のずれ・ブレが読みを妨げてしまうのだろうか。僕は幸か不幸か、ずれ・ブレを感じるほどにはアイマスのことを知りませんでした。
 たぶんアニマスだけではなく、あらゆるメディアミックス作品群を見るにあたって考えるべき問題だと思います。僕もシスプリのテキスト版とアニメ版とゲーム版をそれぞれ嗜んでいたもので、この設定のずれ・ブレは純粋な読みを妨げるのかどうか非常に気になるところです。もし自分が何も知らなかったとしたら、視聴後の感想は違ったものになっていたのだろうか?と。


 あと、まだ25話の感想を書いていませんが、アニマスが終わってしまった、ということについて。
 残念なのは、ただ好きな作品が終わったという事実だけでなく、多くの方が感想として書いたことやすべての視聴者がアニメを見て自然抱いたような、今後の展開に対する期待、そして、僕にとっては24話がまさにそうなのですが、物語内で解消されなかった疑問について、永久にオフィシャルから語られることがないということ。
 この問題は一体どう展開されるのだろう、どう解決されるのだろう、といったようなワクワク感が二度と味わえない。いま思うと、僕はやはり各話が完結するごとに、次回の展開にいろいろな期待をしていました。作品の今後の発展には読者間における直接的・間接的な意見交換しか手段がなく、読者の読みは作品を補完するものではあっても、誰の読みであろうと絶対不動の権威とはなりえないんです。だから作品の謎が閉じて結ばれることはない。あるとすれば読者が読むことを止めたそのときです。