チクル妄想工房

サークル「小公園」の仮拠点です。ガムベースの作ったものを載せたり、他人の創作物への感想を書いたりしています。

モーニング・スタンダップ

 目は完全に覚めていたけれど、僕は布団をかぶったまま、三十分くらいじっとしていた。窓の外は、衣擦れのようなかすかな雨音。下着はじっとりと汗ばんでいる。居間のほうから両親と妹の声が聞こえる。会話のなかにときどき僕の名前がまじり、僕のことを話しているのだとわかる。でも、僕は起きようとしなかった。徐々に声量の増していた合唱は、小さくなり、やがて止み、今度はテンポの速い足音に変わる。それは妹の足音だ。父はもっと重そうに歩くし、母は足を引きずるようにして歩く。僕は頭を少しだけ浮かせて枕の位置を直した。ノックがあっても、無断で部屋に入ってきても、気づかないふりをして、もう一度眠ってしまおうと思った。
 ときどき、僕はこういった気まぐれを起こすことがあった。最後に経験した日は一年前にさかのぼる。その日も今日と同じ、雨の日だった。夕方から降り続いていて、ふだんより少しだけうるさい雨に、僕はなかなか寝付けなかった。雨が吹き込まないように窓を閉めると、音が少しだけ小さくなる。僕は布団に身体を入れて、カーテンを閉めて、目をつぶった。得体のしれないこもったような音。ガラス窓の振動が絶え間なく鼓膜を震わせていた。ときどき隣から聞こえてくる、妹の寝言や、寝がえりの音の間隔が、いつもより短かった。僕はそういうとき、よほど暑いときでなければ、布団を深くかぶるくせがあった。僕の耳に届くあらゆる音のなかで、雨の音が一番大きい。妹のかすかな声に耳を澄ませながら、僕はずっと目を閉じたまま、雨の中にいた。
 雨の晩はかならず夢を見た。妹と僕は手をつないで、雨の降りしきるなか、広々とした、背の低い葉っぱばかりの草原を駆け抜けている。足元の草の雫が、巻き上がるしぶきになって、雨と混ざり合う。僕の靴の中はどうしようもなく水びたしだった。妹の自慢の長い髪は、雨をめいっぱい吸い込んで雨粒を滴らせている。雨音のなかでも妹の荒い息づかいが聞き取れる。妹は走るのが苦手だった。雨の日に外を走るなんて考えられなかった。僕たちは葉の茂った太い木を見つけると、急いで潜り込み、その根元に腰を下ろした。雨は落ちてこなかった。隣にしゃがんだ妹が、大きく息をついた。
 何時間か、僕たちは一言もしゃべらずに木の下でうずくまっていた。雨粒が地面や木の葉をたたく音だけがしている。歩いてきた草原を見返すと、どうやらそうとう走ってきたらしく、すぐ近くにあるとばかり思っていた家がもう見えない。我が家どころか、建物のひとつすら見当たらない。妹はうつろな目で足元の地面を見下ろしている。いつの間にか妹が踏み固めていたらしく、板でも貼りつけたように、妹の足の下の地面は真っ平らだった。僕が見ている前で、妹の足が動いた。怒りでも込めているかのような乱暴なしぐさで、平らな地面に、妹はスニーカーの靴底をたたきつけた。いや、裸足だった。妹はそのとき、裸足だった。僕は息をのんで彼女の行動を見守った。ふと自分の足を見る。僕はたしかに靴を履いている。
 妹のTシャツが雨に溶けて、下着を着けていない上半身が露出した。申しわけ程度の膨らみが何だかほほえましい。先っぽに見える寒さで起き上がった突起は、背伸びしているようで、僕は苦笑いした。ちらりとこちらを見てすぐに顔を逸らし、恥ずかしげにうつむく妹。こいつは今年でいくつになっただろう。歳はさほど離れてはいない。妹だけ裸にしておくのは忍びないので、僕も服を脱いだ。それから、どちらからともなく僕たちは、雨に濡れた裸の身を寄せ合っていた。胴体と、胴体を密着させる。妹の身体は雨のなかにあっても日光のように温かい。僕のズボンは水に溶け、丸裸になる。妹はゆっくりと、僕の胸に頭をうずめ、声をあげずに泣いた。妹の濡れた髪を抱きしめて、そのとき初めて、僕は妹が女であることを知った。
 ドアの前まできた足音が止まり、僕は身構える。小さなノックに続いて大きなノックがあったが、僕はそれを無視した。ドアが蝶番のきしむ音とともにゆっくりと開かれ、妹の足音が入ってくる。ベッドのすぐそばまで足音は近付いて、止まった。僕は息をひそめて、することもないので雨音を聞いていた。妹もそうしていたのかもしれない。静かだった。僕を覆っていたものが無造作にひき剥がされて、唐突に目の前が明るくなっても、僕はすぐには反応できなかった。目を開けると、妹の顔が僕を見下ろしているのが目に映った。妹は怯えたように目を丸くしている。ぴくりとも動かない。凍りついている。死んでいる。僕はあわてて跳ね起きて、妹に握られた布団をもぎ取って抱え込んだ。硬直した妹の視線が注がれる先。僕は隠すのがわずかに遅かったと知った。布団の下には、元気よく万歳をしている、夢の中で妹を犯した僕の分身が隠れている。妹がそろりそろりと巨木に手を伸ばすのが僕の思い描く夢の続きだったが、そんな都合のいい現実ではなく、健気にも兄を起こしにきた妹の目を、僕は、見ることができないでいる。